モノノ怪『のっぺらぼう』考察おまけ「夢幻の庭の花」

 「のっぺらぼう」の冒頭と終幕に現れるこの障子の図像は、どこか不気味で、一つ目の化け物のようにも見えます。

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この図像は「海坊主」の図像でも検証しましたが

 

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 「海坊主」の壁画と「のっぺらぼう」の絵t比べると、薔薇の花のあった部分に、女の赤い着物の様な布が描かれてると言う違いが見て取れます。

女の着物から顔を覗かせた、いびつな形をした一つ目の化け物、これは青白い顔に、赤い服を着た女「お蝶」に憑りついた、顔のないモノノ怪「のっぺらぼう」だと考えられます。

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表現主義 Expressionism 

 「のっぺらぼう」の背景等は表現主義をイメージしてデザインされたと言われています。*1

「のっぺらぼう」の作中において表現主義的、という分類が考えられる図像としてはまず、回想の梅の木の場面です。

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極度にビビットな梅の木と背景の配色は、ゴッホ歌川広重

「名所江戸百景・亀戸梅屋舗」を模して描いた「梅の花」を連想させます。

ゴッホは分類上はポスト印象主義の画家ですが、その感情的表現を強く表わした色彩感覚から、表現主義の画家として位置づけられることもあります。

 

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右 「名所江戸百景・亀戸梅屋舗」 歌川広重 大判錦絵 安政四年 1857年

左 「梅の花」ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ 油彩 カンヴァス 1887年

また、お蝶の内面の恐慌を表現する際に現れたこれらの場面ですが、

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原色の背景がいくつもの直線で別れた色彩の部分から成り立っており、これは抽象主義のドローネーの絵画の画面構成、あるいはその色調からして、ドイツ表現主義のフランツ・マルクの作品などの作風を参考にしているのでは、と感じました。

 

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『同時的な開いた窓(第一部、第2モティーフ)』ロベール・ドローネー  1912  油彩 56 x 46 cm グッゲンハイム美術館  ニューヨーク

右『風景の中の動物』 フランツ・マルク 油彩 1914 110.17 cm x 99.69 cmデトロイト美術館、デトロイト

  ドローネー、マルクは同じ時代を生きた画家であり、両者ともポスト印象主義キュビズムの影響を色濃く受けていました。画面を色彩によって分割する手法はそれぞれの表現方法でしたが、マルクの表現はより具象的、感情的な方向へと向かいました。マルクらドイツ表現主義の画家グループ「青騎士」がミュンヘンで開催した第1回「青騎士展」(1911年)にはドローネーも作品を出品しました。

表現主義、という区分は大まかで完全に特定できないほどの範囲にわたる形式の美術であり、概念から見れば近代~現代美術だけに当てはまるものではありません。

 広義には、グリューネバルト、アルトドルファー、デューラーなどのドイツ・ルネサンス絵画、あるいはゴッホムンクらの近代絵画に至るまで、非自然主義的な描写によって、内面的な感情表出や主観的な意識過程を外的な世界観の歪みによって強調するような芸術の傾向のこと。

 

また、表現主義、と言う用語に関しては

 時代的には、それ以前の印象派やポスト印象派とは逆の語義(Impressionismに対するExpressionism)を持つことが意識されていたことになる。

 

 とあります。

Impression(印象)ではなくExpression(表現)、外界の自然を印象として画面に落とし込むのではなく、内側の感情を外側の世界にある画面に表現する、この様に印象主義に対立する形として「表現主義」という名付けがされたのです。

内面的・主観的な感情表現に重点をおいた美術が、「のっぺらぼう」のイメージであるという事、それはどういう意味を持つのでしょうか。

夢幻の庭

 「のっぺらぼう」の中で繰り返し現れた、夢の様な淡い色調の庭。

梅の木も、ここでは青、赤、黄と原色が混ざった、現実にはありえない色をした枝を広げ、点々と花を咲かせています。

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この色調は、抽象表現主義の旗手、カンディンスキーの「インプレッション」 
インプロヴィゼーション」シリーズに近いのではないのかと感じます。特にこの、「愛の庭Ⅱ」と副題のついた『インプレッション27』を連想します。

 

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 ワシリー・カンディンスキー『インプレッション27(愛の庭Ⅱ)』, 1912, 油彩、120.3 x 140.3 cm メトロポリタン美術館 ニューヨーク 

「のっぺらぼう」でお蝶が繋がれていた牢、嫁ぎ先の勝手場、お蝶の実家の部屋は、全てお蝶が「心の牢」とした内面世界である、という考察は前回の「のっぺらぼう」考察で提示しました。

では、お蝶と狐面の男が逃避行をした、あの淡い夢の様な梅の庭はどこなのでしょう。

薬売りが牢の中で狐面の男と遭遇した時、

「構いません、心の音の優しいモノノ怪もいるはずですから」

と言う言葉をお蝶が口にした途端、

「聞いたか、夢幻の摂理は我にあり!」

と、言った狐面の男によって、薬売りは顔を奪われてしまいます。

夢幻の摂理、とは、あの世界が全てお蝶の記憶から作られた世界であり、全てゆめまぼろしから構成されていたことを暗に示していたのではないでしょうか。お蝶が信じた真によって、あの世界の力関係は変わり、そのために牢では薬売りは劣勢に、母親の登場でお蝶の心が乱れた時には、薬売りが優劣となったのです。

あの淡い梅の庭も、すべて彼女の心の牢の一部であり、内面世界を映した心象風景だったのです。薬売りが牢の中で取り出した天秤ですが、その天秤の音はあの梅の庭でも、彼女の婚礼の部屋でも聞こえてきます。薬売りの顔を奪い、牢から抜け出し、梅の庭へと逃避行へ繰り出したお蝶と狐面の男ですが、場面が入れ替わろうと、それはすべてが同じ、牢の中の出来事だったのです。

 「のっぺらぼう」のどこからどこまでが現実世界で、どこからどこまでがお蝶の内面世界であるのか、それは見る人によって解釈が変わってくるのだと思います。

一つの見方ですが、何度も現れる勝手場で食器を落とす場面、婚礼、母とのつらい稽古の場面は、全てお蝶の過去の回想であり、「のっぺらぼう」は冒頭の牢獄での対面から終幕の「誰も…いない」、という薬売りの場面まで、すべてがお蝶の内面世界の話であったと私は思います。

ayakashiの『化猫』から、『座敷童子』、『海坊主』のそれぞれが、「外からやって来た薬売りが、モノノ怪の形を見定め、真と理を明らかにする」形式でしたが、「のっぺらぼう」では、最後までモノノ怪の形を見定めることが出来ませんでした。それは、「のっぺらぼう」がおもてを失くしたモノノ怪であったからですが、全てが内面で起きた出来事であり、その内面の真と理すら偽装したお蝶に対しては、いつもとは逆の手順で、モノノ怪に対し真と理を自覚させることでしか形を暴けなかったのです。

「実に、面倒くさい、モノノ怪だ」

とは、回りくどい手順を踏まなければ形を暴けない「のっぺらぼう」を揶揄したのでしょう。

そして、「のっぺらぼう」では部外者として、薬売りが「外からやってくる」部分が省かれたまま、物語が始まっているのだと考えられます。

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おそらく、薬売りは現実世界でモノノ怪に憑かれたお蝶を見つけ、その内面世界に接触を試みた結果、あの冒頭の牢に辿り着いたのでしょう。

これまでの物語で用いられていた、モノノ怪の持つ内面の真理を、非現実的な画面の描写によって外側に伝える、という手法とは逆に、表現主義的なイメージを意識した、という「のっぺらぼう」の背景画では、Expressionism、と言う様に、お蝶の内面的・主観から背景その他のイメージを構成し、お蝶の主観によって「現実」が規定され、物語世界の最初から最後までを覆っていたのです。

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「のっぺらぼう」の作った因果を断ち切られ、お蝶の魂が自由になった、というのは「鶯が飛んだ」と言う象徴によって示されましたが、「外の世界」のお蝶はどうなったのか、それを知るすべはありません。ただ、最後の場面に現れた「外側」の世界のの空は、お蝶がずっと見続けていた空と、同じ空です。

現実世界に戻ってきたお蝶が、そこでどうしたのかは作中で示されていませんが、「牢から見ているだけでよかった空」を「外から見ている」と見れる最後の描写は、モノノ怪を斬った事で、彼女の中で「ここから出たい」という変化が確か生じたと解釈するに足るのではないでしょうか。

あの大立ち回りも、お蝶の一生の寸劇も、全てがお蝶の内面世界の出来事であり、モノノ怪を斬った事で起きたお蝶の現実の変化というのは、実際には些細なものであったのかもしれません。しかし、人の内面世界で生まれる情念はモノノ怪を成すほどに強いものであり、お蝶のみならず、そこは淡く美しい庭での逢瀬や、攻撃的な色彩で彩られる凶行などが絶えず行われている場所なのでしょう。

お蝶が外の世界から見た空、それから始まる人生によって、彼女の内面世界もまた大きく変化し、あの美しい梅の庭の光景もまた色を変え、移り変わっていくのだと思います。

 

 

 

完全版・夜の画家たち―表現主義の芸術 (平凡社ライブラリー)
 

 

広重 名所江戸百景/秘蔵 岩崎コレクション

広重 名所江戸百景/秘蔵 岩崎コレクション

 

 

*1:wikipediaより脚注1、2