映画感想「希求としての家族」― 園子温『紀子の食卓』
背中を走る不快感、顔が引きつる様な違和感が、この「食卓を囲む家族」という形から発している。だか、この偽りの食卓の中には、彼らの見出した願いが嘘の役割を通じて語られる。「紀子の食卓」、この4人の囲む食卓には何層にも重ねられた嘘に、それぞれの希求する真実が織り交ぜられていた。
違和感の正体
「紀子の食卓」で一番不安感と不快感を募る原因となるのは、俳優たちの「素人くさいモノローグ」かもしれない。
モノローグだけではなく、その挨拶の一言、喜怒哀楽の表情ですらどこか腑に落ちないよそよそしさがある。通常私たちが、「完成された役者の演技」をとおして感情移入するための、その余地が見当たらないのだ。
この映画の中でもっとも「違和感ない」演技をしていた、と感じられたのは徹三を演じる光石研だったが、これはこういう風に言い換える事が可能ではないか。
「はじめから一番違和感なく《父》の演技をしていたのは、徹三だったのだ」
あるいは、
「家族という《演技》に何の疑問を持っていなかったのは、徹三だけだった」
という風に 。
レンタル家族・真実の《役割》
紀子とユカがかつての日常で交わしていた会話と、レンタル家族として役を演じている時の会話に、私は明確な差異を感じなかった。
長女紀子役:紀子(吹石一恵) 次女ユカ役:ユカ(吉高由里子)
実の母親を名乗る女に「母親の演技がなっていない!」と叱り飛ばすクミコも、このような「演技の白々しさ」から免れてはいない。日常の家族とレンタル家族、そこに明確な差異はないのかもしれない。「父」徹三を除いては…。
レンタル家族業者の元締めであるクミコは、自分の演技の不完全さに気付いている。「決壊ダムさん」と呼ばれた彼女のかつての同僚は《家を出て行った妻》役を全うし、《夫》である顧客の男に刺され生き絶えた。クミコもまた、自身にあたえられた役を演じ切り、その役に殉じた彼女の様な「高み」へと昇りたいと考える。
「決壊ダムさん」の死因はナイフによる刺殺。紀子とユカの母、妙子は二人の娘の失踪から心を病み、ナイフで胸を刺し自殺する。「決壊ダムさん」はレンタル家族の役としての《妻》を演じ、妙子は本当の家族の中の《妻》である。
この《妻》である二人は、共にただ忠実に完璧なまでに「与えられた役割」に殉じ、己の役割を完遂した「高みに上った」存在であるという点で共通しているのかもしれない。クミコが望むのは、否応なく与えられた役割を《自分の真実の役》として完遂することなのだ。
形だけの真実・形を凌駕しようとする偽り
そして、妙子が自殺に使ったナイフをポケットに忍ばせ、偽りの「ホームパーティ」に向けて二人の娘を「レンタル」し、家族の再生を計ろうとするのが《父》徹三である。
この徹三の《妻》であり二人の《母》役を務めるのがクミコとなる。
父徹三役:徹三(光石研)
徹三「見せつけてやる、これがパーティーだ。これこそがホームパーティだ」
母妙子役:クミコ(つぐみ)
クミコ「たとえ彼女が私の本当の母親だとしても、私の前で母親を演じられなかった素人の俳優にすぎない。素人の俳優に、母親役なんてまかせらきれない。私の方が完璧に演じきれる。」
各人の一つ一つの願望を丹念に見ていくと、この「ホームパーティ」は、真実の《父》、徹三と、真実より優れた《母》役を目指すクミコの、二人の存在を掛けた戦いの場であるという事が浮かび上がる。
当然のように訪れる狂乱、徹三の手に握られたのは《妻》妙子が自殺に用いたナイフ、「決壊ダムさん」と同じく刺殺によって息絶えた男たちの死体がその場に残った。全てが終わったように思われたが、ここで、真実の《家族》を取り戻そうとする徹三と、真実より真実の《家族》へと近づこうとするクミコの志向が、本当の・偽の、という枠組みを超えて、完全な相似の願望として一致する。
偽りの「ホームパーティ」は偽りを越えて、再開される。ここには、本当の家族・レンタル家族といった区別はすでになくなっている。4人それぞれが、それぞれの《役割》を完遂する場としてこの「ホームパーティ」が機能し、救済へと彼らを導いているのだ。
あなたはあなたの関係者ですか?
「あなたはあなたの関係者ですか?」 繰り返し問われるこの問いに答える完璧な回答は見当たらない。しかしこの問いの中に確実に含まれていると思われる、 「あなたは《誰の》関係者ですか?」 という問いに、この4人は「ホームパーティ」《家族》の食卓によって一つの答えを示していた。
「誰か」の関係者であるということ、それは心の底から生じた希求によって示されるものなのだ。彼らの関係者、つまり、《家族》たらんとする強く真に迫った想いによって。徹三の血縁者としての「関係」が無効力であったのと同じように、他人、レンタル家族としてのクミコの「無関係」さも、ここでは何の意味をなさない。ここで彼らはそれぞれ紛うことなき彼らの「関係者」になったのである。
あなたの関係者、《家族》となりたい
「食卓を囲む」というのは家族が家族であることの象徴である。徹三は作中、レンタル家族となった娘たちが囲む食卓を、「白々しい」と嫌悪を示した。この様に「食卓を囲む」ことで、それだけで他人が《家族》になって堪るか、と。しかし、徹三は気付いてはいなかった、紀子が家で過ごしていたころ、この様に「食卓を囲む」だけで、なぜ《家族》という名の誰かが自分の「関係者」になるのだろうかと、そのような疑問を抱いていたことに。
レンタル、本当の、偽の、血のつながった、演技の、というあらゆる形容を越えて、4人にはここで《家族》となり、食卓を囲んだ。ただ一度、家族という名の《関係者》になったのである。 この後4人が選ぶ道がそれぞれ異なることは最後に示されているが、それが「再生」への道のりであるならば、それは 「あなたは《誰の》関係者ですか?」 という問題にたいする回答を足場にした出発であるだろう。
あなたは、私は、誰で、誰の関係者になるのか、それは 「あなたはあなたの関係者ですか?」 という問いに立ち向かうために求める答えであるのかもしれない。