「私とあなたの境界はどこにある?」―読書感想文・梨木香歩『沼地のある森を抜けて』
先祖伝来のぬか床にまつわる、摩訶不思議な存在の物語、と言うと、ささやかな心温まる内容を想像するかもしれないが、この『沼地にある森を抜けて』は、酷く内面的なテーマを扱っていながら、途方もない広大さを持つ物語である。
自己言及と、自分の意思を越えた大きな流れは決して無関係なのではなく、内側から外の世界を凌駕してしていくのだ、と考えられるほどに。
自分が女であることに対して不確かな気負いを感じているラボの研究員、久美は、叔母時子の死後、家に代々伝わるという「ぬか床」を託される。毎日儀式のようにその「ぬか床」をかき混ぜているうちに、その中から人間の形をした、「沼の人」と呼ばれる異形の人々が現れるようになる。
克服できぬ確執
繰り返し描かれるのは、久美の家系に姿を変え形を変えながら幾度も絡みつく「確執」ともいうべき「何か」である。この確執は、ある特定の事象をさすのでなはく、深い痛みを伴なう、抗いようのないしがらみとして、立ち現われてくる。
主人公の久美は、彼女を取り巻く確執の痛みを受け継ぎ、体感する役割を持っている。それは梨木香歩のデビュー作『裏庭』において、祖母、母から傷を受け継いだ主人公、照美が請け負ったものとも通じる。『裏庭』の照美と『沼地のある森を抜けて』の久美はそれぞれの物語において、自分たちを縛っている確執の正体を知らないまま、その傷の痛みを癒す術を探し求めてゆくのだ。
かつてぬか床の持ち主であった時子叔母も、この不明瞭な確執に絡め取られた一人である。この確執は、ぬか床を巡る家のしがらみだけではなく、婚約者の男、山上が持つ利己的な本能、という二つの糸から成っている。
自分の遺伝子が、問題のある遺伝子(!)とシャッフリングされるのはいやだ、と言うのは、いかにも遺伝子第一主義者の、考えそうなことではないか。そして無意識のうちに、ほとんどの人間はこの、「遺伝子第一主義」のために、個、人、を犠牲にしているのかもしれない。
時子叔母は、群れ、というより、他者の幸せをおもんかばっているのだ。それに比べて山上は、自分イコール遺伝子、なのだ。
時子叔母は、心に絡みつく山上の遺伝子第一主義ともいえるナルシズムから逃れることが出来ず、ぬか床の見せる呪縛によって命を落としてしまう。
○月○日
卵にひびが入った。中から、泣き声が聞こえる。男の人だ。信じられない事だが、たぶん、いえ、きっと、山上さんだ。彼は数年前癌で亡くなった。あの、自信たっぷりの山上さんがなぜ泣くのか。しかも、こんな女々しい声で。
ぬか床の持ち主には、その者の確執の因子と呼ぶべき「何か」が形を伴なってやってくる。そのすべてが、ぬか床から生まれた存在である。
久美の元に現れた確執の因子は、粘着質で意地が悪くそれでいて哀れを感じされる顔の無い女、「カサンドラ」。彼女の眼は顔にはなく、空をとび、洗面台の壁に張り付いて久美をいやらしく見張っている。「旧時代の女」の陰の部分を体現したかのようなカサンドラの発する言葉は、久美の持っている無意識の傷を無遠慮にえぐり出す。
――やっぱり、子供も産まずに朽ちていく身体だね。いったとおりだ。
――思い出した、あんたはこういったのよ。おまえのような不細工な娘は、結婚も出来なければ子供も産めるわけがない。それなのにそうやって体は妊娠の準備をする、って嗤ったんだ。
久美、時子叔母の持つぬか床を通じた奇妙な縁で結ばれたのが、酵母研究を生業とする「フェミンに過ぎない男」風間さんだ。
家長制度のナルシズムに嫌気がさし「男であることを意識的にやめ」、「無性であることを選んだ」という風間さんの生き方には多少の疑問が残るものの、とても魅力的だと考える久美だが、この物語においてこの「無性」と言う選択はあくまで提案、あるいはせき止められない大きな流れに対する無力な抗議として扱われているように思える。
白銀の草原で起こる幕間劇
隔絶された「シマ」無数に存在する「叔母」たちと、同じく無数の存在としての「僕」たち。ぬか床を成す酵素のように、風間さんが傾倒する粘菌のように、同一個体としての複数の身体を持ち、それによって成り立つ「シマ」のシステム。この別の時空の物語は、ぬか床の故郷であり、久美たちの祖先が生きた古い島の集落との相似でもある。少年の姿をした水門の番人「ロックキーパー」が長い間守ってきたという安全圏のシステムを破り、破滅のリスクを伴いながら「恋」と言う大いなる目的を求めた「僕」。この「僕」に、「ロックキーパー」は彼が持つ真の名を教える。
これが僕たちの、すくなくとも僕の望んだ確実さだったのだろうか。しかし、抗いようのないこの流れの強大さこそ、「確実」そのもののように思えた。
扉をあけ放ち、内部から漏れ出し、境界線を侵し、融合すること。それは生命を賭した進化への道筋であるのだろう。しかし、この事実と時子叔母の持つ、個として他者を労わろうとする想いや、風間さんの拒む家長制のナルシズムの確執は完全には解消されない。それは棘として残り続ける。大いなる流れの中では、この棘など、些細なしがらみに過ぎないのだろうか?
膜・ウォール・他者と自分
自己規定、膜、壁、ウォール、それは内と外を隔て、内と外を作る自己と他者を作る。外界と内界をつくる。
ナルシズムも、生を固定化することも、無性を標榜することも、全てが「膜」をつくることになるのだろうか。自己規定と言う膜の中を生きる私たちが防壁を捨て去る時、新しい価値を持つ可能性が生まれる。
久美が太古の植物と夢想した「弧」は、大いなる孤独の種子であり、ウォールに囲まれた「個」と結びつく事で芽吹く。個を捨てよ、というのは正しくない。「孤独」と「個別」はこの物語において常に表裏一体で不可分であり、善悪で推し量れるシステムではないのだ。「個別性」それ自体が完成された形態ではなく、「孤独」によって衝き動かされた「恋」と呼ぶべき無謀な生命活動が、やがて「個別」の膜を破り、自己と他者の境界線を失くす。
背負わされた確執、遺伝子と自由意志、それらを広大なマクロの問題として捉えたとしても、個を維持するための私たちの苦しみ、不可避な不条理は解消されるものではない。巨視的に見た場合、私たちの傷の痛みは決して無駄ではない必然なのだ、と提言されても、この超越の全てを受け入れることなどはできないし、その必要もないのだろう。その答えは、物語の冒頭においてすでに示されていたこの言葉に集約されるだろう。
私、本当いうと、わからないの。
こんな酷い世の中に、新しい命が生まれること。
それが本当にいいことなのかどうか。
それが「本当にいいこと」なのか、それは誰にもわからない、有限の生を持つ一つの個体である私たちには決して「わからない」ことなのだ。
「わからない」とは、決して不誠実な態度ではない。示されているのは、確執と超越の隔たりを埋める「解決」ではなく、風間さんが望んだような「克服」でもない。長考の末の答えの「保留」こそが、この物語によって提示できる、もっとも真摯な解答であるのだろう。

