『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』感想、「因習村ホラー」でなく「われわれの側」の邪悪と希望を描いた快作

ホラー邦画『犬鳴村』を思わせるトンネル、遺言状開示から始まる『犬神家の一族』なんかをもろ彷彿させる導入……。このあたりの描写から横溝正史風「因習村ホラー」という口コミが広がっていた『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』(以下『ゲ謎』)。

映画を見た初見感想では「これ、いわゆる"因習村ホラー"に見せかけて全然違う話だ」と思いました。

そもそも「因習村ホラー」ってなによ?

「因習」って田舎の未開文化にいる人たちが、近代化されてないが故の無知により信じてるおかしな風習・掟のことを指すと思います。『八つ墓村』だと「それは中国と山陰との境にある、因習と迷信にこりかたまった村である」という描写があるそうで。洋画だと『ウィッカーマン』などのfolk horrorジャンルが有名です。

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その年の生贄を決める村の風習を書いたシャーリィ・ジャクスンの『くじ』も類型です。ですが、これは100年前の小説なんで、現代ホラー作家は同じような「因習」を考えなしでは書きません。地方や未開と見なした共同体への差別になるので、今描くなら、もっと現代コミュニティよりの悪意・恐怖をテーマにします。

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なので、テンプレ的「因習村ホラー」って実は中々ないんですよね。アリ・アスター『ミッドサマー』も異教カルトの共同体の話ですが、これもただテンプレ的に邪教の因習を描いているわけでなく、古典のfolk horrorを換骨奪胎する作品でした。

『ゲ謎』も同じく「因習村ホラー」のガワを被った別物で、むしろ村人の方が自分らを「因習にとらわれてる田舎者」と偽装してる共同体の話。地方=未開・他者という風には位置付けてない、かなり巧妙に考えられている設定でした。

描かれているのは「人を踏み台にするシステム」そのもの

物語の舞台は、政界にも強いパイプを持つ龍賀一族の生家とされる「哭倉村」。龍賀一族は戦時中に極秘に使用されていた、不死身の兵士を生む血液製剤「M」によって財を成した一族。その当主の死の一報を聞きつけ、遺言状開示に立ち会おうとする帝国血液銀行担当者・水木。そんな彼が、妻を探す謎の男(鬼太郎父、以下ゲゲ郎)と出会い、血液製剤に絡んだ陰惨な連続殺人事件の謎を解き明かしていく。

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このあらすじだけ見ると横溝正史作・市川崑映画のまんまですが、起きる事件とその顛末も「未開な地で因習に浸る人たちを成敗する」という単純な話ではなかったです。哭倉村で実際に行われてるのは村の中でだけで完結する因習でなく、弱者を搾取して富国強兵や経済成長の一端だったから。

呪いを司る龍賀一族がやってることは、鬼太郎の一族である幽霊族の血と、被験者になる貧乏人たちをつかった人体実験。これで不死の血液製剤を作り戦争に貢献した一族の村なので、時代錯誤で無意味な迷信に従ってる人たちではない。自分たちのやってる悪事に自覚的で「弱者を犠牲にして利益を生むシステム」を維持してる村なんです。

だから因習村の人たちが意味不明な迷信を信じてる、というホラー展開と違い、実態としては人権無視の企業と社員たちのような近代的な悪事をやってる。あと「科学発展のためなら人間以下と見なした者の命を使い捨てていい」という姿勢は、人体実験で医療の進歩を目指してたナチス731部隊とかの有様にかなり近い描写だと思いました。

(人体実験工場の有益性を説いてる描写は、「アーリア人の進歩のためにユダヤ人使って人体実験しよう」みたいなことを言ってるナチス医師の手記を思い出してかなり嫌でしたね)

 

忌まわしい近親相姦も邪悪な利益循環システムの一環

霊力の強い龍賀一族の娘は濃い血を作るために、父・祖父と交わる掟があり、それが物語後半で暴露されます。これも「因習村あるある」で片づけるのは違うかな、と思いました。(顔見知りの女たちがみんな一人の男の子を身ごもってる、というのは『悪魔の手毬唄』っぽくはあった)

龍賀は呪術師ですが、「日本を世界一の産業国にする」という富国強兵思想というか、一見するとありそうな資本主義的思考に基づいて長年悪事に手を染めてます。「国の発展のための犠牲になれんだから喜べ」みたいな、搾取の正当化になること言ってくる。

近親相姦のルールも因習ではなく、「最も効率よく利益を生む術師を生む、そのスペアを用意する」という最短距離で利益を生むシステムの一環なんです。

父親と交わるという「嫌なこと」を受け入れた長女の乙米は、たぶんどっかで心が壊れてて、「自分がそういう金を生むシステムの犠牲になったんだから、他の人間や異種族が犠牲になって当然」と思ってる。「システムの中で搾取されたから、今度は自分がシステムの上位に立って搾取する側に回ってやる」という思考の中で生きてる悪役なのだと思いました。

これは、呪術が存在する鬼太郎世界だかこその、邪悪な合理性に基づいてる設定だったと思います。拝み屋が出てくる『百鬼夜行』シリーズだったら憑き物落とししてくれるんですが「呪いも妖怪もある・いるんだよ」の世界なので、呪いや妖怪を使ってガチの悪事が可能なんですね。

グルになってる村人は「われわれの側」の似姿でもある…

哭倉村は、異種族である幽霊族を狩って、身寄りのない人間を人さらいして人体実験するヤベー村。でもこの村人たち、おかしな信仰心とかでなく金と生活の安泰のために悪事に手を染めてる、って点が重要だと思います。

「傘下にいれば金儲けの恩恵受けられる」と思って一族に協力してる村人は、「捨てられる前にのし上がる」と言って搾取する側に回ろうとしてた冒頭の水木とも重なります。前半、水木の側から「ぼーっと善良でいたら使い捨てられ、奪われてしまう」というような戦争体験が語られてました。なので、「持たざる者は良い暮らしのためなら他者を食い物にせざるを得ない」も作品を通底する切実さとして響いてくるんですよね。

ラストバトルで、ラスボスから「お前に社長の椅子をやろう」と富と地位を約束された水木。彼にはゲゲ郎の存在があったから拒否できたけれど、一般村人はその懐柔を拒否できないと思うんですよ。しかも、龍賀一族は「これは国の経済成長のためなんだよ!ポジティブ!」という自己正当化の理由もくれますからね。

このあたり、サラっと流してますが、「因習村!」「未開人の悪事!」とかじゃなくて、「いや、俺ら近代人が手を染めがちな悪事+正当化の理屈じゃん」という描き方になってると思います。ごく一部の村で極悪な人たちがやってる特殊な悪事、ではないよね…現代の駄目なとこの縮図なんだよね。

なので、導入からラストの筋書きとしては「村の因習を終わらせる」という体裁を取りながら、水木たちが立ち向かったのは、「富国強兵や経済成長のために人を踏み台にするシステム」そのもの、だったと思います。

なぜ、今回戦う妖怪が「狂骨」だったのか…?

鳥山石燕の狂骨

今回、倒すべき妖怪が「狂骨」でした。野ざらしにされた骨に宿った恨みの化身と言われる狂骨は、もとは江戸時代の画人・鳥山石燕の画集にでてくる妖怪。

今回、京極堂シリーズではおなじみではあるものの、この地味な妖怪をラスボスに据えた意図がこの映画にはあるんだと思いました。私がかなり強めに連想したのは、水木先生の実録戦記漫画『総員玉碎せよ!』なんですよね。

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作中、水木の「大義のために死ねと命じられたのに、上官は一緒に死んでくれなかった」という回想シーンがあります。水木が人間への信頼を失った一因なんですが、これ『総員玉砕せよ!』に全く同じシーンがあります。『ゲ謎』水木は、『墓場鬼太郎』の水木青年が元ネタだけど、加えて『総員玉碎せよ!』のキャラクターと水木先生の戦争体験をミックスした造形なんですね。

・『ゲ謎』の水木
→玉碎命令に従い突撃中に左半身負傷、死にきれず終戦
・現実の水木しげる先生
→不完全な玉碎命令が出た後、左手を吹き飛ばされて病院収容、終戦
・『総員玉碎せよ!』の丸山(水木先生の分身)
→玉碎命令に従って死亡、骨だけの屍となりバイエンに留まる

『ゲ謎』の水木は玉砕命令後も負傷して生き延びますが、『総員玉砕せよ!』で描かれたもう一人の水木であり、水木先生の分身である丸山二等兵は命令に従って死んでいます。

ああ
みんなこんな気持ちで死んで行ったんだな
誰にみられることもなく    誰に語ることもできず……ただ忘れさられるだけ…『総員玉碎せよ!』より

漫画のラストシーンは、忘れ去られていくこと嘆いて死んでいく丸山の最期、そして玉砕で死んでいった人々の骨の集まり。見知らぬ土地で野ざらしになり、判別もつかなくなっていく屍の集合のアップ。崩れた骨、骨、骨が、鬼気迫る写実で描かれています。

『ゲ謎』映画のラスト、恨みの化身になって襲い掛かってくる骨の霊。これは『総員玉砕せよ!』で描かれた戦場の地獄や無念をオーバーラップさせるような演出になってるのでは…、と感じました。

『総員玉砕せよ!』要素を踏まえると、70年後、狂骨になった時弥が「忘れないで…」と言ったこと、雑誌記者が悲しみの記憶を引き継ぐことを誓った意味についても納得がいくと思います。

ラスボスや乙米らが「幽霊族や被験者の犠牲は、国を豊かにするために必要な犠牲」と説きますが、その発言というのは、「大義のためなら死ね」と玉碎を強いた者たちに意図的に重ねてると思うんですよね。水木が「ふざけんじゃねぇ」と、言えたのも戦後も同じことが繰り返されることに嫌気がさしたからでしょうしね。

血液製剤の使い道が、戦前=不死身の兵士、戦後=酷使できる労働力とされる想定。水木が村入りした時点では「戦争が終わっても変わらず誰かを使い捨てるシステム」は維持されていました。なので、大義のために死ねと言われて顧みられない者がいる構造や、誰かの犠牲を前提として得られる幸福そのものを水木は拒否したんだと思うんですよね。

この展開見て、『総員玉砕せよ!』で玉砕を拒んだ軍医の台詞も思い出しました。

「人生ってそんなもんじゃないですか、つかの間からつかの間に渡る光みたいなもんですよ。それを遮るものは、なんだろうと悪ですよ、制度だってなんだって悪ですよ」『総員玉碎せよ!』より

小さな村の因習、という導入をフックにして、大義のためなら人の命や尊厳を軽んじるシステム全体への批判というところまで映画の中で描かれてたと思います。

雑誌記者の山田はかなり希望として描かれてないか?

「哭倉村の村人たちはダメな部類の水木や俺らの似姿ではないか」という話しましたが、未来パートで、スクープ求めて鬼太郎を追い回してた雑誌記者も、最初はその部類のキャラだったと思います。

雑誌記者の山田、「私欲で村に足を踏み入れた」「村のヤバイ秘密を知る」「それに抗って戦う幽霊族の生き残りの頑張りを知る」という流れまで水木とコンプしてるんですよね。

山田は水木みたいにクソ度胸でないし、昭和イケメンでもないが、「自分にも悪事を再生産させないためにできることはある」と気づいた人でもある。鬼太郎だけでなく、おそらくスペック的には一番観客に近い山田も希望の一つである、って提示するの、絶望で終わらせない良い作りだと思います。

「未来への希望」と言えば、映画の中では次世代を生きる子供=鬼太郎のこと。でも、水木やゲゲ郎(+山田)が抱く希望というのは、ただ子供に願いを託すという他力本願ではない。希望となる子の未来のために、自分らはあがいてよいのだ。負けるかもしれない、何も残せないで終わるのかもしれないが、そうやって今あがくことを許されてるんだ、という希望。

 

未来を奪われた時弥と、未来を願われた鬼太郎

『ゲ謎』、きちんと「何が非人間的な思考なのか」をしっかり描いているから「自分たちはどうすれば人間性を捨てずに生きられるのか」という点まで考えられる作りになってる。

作中、私が非人間的で怖いと思ったのは「システム維持のためなら人の生殖を管理して良いという考え」と「年長者が子供を資源として考えている」というこの2つです。

① 人間の生殖を管理して搾取して良い、という考えの嫌さ

私が作中もっとも「嫌」で、映画館で天を仰いだのは、不死の血液製剤の原料となる幽霊族の血を手に入れるため、ゲゲ郎に、「お前達夫婦だったならちょうどいい、番って子供を生みなさい」的なこと乙米が言い放ったシーンです。幽霊族の最後の生き残りに、子供をたくさん作らせて血の供給源を確保しようという意図で話してました。

このとき乙米はゲゲ郎の手を切り落とせと命じてたので、本当に子を生ませ血を奪うための道具として扱うつもりだったんですよね。龍賀一族の人は、人間なんだけどみんなシステムの奴隷になるような生き方を強いられてて、そこに個人としての愛とかない(乙米と長田は内心では愛し合ってたらしいが…)。

一方、人間ではないゲゲ郎と鬼太郎母は、作中もっとも温かな情感を共有してる夫婦として描かれてました。ゲゲ郎はもともと「人間のこと憎んでた」というスタンスですが、人間を愛してる奥さんの気持ちを尊重して町暮らしてたよう。クソ強いのに、妻の命乞いのために自分は死んでも良いとも言ってる。こっちの夫婦は人外なのに龍賀の人間にはない「人間らしい愛」を全部持ってるんですよね。

ここで、「何が人間で何が人間でないのか?人間性とは何なのか」?の問いかけがなされてたと思います。

人間への信頼を失ってた水木にさえちょっと影響受けるような愛情を持つゲゲ郎と奥さん。それを文字通りただの「番」としか捉えてないあの台詞は割と吐き気を催す「嫌さ」でしたね。奥さんも幽閉されて瀕死の状態だったので、自由効かない夫妻を延命させて家畜みたいに扱うつもりだったんで、本当に「非人間化」「人間性のはく奪」の極みなんですよね。

この映画の作り手は倫理観がしっかりしてるせいか、その裏返しで「もっとも非倫理的でカスな思考回路」というのを真面目に考えて、すごい解像度でぶつけてくるので油断できない。

しかし、元をたどれば龍賀一族の女は当たり前のように父親に生殖行為を強いられ子供を産まされてきた、という背景があります。ああやって幽霊族を虐待して溜飲下げてる乙米も父親の野心を内面化するしかなかったのかも。

② 身体と人生を年長者に奪われる子供の図、という嫌さ

私が『ゲ謎』で『ヘレディタリー/継承』らしい「嫌さ」を感じたのは老衰したラスボスの魂が、孫の時弥(じつは器として娘に産ませた息子)を乗っ取った展開です。

未来がある子供を自分への生贄にする、というの、ヘレディタリーの死した祖母やペイモン教の年輩者たちがこぞってやったことなんですよね。本来成長を見守り、子供のために何かを残す側にいる年長者が、子供の人生を欲望成就の資源とする、という嫌さ。

ヘレディタリーではホラー要素マシマシ描写を入れ、『ゲ謎』だと漫画チックな表現にとどめるという配慮はありましたが、やっぱ根元的かつシンプルな嫌悪感がありました。た

これも、「幽霊族に子供産ませて永続的に金儲けしようぜ!」というカスの発想と地続きで、生まれてくる子供のこと資源としか考えてない。時弥の母も、息子について執着はありながら、最終的には一族内で成りあがる道具としての認識が勝ったのでラスボスに息子を手渡してました。

嫌さと対比するように、鬼太郎誕生の尊さが描かれてる

父親に身体と人生を奪われる時弥と、父と母+居合わせた他人である水木の頑張りで誕生する鬼太郎は物語の中で意図的に対比されてます。だから、物語の最後に対峙するのが、生きたくても生きられなかった時弥の霊なんですね。

私は映画公開前に出されたキービジュアルが大好きで、これを見て映画見に行こうと決めたくらいですが、映画見終わった後、なんでこの絵面になったのかしっくりきました。すでにインターネットのオタクが100回くらい言及してると思いますが、サイコーなので私も言おうかなと思います。

出典:『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』公式サイト

歩兵銃もった水木が血で汚れたお地蔵様の群れのそばに立つという構図。この血濡れのお地蔵様は、未来を生きる子を祝福して昇天していった幽霊族の人々、もしくは母を表してるのかな?と思いました。

お地蔵様は子供の人命を守護する菩薩だから、やっぱ、自分達は傷つき、手を汚しながら鬼太郎の生を祝福する幽霊族のみんな。またはお地蔵様はサンスクリット語だと母胎・子宮とかの意味もあったので、あの70年前は母の胎内にいた鬼太郎、を暗示してるのかも。

父たちや水木、死んでいった同族たち(または母の肉体)は血まみれだけど、鬼太郎は血で汚れていない。生まれてくる命を守護する者達の「落とし前は俺達の側でつける」「子供の未来は血塗られたものにはしない」という作中メッセージを込めてるんだろうと思います。

片眼で世界を見る、見えないものを視るということ 

この映画のテーマが、目玉の親父のエピソード0らしく「片目で見るくらいでちょうどよい」「見えないものを見る」でもあります。

ゲゲ郎が繰り返す「見えるものが全てではない」といった一連の台詞。これ、『星の王子さま』的な意味とは少し違っていて、「この世には幽霊も人間もいる」という意味と「繁栄の影には隠され虐げられた存在がある」(それに想いを馳せられるか?)の2つの意味が重なっています。

『ゲ謎』と同じ世界の鬼太郎6期のコピーが「見えない世界の扉が開く」だったので、それをさらに掘り下げて、大人の物語に合わせて来た印象。

水木が作中、ゲゲ郎と最初に邂逅するのは夜行列車の中です。そこでゲゲ郎が「死相が出ておるぞ」と告げると、水木の背後に兵士の亡霊が現れます。この時、異界に足を突っ込んだ水木が見たのがただのおばけでなく、死んでいった兵士たちというのにも意味がある。「不条理の犠牲になった者たち」「踏み台にされた者たち」の存在を、水木に気づかせる演出なんだと思います。

ゲゲ郎が水木に語る妖怪存在の説明の軸は、幽霊族の歴史です。それは超常現象の話というより、虐げられた民・被差別者視点の話でもあり。ここで言う「見えないものを見る」というのは、歴史の影に追いやられた者への眼差しを持つ、という態度も意味してると思います。

①視界が開かれた水木が視てしまったもの

序盤、水木は世捨て人風のゲゲ郎を見て「こいつは負け犬だな」と見下してましたよね。ここ水木が想定してる「負け」というのは戦争体験にルーツがあります。水木のハングリー精神の根っこにあるのは「これ以上奪われたくない」の気持ち。彼にとっての戦争体験は、尊厳を失い、仲間を失い、実家の財産を失った「敗残の経験」だったからです。

彼が「日本が経済大国になる」という未来志向の話ばかりして、出世に邁進してるのは、その敗残や罪の記憶を追いやりたいから。でも、毎日戦場の夢を見てうなされるのは、当時の記憶を忘れられてないからでもあります。

でも、ゲゲ郎と関わって妖怪を見るようになってから、水木は過去の話もするようになるんですよね。冒頭の電車で現れた兵士の亡霊たちが生きていた頃の時間軸の体験、をゲゲ郎とも共有します。これは過去を捨て去ろうとした未来志向の視点から、犠牲になった者たちへ向ける視点を水木が獲得しつつある、という過程の描写だったと思います。

水木は国を富ませるために狩られる幽霊族とか、親の生存のため搾取される子供とか、「繁栄のための犠牲」となる存在に同情し、憤りを爆発させることができたのは、「見えないものを見る」という視点が開かれてたから。

これもインターネットのオタクが言及してると思いますが、一回死にかけて左目の近くに傷を負った水木、死してなお息子のために生きようとしてよみがえったのはゲゲ郎の左目、と作中では左目に固執した描写が目立ちます。

水木先生が左手を失って生還した、というのにかけてると思いますが、映画内で左目は「生還・未来」を象徴してるんですよね。未来を閉ざされて死んでいった龍賀の人たちの多くが左目を潰されてたのと対照的。

②見えないものを視た後の人生

水木という男は、戦争で人間に対する信頼のすべてを失って地位と金で成り上がろうとしてる「高度成長期を支えた人間の典型」として登場しました。でも「見えないものに目を凝らす」心を得た結果、国を富ませ成長することで踏み台にされる存在をも「視て」しまった。

なので、村入りした前と後で、水木の人生は取り返し付かないほど変わってしまったと思います。「負け犬共なんか踏み台にして俺はのし上がるぜ!」という野心があったからこそバリバリ仕事できたのでしょうが、「見えないものを視る目」が備わった時点で彼は別の価値観で生きることになったのではないか。

あの事件を経て「負け犬ってのは人間としてのプライド捨て、弱者を踏み台にして肥え太ってる奴のことだ」と知ってしまった。事件後の水木は「負け犬組」の生き方となり、出世コースからは外れてくんじゃないでしょうか。

でも、『ゲ謎』ラストの水木は、不気味な墓場の子を、愛を持って抱きしめることができたんですよね。作中、彼は多くの変化を経験しましたが、「不気味な出自の鬼太郎を、抱きしめられる人間になれた」。これが一番大事な変化だったと思います。保身を語りながら、たぶんどっかで「自分は生きててもしょうがない」と思ってた水木が、「お前の生きてる世界を見たいんだ」という理由で救われて、希望になる子を託されたので。

戦争体験によって、水木はいやおうなく変わってしまった。短い人生の中で望みもしないまま、時代によって、罪の意識によって、変化を強いられるの苦さを何度も味わったはずです。でも、変化によって生まれるのは苦痛だけではなかったと示された。

お話しとしてはシビアで、メイン登場人物ほぼ死亡してますが、鬼太郎という希望の子の命だけでなく、主人公・水木の心も明確に救われたのだと思います。