映画『マグダラのマリア』/魅力的で呪われてないユダ、伝道師マリア

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"Mary Magdalene" FocusFeatures

エスの弟子で復活に立ち会ったとされる聖女マグダラのマリアが主人公の伝記映画。マグダラの地で抑圧された生き方をしていたマリアがイエスと出会い、その死後に教えを広める伝道に向かうまでの物語を描いている。

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娼婦ではなく弟子としてのマグダラのマリア

マグダラに住むマリアは、とても敬虔で聡明な女性だ。村の女たちにも信頼されていた彼女は父の命令で結婚を急がされる。彼女は心の中に住む神に忠実に生きたいと思っているのだが、それを言語化する術を知らないので父や身内の男たちはマリアの行動を「恥さらし」とか「悪霊に取りつかれている」と言って問題視してしまう。

マグダラのマリアは娼婦だったんじゃないの?と思う人もいるだろう。だが、マグダラのマリアが娼婦で罪深い女だったという解釈は西方教会が女性を下位に位置づけるために作らせたという説がある。この映画のようにイエスに導かれたマグダラ地方の一人の女性でありイエスから信頼を得ていた弟子の一人、という方が史実的には誤りが少ないと思う。

新約聖書外典研究なんかでは、マグダラのマリアが他の弟子と同等の地位にいるという描写もあり、現在マリアの地位はかなり回復されている。映画ではその辺が正確に描かれていたと思う。日本では荒井健氏の「ナグ・ハマディ写本」の研究で明らかにされているので参考にどうぞ。

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マリアは「女性として家族の期待に添えない」「昔から悪霊は私の中にいる」と苦悩するが、評判の預言者として訪れたイエスは、マリアが感じているのは悪霊ではなく神であると説き、彼女の悩みを祝福に変える。この時から、マリアは自分の中の体感を言葉にできるようになる。

内的な信仰の伝道師

マリアは、ほかの男性の弟子にはなかった徳を持っている使徒として描かれる。

 マリアは出産で苦悩に悶える少女の痛みから目をそらさず、他者の苦痛を受け止められる強さを持っている。また水中に身を任せる感覚を「神とともにいる感覚」として捉えるなど、自分の生きる体感を以て信仰を知ろうとする。

これらのマリアの徳は、イエスの処刑を「神の国を呼ぶことに失敗した」と捉え、目をそらしてしまった弟子の行動と、内面的な変革ではなく実際にローマの圧政を滅ぼしてくれるとイエスに期待してしまった弟子たちの躓きと対になっている。

マリアは、具体的な奇跡ではなくイエスの言葉が「内面的な変革を経てこそ心の中の神の国に至れる」と理解していたただ一人の弟子だった、と言うことがわかる。

作中の描写を見れば、イエスは使者を蘇らせたりという奇跡を起こしている一方、被差別者だった女性たちの内面的な変革を手助けしている。

エスは女性たちに、女たちを支配する男たちの方が憎しみに囚われており、虐げられる女たちこそが憎しみを退けることができると話す。男たちはイエスの奇跡ばかりを求めていたが、マリアと女たちにとっては生きる上での内的な変化を促したイエスの言葉こそが現実的な助けであったのだろう。

こうした神の国への内なる道のりを理解する素地があったマリアだからこそ、イエスの死と復活を見届ける証人になることができた、という経緯を描いている。

可愛げのあるユダ、人らしいイエス

監督のガース・デイヴィスはDVD収録のインタビューで「神格化された聖書人物を人として描く」と言っていたが、それは権威主義にとらわれていないマリアの目から見た物語ということと重ねると、より深く味わえると思う。

使徒のリーダー格であるペテロは頼りになるのだが、一方で固定観念にとらわれた男性として描かれる。マグダラのマリアの才覚を認めてはいるがイエスがマリアをひいきするのを嫌がり、マリアの信仰を「現実的ではない」と拒否する。聖書を読んでいてもペトロの権威主義的な部分はかなり目立つのだが、映画のペトロは一枚岩な性格ではなく(ペトロ=岩だけに)、イエスやマリアを信じたいが自分の偏見を乗り越えられない存在として描かれており、そこにも深みがあると思った。

エスの運命を知る聖母マリアも登場する。神格化されたマリアはカトリックでは「神の花嫁」という面が強調され、聖画の中では若い女性として描かれることが多いが、このマリアは普通の中年女性である。イエスの受難を知ってはいるが、あくまでイエスを「自分の息子」として愛している。やたら処女幻想が仮託される表象としてのマリア像を考えると、かなり人らしい母親のマリアで好感が持てた。

そして、とにかく人間味が強調されていたのがイスカリオテのユダである。

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”Mary Magdalene”Focus Features

アルジュリア系フランス俳優のタハール・ラヒム演じるユダが非常に人間味ある純朴な青年として描かれていて、ここまで負の要素がない魅力的なユダはこれまでいなかったんじゃないかと衝撃を受けた。

エスを売ったユダは、狡猾で金の使い方に厳しい悪魔的存在として語られることが多いが、「マグダラのマリア」のユダは明るく愛すべき人物である。彼はローマの重税が原因で妻と幼い娘を失っており、神の国の到来によって家族と再会できると信じ、救世主としてのイエスを慕っている。女の使徒の参入に難色を示していた他メンバーと違い、マリアに対しても親切で人懐っこい。熱狂的にイエスを慕いながら使徒のムードメーカー的な存在でもあるというのは「熱心党のシモン」と年少で愛された弟子、使徒ヨハネがユダとミックスされた造形ではないかと思った。(作中にシモンとヨハネは未登場)

マリアの目から見たユダというのは、ちっとも呪われた人間ではない。

ユダは純朴に神の国の到来を信じており、その動機は「死んだ家族に会いたい」という一途な願いである。彼はあまりにポジティブに救世主イエスを信じ、自分の死の運命に苦しむイエスの本心に気付けない。他の使徒たちは政治的な意味でイエスを王にしたがっていた節があったが、ユダは「死者と会える神の国」を本気で望んでいた。イエスを役人に売ったのは、恐れるイエスに本気を出してもらおうと先走ったためで、彼の中に悪意はなかった。

聖書では最後の晩餐でユダの裏切りの予告がされるが、映画の中ではそのシーンすらない。徹底して「ユダが純朴な故に過ちを犯してしまった」、という描写がされている。

ユダと対話したイエスも、彼の願いをかなえてやれないことに苦しんでいる。ここに裏切りとか罪、という雰囲気はない。

このユダの描写は宗教紛争やテロなど世相を反映した描写と考えることもできるかもしれない。決して悪意があるわけでない純朴な若い信仰者が行き違いで悲劇を生んでしまう。元から呪われた存在が引き起こす罪よりもよほど普遍的で、悲しみが深いともいえる。

ホアキン・フェニックス演じるイエスも、神格化された神の子でなく一人の誠実な伝道師、という側面が強調される。イエスは自分の死の運命を恐れており、神殿で大暴れしたのも、殺される羊たちの血に自分の見た未来を重ねてしまったからである。言葉を使って内的な神の国を実現したいと望んでいるが、弟子たちが自分を王としたいことも分かっている。マリアから見たイエスは、世界の王ではなく運命に苦しむ師だった。

十字架刑に対する苦痛と絶望が強調される描写はパウロの十字架の逆説とかが原典なのかなとも思った。

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内なる神との出合い方

マリアは、使徒たちに「私たちが変わらないと世界が変わらない」と伝える。それがイエスの死によってマリアが知った神の国の到達方法だったからだ。

最後に「君は神の国はどんなものかと聞いたな」と復活したイエスがマリアに問うシーンがあるが、マリアは言葉ではなく朗らかな笑みで答える。マリアは神の国とはマリアが生きている世界であり、心の中で神やイエスと出会うことのできる今現在だということを知ったのだ。

「それは種に似ている。一粒の芥子種だ。女はその種を庭に蒔く。それは大きく成長し、大きな枝を張り、そこに鳥が巣を作る」

とマリアがラストシーンと冒頭でつぶやいた言葉はマタイによる福音書13:31–32に出てくる言葉で、イエスが天国とは何か説く際の説明だ。

使徒たちと別れたマリアを見つめるのは、これまでイエスが内的に心を救った女たちと母マリアであり、内的な神の国を作り上げていけるのは、彼女たちなのだということを示している。

ペトロは政治的な意味で圧政から解放されたユダヤの王国を「神の国」だと考え、ユダは死者と会うことのできる彼岸の国を「神の国」だと思っていた。マグダラのマリアがイエスから受け取った「神の国」は世俗的な国とも死の世界とも違う、ある意味両者の中間にあるようなものである。現実の中に神を見出していく、というバランサーとして考えができるマリアだからこそ、生きながらにして復活したイエスと出会うことのできる「復活の証人」になれたのだ。

内的な伝道師としてのマグダラのマリア、人間らしいユダとイエスを描くことで聖書の物語を普遍的な人間ドラマに落とし込むことができた作品だ。イエス使徒たちと仲介者でもあるマリアの態度を通して信仰の内側に起こる分断をほぐしたい、みたいなメッセージもあるなと思った。