『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』感想、「因習村ホラー」でなく「われわれの側」の邪悪と希望を描いた快作
ホラー邦画『犬鳴村』を思わせるトンネル、遺言状開示から始まる『犬神家の一族』なんかをもろ彷彿させる導入……。このあたりの描写から横溝正史風「因習村ホラー」という口コミが広がっていた『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』(以下『ゲ謎』)。
映画を見た初見感想では「これ、いわゆる"因習村ホラー"に見せかけて全然違う話だ」と思いました。
- そもそも「因習村ホラー」ってなによ?
- 描かれているのは「人を踏み台にするシステム」そのもの
- 忌まわしい近親相姦も邪悪な利益循環システムの一環
- グルになってる村人は「われわれの側」の似姿でもある…
- なぜ、今回戦う妖怪が「狂骨」だったのか…?
- 雑誌記者の山田はかなり希望として描かれてないか?
- 未来を奪われた時弥と、未来を願われた鬼太郎
- 嫌さと対比するように、鬼太郎誕生の尊さが描かれてる
- 片眼で世界を見る、見えないものを視るということ
そもそも「因習村ホラー」ってなによ?
「因習」って田舎の未開文化にいる人たちが、近代化されてないが故の無知により信じてるおかしな風習・掟のことを指すと思います。『八つ墓村』だと「それは中国と山陰との境にある、因習と迷信にこりかたまった村である」という描写があるそうで。洋画だと『ウィッカーマン』などのfolk horrorジャンルが有名です。
その年の生贄を決める村の風習を書いたシャーリィ・ジャクスンの『くじ』も類型です。ですが、これは100年前の小説なんで、現代ホラー作家は同じような「因習」を考えなしでは書きません。地方や未開と見なした共同体への差別になるので、今描くなら、もっと現代コミュニティよりの悪意・恐怖をテーマにします。
なので、テンプレ的「因習村ホラー」って実は中々ないんですよね。アリ・アスター『ミッドサマー』も異教カルトの共同体の話ですが、これもただテンプレ的に邪教の因習を描いているわけでなく、古典のfolk horrorを換骨奪胎する作品でした。
『ゲ謎』も同じく「因習村ホラー」のガワを被った別物で、むしろ村人の方が自分らを「因習にとらわれてる田舎者」と偽装してる共同体の話。地方=未開・他者という風には位置付けてない、かなり巧妙に考えられている設定でした。
描かれているのは「人を踏み台にするシステム」そのもの
物語の舞台は、政界にも強いパイプを持つ龍賀一族の生家とされる「哭倉村」。龍賀一族は戦時中に極秘に使用されていた、不死身の兵士を生む血液製剤「M」によって財を成した一族。その当主の死の一報を聞きつけ、遺言状開示に立ち会おうとする帝国血液銀行担当者・水木。そんな彼が、妻を探す謎の男(鬼太郎父、以下ゲゲ郎)と出会い、血液製剤に絡んだ陰惨な連続殺人事件の謎を解き明かしていく。
このあらすじだけ見ると横溝正史作・市川崑映画のまんまですが、起きる事件とその顛末も「未開な地で因習に浸る人たちを成敗する」という単純な話ではなかったです。哭倉村で実際に行われてるのは村の中でだけで完結する因習でなく、弱者を搾取して富国強兵や経済成長の一端だったから。
呪いを司る龍賀一族がやってることは、鬼太郎の一族である幽霊族の血と、被験者になる貧乏人たちをつかった人体実験。これで不死の血液製剤を作り戦争に貢献した一族の村なので、時代錯誤で無意味な迷信に従ってる人たちではない。自分たちのやってる悪事に自覚的で「弱者を犠牲にして利益を生むシステム」を維持してる村なんです。
だから因習村の人たちが意味不明な迷信を信じてる、というホラー展開と違い、実態としては人権無視の企業と社員たちのような近代的な悪事をやってる。あと「科学発展のためなら人間以下と見なした者の命を使い捨てていい」という姿勢は、人体実験で医療の進歩を目指してたナチスや731部隊とかの有様にかなり近い描写だと思いました。
(人体実験工場の有益性を説いてる描写は、「アーリア人の進歩のためにユダヤ人使って人体実験しよう」みたいなことを言ってるナチス医師の手記を思い出してかなり嫌でしたね)
忌まわしい近親相姦も邪悪な利益循環システムの一環
霊力の強い龍賀一族の娘は濃い血を作るために、父・祖父と交わる掟があり、それが物語後半で暴露されます。これも「因習村あるある」で片づけるのは違うかな、と思いました。(顔見知りの女たちがみんな一人の男の子を身ごもってる、というのは『悪魔の手毬唄』っぽくはあった)
龍賀は呪術師ですが、「日本を世界一の産業国にする」という富国強兵思想というか、一見するとありそうな資本主義的思考に基づいて長年悪事に手を染めてます。「国の発展のための犠牲になれんだから喜べ」みたいな、搾取の正当化になること言ってくる。
近親相姦のルールも因習ではなく、「最も効率よく利益を生む術師を生む、そのスペアを用意する」という最短距離で利益を生むシステムの一環なんです。
父親と交わるという「嫌なこと」を受け入れた長女の乙米は、たぶんどっかで心が壊れてて、「自分がそういう金を生むシステムの犠牲になったんだから、他の人間や異種族が犠牲になって当然」と思ってる。「システムの中で搾取されたから、今度は自分がシステムの上位に立って搾取する側に回ってやる」という思考の中で生きてる悪役なのだと思いました。
これは、呪術が存在する鬼太郎世界だかこその、邪悪な合理性に基づいてる設定だったと思います。拝み屋が出てくる『百鬼夜行』シリーズだったら憑き物落とししてくれるんですが「呪いも妖怪もある・いるんだよ」の世界なので、呪いや妖怪を使ってガチの悪事が可能なんですね。
グルになってる村人は「われわれの側」の似姿でもある…
哭倉村は、異種族である幽霊族を狩って、身寄りのない人間を人さらいして人体実験するヤベー村。でもこの村人たち、おかしな信仰心とかでなく金と生活の安泰のために悪事に手を染めてる、って点が重要だと思います。
「傘下にいれば金儲けの恩恵受けられる」と思って一族に協力してる村人は、「捨てられる前にのし上がる」と言って搾取する側に回ろうとしてた冒頭の水木とも重なります。前半、水木の側から「ぼーっと善良でいたら使い捨てられ、奪われてしまう」というような戦争体験が語られてました。なので、「持たざる者は良い暮らしのためなら他者を食い物にせざるを得ない」も作品を通底する切実さとして響いてくるんですよね。
ラストバトルで、ラスボスから「お前に社長の椅子をやろう」と富と地位を約束された水木。彼にはゲゲ郎の存在があったから拒否できたけれど、一般村人はその懐柔を拒否できないと思うんですよ。しかも、龍賀一族は「これは国の経済成長のためなんだよ!ポジティブ!」という自己正当化の理由もくれますからね。
このあたり、サラっと流してますが、「因習村!」「未開人の悪事!」とかじゃなくて、「いや、俺ら近代人が手を染めがちな悪事+正当化の理屈じゃん」という描き方になってると思います。ごく一部の村で極悪な人たちがやってる特殊な悪事、ではないよね…現代の駄目なとこの縮図なんだよね。
なので、導入からラストの筋書きとしては「村の因習を終わらせる」という体裁を取りながら、水木たちが立ち向かったのは、「富国強兵や経済成長のために人を踏み台にするシステム」そのもの、だったと思います。
なぜ、今回戦う妖怪が「狂骨」だったのか…?
今回、倒すべき妖怪が「狂骨」でした。野ざらしにされた骨に宿った恨みの化身と言われる狂骨は、もとは江戸時代の画人・鳥山石燕の画集にでてくる妖怪。
今回、京極堂シリーズではおなじみではあるものの、この地味な妖怪をラスボスに据えた意図がこの映画にはあるんだと思いました。私がかなり強めに連想したのは、水木先生の実録戦記漫画『総員玉碎せよ!』なんですよね。
作中、水木の「大義のために死ねと命じられたのに、上官は一緒に死んでくれなかった」という回想シーンがあります。水木が人間への信頼を失った一因なんですが、これ『総員玉砕せよ!』に全く同じシーンがあります。『ゲ謎』水木は、『墓場鬼太郎』の水木青年が元ネタだけど、加えて『総員玉碎せよ!』のキャラクターと水木先生の戦争体験をミックスした造形なんですね。
・『ゲ謎』の水木
→玉碎命令に従い突撃中に左半身負傷、死にきれず終戦へ
・現実の水木しげる先生
→不完全な玉碎命令が出た後、左手を吹き飛ばされて病院収容、終戦へ
・『総員玉碎せよ!』の丸山(水木先生の分身)
→玉碎命令に従って死亡、骨だけの屍となりバイエンに留まる
『ゲ謎』の水木は玉砕命令後も負傷して生き延びますが、『総員玉砕せよ!』で描かれたもう一人の水木であり、水木先生の分身である丸山二等兵は命令に従って死んでいます。
ああ
みんなこんな気持ちで死んで行ったんだな
誰にみられることもなく 誰に語ることもできず……ただ忘れさられるだけ…『総員玉碎せよ!』より
漫画のラストシーンは、忘れ去られていくこと嘆いて死んでいく丸山の最期、そして玉砕で死んでいった人々の骨の集まり。見知らぬ土地で野ざらしになり、判別もつかなくなっていく屍の集合のアップ。崩れた骨、骨、骨が、鬼気迫る写実で描かれています。
『ゲ謎』映画のラスト、恨みの化身になって襲い掛かってくる骨の霊。これは『総員玉砕せよ!』で描かれた戦場の地獄や無念をオーバーラップさせるような演出になってるのでは…、と感じました。
『総員玉砕せよ!』要素を踏まえると、70年後、狂骨になった時弥が「忘れないで…」と言ったこと、雑誌記者が悲しみの記憶を引き継ぐことを誓った意味についても納得がいくと思います。
ラスボスや乙米らが「幽霊族や被験者の犠牲は、国を豊かにするために必要な犠牲」と説きますが、その発言というのは、「大義のためなら死ね」と玉碎を強いた者たちに意図的に重ねてると思うんですよね。水木が「ふざけんじゃねぇ」と、言えたのも戦後も同じことが繰り返されることに嫌気がさしたからでしょうしね。
血液製剤の使い道が、戦前=不死身の兵士、戦後=酷使できる労働力とされる想定。水木が村入りした時点では「戦争が終わっても変わらず誰かを使い捨てるシステム」は維持されていました。なので、大義のために死ねと言われて顧みられない者がいる構造や、誰かの犠牲を前提として得られる幸福そのものを水木は拒否したんだと思うんですよね。
この展開見て、『総員玉砕せよ!』で玉砕を拒んだ軍医の台詞も思い出しました。
「人生ってそんなもんじゃないですか、つかの間からつかの間に渡る光みたいなもんですよ。それを遮るものは、なんだろうと悪ですよ、制度だってなんだって悪ですよ」『総員玉碎せよ!』より
小さな村の因習、という導入をフックにして、大義のためなら人の命や尊厳を軽んじるシステム全体への批判というところまで映画の中で描かれてたと思います。
雑誌記者の山田はかなり希望として描かれてないか?
「哭倉村の村人たちはダメな部類の水木や俺らの似姿ではないか」という話しましたが、未来パートで、スクープ求めて鬼太郎を追い回してた雑誌記者も、最初はその部類のキャラだったと思います。
雑誌記者の山田、「私欲で村に足を踏み入れた」「村のヤバイ秘密を知る」「それに抗って戦う幽霊族の生き残りの頑張りを知る」という流れまで水木とコンプしてるんですよね。
山田は水木みたいにクソ度胸でないし、昭和イケメンでもないが、「自分にも悪事を再生産させないためにできることはある」と気づいた人でもある。鬼太郎だけでなく、おそらくスペック的には一番観客に近い山田も希望の一つである、って提示するの、絶望で終わらせない良い作りだと思います。
「未来への希望」と言えば、映画の中では次世代を生きる子供=鬼太郎のこと。でも、水木やゲゲ郎(+山田)が抱く希望というのは、ただ子供に願いを託すという他力本願ではない。希望となる子の未来のために、自分らはあがいてよいのだ。負けるかもしれない、何も残せないで終わるのかもしれないが、そうやって今あがくことを許されてるんだ、という希望。
未来を奪われた時弥と、未来を願われた鬼太郎
『ゲ謎』、きちんと「何が非人間的な思考なのか」をしっかり描いているから「自分たちはどうすれば人間性を捨てずに生きられるのか」という点まで考えられる作りになってる。
作中、私が非人間的で怖いと思ったのは「システム維持のためなら人の生殖を管理して良いという考え」と「年長者が子供を資源として考えている」というこの2つです。
① 人間の生殖を管理して搾取して良い、という考えの嫌さ
私が作中もっとも「嫌」で、映画館で天を仰いだのは、不死の血液製剤の原料となる幽霊族の血を手に入れるため、ゲゲ郎に、「お前達夫婦だったならちょうどいい、番って子供を生みなさい」的なこと乙米が言い放ったシーンです。幽霊族の最後の生き残りに、子供をたくさん作らせて血の供給源を確保しようという意図で話してました。
このとき乙米はゲゲ郎の手を切り落とせと命じてたので、本当に子を生ませ血を奪うための道具として扱うつもりだったんですよね。龍賀一族の人は、人間なんだけどみんなシステムの奴隷になるような生き方を強いられてて、そこに個人としての愛とかない(乙米と長田は内心では愛し合ってたらしいが…)。
一方、人間ではないゲゲ郎と鬼太郎母は、作中もっとも温かな情感を共有してる夫婦として描かれてました。ゲゲ郎はもともと「人間のこと憎んでた」というスタンスですが、人間を愛してる奥さんの気持ちを尊重して町暮らしてたよう。クソ強いのに、妻の命乞いのために自分は死んでも良いとも言ってる。こっちの夫婦は人外なのに龍賀の人間にはない「人間らしい愛」を全部持ってるんですよね。
ここで、「何が人間で何が人間でないのか?人間性とは何なのか」?の問いかけがなされてたと思います。
人間への信頼を失ってた水木にさえちょっと影響受けるような愛情を持つゲゲ郎と奥さん。それを文字通りただの「番」としか捉えてないあの台詞は割と吐き気を催す「嫌さ」でしたね。奥さんも幽閉されて瀕死の状態だったので、自由効かない夫妻を延命させて家畜みたいに扱うつもりだったんで、本当に「非人間化」「人間性のはく奪」の極みなんですよね。
この映画の作り手は倫理観がしっかりしてるせいか、その裏返しで「もっとも非倫理的でカスな思考回路」というのを真面目に考えて、すごい解像度でぶつけてくるので油断できない。
しかし、元をたどれば龍賀一族の女は当たり前のように父親に生殖行為を強いられ子供を産まされてきた、という背景があります。ああやって幽霊族を虐待して溜飲下げてる乙米も父親の野心を内面化するしかなかったのかも。
② 身体と人生を年長者に奪われる子供の図、という嫌さ
私が『ゲ謎』で『ヘレディタリー/継承』らしい「嫌さ」を感じたのは老衰したラスボスの魂が、孫の時弥(じつは器として娘に産ませた息子)を乗っ取った展開です。
未来がある子供を自分への生贄にする、というの、ヘレディタリーの死した祖母やペイモン教の年輩者たちがこぞってやったことなんですよね。本来成長を見守り、子供のために何かを残す側にいる年長者が、子供の人生を欲望成就の資源とする、という嫌さ。
ヘレディタリーではホラー要素マシマシ描写を入れ、『ゲ謎』だと漫画チックな表現にとどめるという配慮はありましたが、やっぱ根元的かつシンプルな嫌悪感がありました。た
これも、「幽霊族に子供産ませて永続的に金儲けしようぜ!」というカスの発想と地続きで、生まれてくる子供のこと資源としか考えてない。時弥の母も、息子について執着はありながら、最終的には一族内で成りあがる道具としての認識が勝ったのでラスボスに息子を手渡してました。
嫌さと対比するように、鬼太郎誕生の尊さが描かれてる
父親に身体と人生を奪われる時弥と、父と母+居合わせた他人である水木の頑張りで誕生する鬼太郎は物語の中で意図的に対比されてます。だから、物語の最後に対峙するのが、生きたくても生きられなかった時弥の霊なんですね。
私は映画公開前に出されたキービジュアルが大好きで、これを見て映画見に行こうと決めたくらいですが、映画見終わった後、なんでこの絵面になったのかしっくりきました。すでにインターネットのオタクが100回くらい言及してると思いますが、サイコーなので私も言おうかなと思います。
歩兵銃もった水木が血で汚れたお地蔵様の群れのそばに立つという構図。この血濡れのお地蔵様は、未来を生きる子を祝福して昇天していった幽霊族の人々、もしくは母を表してるのかな?と思いました。
お地蔵様は子供の人命を守護する菩薩だから、やっぱ、自分達は傷つき、手を汚しながら鬼太郎の生を祝福する幽霊族のみんな。またはお地蔵様はサンスクリット語だと母胎・子宮とかの意味もあったので、あの70年前は母の胎内にいた鬼太郎、を暗示してるのかも。
父たちや水木、死んでいった同族たち(または母の肉体)は血まみれだけど、鬼太郎は血で汚れていない。生まれてくる命を守護する者達の「落とし前は俺達の側でつける」「子供の未来は血塗られたものにはしない」という作中メッセージを込めてるんだろうと思います。
片眼で世界を見る、見えないものを視るということ
この映画のテーマが、目玉の親父のエピソード0らしく「片目で見るくらいでちょうどよい」「見えないものを見る」でもあります。
ゲゲ郎が繰り返す「見えるものが全てではない」といった一連の台詞。これ、『星の王子さま』的な意味とは少し違っていて、「この世には幽霊も人間もいる」という意味と「繁栄の影には隠され虐げられた存在がある」(それに想いを馳せられるか?)の2つの意味が重なっています。
『ゲ謎』と同じ世界の鬼太郎6期のコピーが「見えない世界の扉が開く」だったので、それをさらに掘り下げて、大人の物語に合わせて来た印象。
水木が作中、ゲゲ郎と最初に邂逅するのは夜行列車の中です。そこでゲゲ郎が「死相が出ておるぞ」と告げると、水木の背後に兵士の亡霊が現れます。この時、異界に足を突っ込んだ水木が見たのがただのおばけでなく、死んでいった兵士たちというのにも意味がある。「不条理の犠牲になった者たち」「踏み台にされた者たち」の存在を、水木に気づかせる演出なんだと思います。
ゲゲ郎が水木に語る妖怪存在の説明の軸は、幽霊族の歴史です。それは超常現象の話というより、虐げられた民・被差別者視点の話でもあり。ここで言う「見えないものを見る」というのは、歴史の影に追いやられた者への眼差しを持つ、という態度も意味してると思います。
①視界が開かれた水木が視てしまったもの
序盤、水木は世捨て人風のゲゲ郎を見て「こいつは負け犬だな」と見下してましたよね。ここ水木が想定してる「負け」というのは戦争体験にルーツがあります。水木のハングリー精神の根っこにあるのは「これ以上奪われたくない」の気持ち。彼にとっての戦争体験は、尊厳を失い、仲間を失い、実家の財産を失った「敗残の経験」だったからです。
彼が「日本が経済大国になる」という未来志向の話ばかりして、出世に邁進してるのは、その敗残や罪の記憶を追いやりたいから。でも、毎日戦場の夢を見てうなされるのは、当時の記憶を忘れられてないからでもあります。
でも、ゲゲ郎と関わって妖怪を見るようになってから、水木は過去の話もするようになるんですよね。冒頭の電車で現れた兵士の亡霊たちが生きていた頃の時間軸の体験、をゲゲ郎とも共有します。これは過去を捨て去ろうとした未来志向の視点から、犠牲になった者たちへ向ける視点を水木が獲得しつつある、という過程の描写だったと思います。
水木は国を富ませるために狩られる幽霊族とか、親の生存のため搾取される子供とか、「繁栄のための犠牲」となる存在に同情し、憤りを爆発させることができたのは、「見えないものを見る」という視点が開かれてたから。
これもインターネットのオタクが言及してると思いますが、一回死にかけて左目の近くに傷を負った水木、死してなお息子のために生きようとしてよみがえったのはゲゲ郎の左目、と作中では左目に固執した描写が目立ちます。
水木先生が左手を失って生還した、というのにかけてると思いますが、映画内で左目は「生還・未来」を象徴してるんですよね。未来を閉ざされて死んでいった龍賀の人たちの多くが左目を潰されてたのと対照的。
②見えないものを視た後の人生
水木という男は、戦争で人間に対する信頼のすべてを失って地位と金で成り上がろうとしてる「高度成長期を支えた人間の典型」として登場しました。でも「見えないものに目を凝らす」心を得た結果、国を富ませ成長することで踏み台にされる存在をも「視て」しまった。
なので、村入りした前と後で、水木の人生は取り返し付かないほど変わってしまったと思います。「負け犬共なんか踏み台にして俺はのし上がるぜ!」という野心があったからこそバリバリ仕事できたのでしょうが、「見えないものを視る目」が備わった時点で彼は別の価値観で生きることになったのではないか。
あの事件を経て「負け犬ってのは人間としてのプライド捨て、弱者を踏み台にして肥え太ってる奴のことだ」と知ってしまった。事件後の水木は「負け犬組」の生き方となり、出世コースからは外れてくんじゃないでしょうか。
でも、『ゲ謎』ラストの水木は、不気味な墓場の子を、愛を持って抱きしめることができたんですよね。作中、彼は多くの変化を経験しましたが、「不気味な出自の鬼太郎を、抱きしめられる人間になれた」。これが一番大事な変化だったと思います。保身を語りながら、たぶんどっかで「自分は生きててもしょうがない」と思ってた水木が、「お前の生きてる世界を見たいんだ」という理由で救われて、希望になる子を託されたので。
戦争体験によって、水木はいやおうなく変わってしまった。短い人生の中で望みもしないまま、時代によって、罪の意識によって、変化を強いられるの苦さを何度も味わったはずです。でも、変化によって生まれるのは苦痛だけではなかったと示された。
お話しとしてはシビアで、メイン登場人物ほぼ死亡してますが、鬼太郎という希望の子の命だけでなく、主人公・水木の心も明確に救われたのだと思います。
進撃の巨人ファイナルシーズン主題歌「悪魔の子」に感じる危うさ 破壊願望のエモーショナルな肯定
アニメ版『進撃の巨人』ファイナルシーズンが放送中である。筆者も進撃の巨人は単行本3巻が出た辺りからの読者であり、一時期読むのは中断してたが、10年近く物語を追っていた者の一人だ。
既に物語の結末は知っており、個人的に納得できるところ・できないところ含め作品を読んできてよかったな、という結論に至っている。ファイナルシーズンをアニメ版としてどう表現するのか、思ってこれまで見て来たが、マーレ編を中心としたファイナルシーズンの前半は納得できる完成度だった。特に、戦うキャラクターを出さずに「殲滅戦としての戦争」「英雄のいない兵器が駆使される戦争」という部分に焦点を当てたオープニング主題歌の演出は非常に抑制的で好感を持っていた。
しかし、最終回に至るファイナルシーズンの後編はどうか…。個人的に漫画版の最終回を読んだ後だとかなり引っかかる部分があったので、それをまとめていきたい。
- ED主題歌「悪魔の子」の歌詞はエレンの心象風景か?
- ファイナルシーズン前半主題歌「僕の戦争」「衝撃」との比較
- 「森から出られなかった少年」としてのエレン
- ED「悪魔の子」で描かれるのも森、未来の世界
- 漫画本編と異なり「悪魔の子」はエレンを過度に英雄視していないだろうか?
ED主題歌「悪魔の子」の歌詞はエレンの心象風景か?
『進撃の巨人』ファイナルシーズン後半ED主題歌、はシンガーソングライターヒグチアイさんの楽曲である。ヒグチアイさんも『進撃の巨人』の読者の一人であり、「悪魔の子」というタイトルも『進撃の巨人』に出てくるユミルの民・エルディア人がイメージソースだと語っている。
美しい映像と共にED歌われるのは以下の部分である。ヒグチさんの美声と胸に迫るようなメロディと相まって非常にエモーショナルな気分になる一曲だ。
鉄の弾が 正義の証明
貫けば 英雄に近づいた
その目を閉じて 触れてみれば
同じ形 同じ体温の悪魔僕はダメで あいつはいいの?
そこに壁があっただけなのに
生まれてしまった 運命嘆くな
僕らはみんな 自由なんだから鳥のように 羽があれば
どこへだって行けるけど
帰る場所が なければ
きっとどこへも行けない
ただただ生きるのは嫌だ世界は残酷だ それでも君を愛すよ
なにを犠牲にしても それでも君を守るよ
間違いだとしても 疑ったりしない
正しさとは 自分のこと 強く信じることだ
引用:ヒグチアイ / 悪魔の子【Official Video】|Ai Higuchi"Akuma no Ko”Attack on Titan The Final Season Part 2 ED theme
ED映像と共に流れる歌詞は、かなり『進撃の巨人』本編をそのままイメージしたような文言が多くなっている。
特に以下の部分は、調査兵団を「英雄」と信じ人類の敵たる巨人(実は同胞の成れの果て)を駆逐するため行動したエレン、「英雄になりたい」と悪魔を殺すことを願った少女ガビをイメージしていると思われる。
鉄の弾が 正義の証明
貫けば 英雄に近づいた
その目を閉じて 触れてみれば
同じ形 同じ体温の悪魔
そして、以下の歌詞は、「自由を奪われるくらいなら他人の自由を奪う」と言い切った主人公エレン、ただただ飼殺されて生きるのは奴隷と同じだと調査兵団に入ったエレン、地ならしで世界の8割の人類を虐殺し、自身は自由な鳥となって世界を俯瞰することになった最終回のエレンを象徴している歌詞であろうと読み取れる。
僕はダメで あいつはいいの?
そこに壁があっただけなのに
生まれてしまった 運命嘆くな
僕らはみんな 自由なんだから鳥のように 羽があれば
どこへだって行けるけど
帰る場所が なければ
きっとどこへも行けない
ただただ生きるのは嫌だ
問題は、最後の以下のフレーズである。
世界は残酷だ それでも君を愛すよ
なにを犠牲にしても それでも君を守るよ
間違いだとしても 疑ったりしない
正しさとは 自分のこと 強く信じることだ
「世界は残酷なんだから」「世界は残酷だ、それでも戦え」というのは、初期から通じて『進撃の巨人』のテーマとなっていた台詞であり、絶望的な状況にあっても進撃を続ける不屈の意思というのがエレンに課せられていた作劇上の使命でもあった。
しかし、壁の外に存在していた世界を中心に描かれた「マーレ編」を経て、エレンは「自分の愛する人々を生かし、ユミルの民を巨人化する運命から永遠に解放するため自分達以外の人類を滅ぼす」ことを選択する。
そのエレンの選択は、言うならば核のボタンを握った10代の青年が、自分達の民族の平和を願い、それ以外の地球人類を根絶やしにしてしまう、という状況に似ている。漫画版の最終回では、エレンの決断が人々を巨人から解放する一つの道であったことが語られるが、それと同時に
「どうしても世界を平らにしたかった」
「壁の外に人類がいてがっかりした」
という、エレンの台詞も作中にあった。
作中では、仲間を救いたいという想いに加え、エレンの中にゆるぎない破壊願望があったことも明記されており、簡単にエレンを「自由のために戦ったヒーロー」「自分の正しさを信じた主人公」とだけ語ることを作中では赦していない。(と思う)
始祖ユミルと一体化したエレンが、悩み決断する青年の姿ではなく、「自由を奪われるなら相手を殺す」という手段を取り、「壁の外の世界を見たい」と切望していた少年の姿をしていたのも、根本的なところでエレンが正義の人ではなく「無垢な自由意志の権化」という存在であったことを示していると思う。
この最終回までの展開を踏まえると、
なにを犠牲にしても それでも君を守るよ
間違いだとしても 疑ったりしない
正しさとは 自分のこと 強く信じることだ
という歌詞は、エレンの心象風景をイメージしたものと考えると、「かなり一面的な見方しか示していないのでは…」と思えてくる。
ファイナルシーズン前半主題歌「僕の戦争」「衝撃」との比較
ファイナルシーズン前半の主題歌はどうだっただろうか。
「異質で不気味」だと言われたオープニング主題歌『僕の戦争』は、これまで『紅蓮の弓矢』などで描かれてきたキャラクターの勇姿をあえて描かなかった。
悪夢的な音楽と、ガスや空爆、軍隊のパレードなど戦争を不気味に戯画化した映像を流す、という表現方法を採用しており、国家同士の争い、一民族の浄化を目論む戦争、その渦中にいるガビとファルコという二人の子どもを中心としたマーレ編のストーリーに合致していたと思う。
また、ED主題歌の『衝撃』は、マーレの繰り広げる争いに疑問を持ちながらその渦中にいるファルコ、敵を悪魔と見なして戦うガビ、争いによって精神に傷を負ったライナーを中心とした映像で、全体的にもの哀しさが際立っていた。
僕がここにいたという証も
骨はどうせ砂として消えるのに呑まれて踏まれた仲間の声
終わりにできない理由が 僕らの背中を突き立てる
引用:安藤裕子 official channel|『衝撃』Music Video【TVアニメ「進撃の巨人」The Final Season エンディングテーマ曲】
という歌詞は、巨人に食われた後に火葬さえ骨となってしまったマルコ、拒めたはずなのに戦う選択をしたジャン、過ちを犯しながらも進撃を辞めなかったエレンの父グリシャを思わせる歌詞だ。悲痛さと内に秘める不屈さを感じさせる。
このように、ファイナルシーズン前半は殺す側・殺される側、守る側・攻める側が入れ替わるマーレ編の内容を鑑み、一方の陣営を勇敢に描くことはしない。ファイナルシーズン後半の主題歌と比べても、かなり抑制が効いた楽曲かつ映像演出になっていたのではないか?
「森から出られなかった少年」としてのエレン
『進撃の巨人』では、物語の後半から人類の争いの象徴として「森」という言葉が用いられる。それは、娘サシャをガビ殺されながら、子供たちを争いという森から出さなければならない、というブラウスさんの言葉からきている。
「他所ん土地に攻め入、人を撃ち、人に撃たれた」
「結局森を出たつもりが世界は命ん奪い合いを続ける巨大な森ん中やったんや…」「サシャが殺されたんは… 森を彷徨ったからやと思っとる」
「せめて子供達はこの森から出してやらんといかん」「そうやないとまた同じところをぐるぐる回るだけやろう」
そして、ブラウスさんの言葉を受け、愛するサシャをガビに殺されたニコロも、後に次のように「森」について語る
「みんなの中に悪魔がいるから…世界はこうなっちまったんだ」
「……森から出るんだ 出られなくても 出ようとし続けるんだ」
「永遠に続いてしまう争い」の象徴として語られる森の比喩であるが、始祖ユミルが迷い込み、原始生物の起源を接触したのも深い森のなかであり、巨人を産む巨大樹(ユグドラシル)のふもとだったことも無関係ではないだろう。単行本化にあたって『進撃の巨人』の最終回では、「エレンのその後」が加筆されている。
ミカサに首を落とされたエレンの亡骸は、物語の始まりの場所であったシガンシナ区の丘にある木の根元に埋葬された。ミカサはエレンの墓を守りながら、結婚し、家庭を持ち、幸せな人生を送ったことが台詞のない後日談として描かれる。
しかし、それからおそらく数十年か100年ほどたった後、新たな戦争が勃発しパラディ島は更地となり、長い年月をかけて、エレンの墓がある木を中心に深い森が形成される。エレンが埋葬された墓は、始祖の巨人の成分を吸収したせいか、始祖ユミルが原始生物の起源と接触した巨大樹(ユグドラシル)へと変貌していた…。
物語は、若き日のエレンのような犬を連れた少年が、エレンの埋まった巨大樹(ユグドラシル)へとたどり着き、新たに巨人が生まれることを示唆して幕を閉じる。
エレンは巨人を駆逐し、巨人化の運命から同胞を解放したいと願い地ならしを手段としたが(本音としては「ただやりたかった」もあったが)、最終的に、彼は新たに巨人を産む巨大樹の養分となってしまっていた。この描写は、何を表しているのか?
エレンは様々な思いを抱えて地ならしを敢行した主人公ではあるが、アルミンの様に争いを回避しながら人類の可能性を信じるという道は選べなかった。誰かを救うために、何十億人を殺す方法を除外しなかった。つまり、このエレンを中心とした森の描写は、ブラウスさんの言う「命の奪い合いを続ける巨大な森」からエレンは出ることはできなかった、と暗に示しているのでは、と思えた。
最終回で描かれた少年が何を求めて巨大樹のもとへやって来たかは不明だが、おそらく、この巨大樹が巨人を生み出し、世界を新たな「争いを産む巨大な森」とすることは想像に難くないだろう。
『進撃の巨人』における「巨大樹」の考察についてはこちらの翻訳記事が非常に面白く、この記事を書くうえでもイメージソースとさせてもらったので紹介します。読んでね。
ED「悪魔の子」で描かれるのも森、未来の世界
改めて、「悪魔の子」で描かれる映像について考えてみよう。「悪魔の子」のアニメーション映像では、青年エレンではなく、「少年の破壊願望と反骨芯を持ったエレン」の象徴である10歳前後の少年エレンが決意を持った表情で立ち尽くす。
そして、植物に覆われた廃墟と化したヒガンシナ区をはじめとするエルディアの街、王宮が映し出される。この廃墟と化した世界は、おそらくエレンの死後、数十年か100年ほど経って戦争により滅びたエルディアの姿なのだろう。この場所をさまよっているエレンは、極彩色の花畑にたどり着き、そこで煙のように消えて花弁と共に去っていく。この映像は、地ならしをした後、魂となって去っていく死後のエレンの姿を現している、とみてもいいだろう。
この「悪魔の子」で歌われ美しいアニメーションで表現されるエレンは、地ならしも、極右政権化したのちに滅んだエルディアのたどった道もふくめ全てが終わった後の地に漂う「自由を求めるために進んだエレンの思念/魂」なのだと思う。
漫画本編と異なり「悪魔の子」はエレンを過度に英雄視していないだろうか?
本編131話でエレンは、いずれ地ならし踏み潰すことになる異民族のラムジー少年にこう伝える。
「島を…エルディアを救うため…それだけじゃ……ない」
「壁の外の現実は、オレが夢見た世界と違ってた アルミンの本で見た世界と、違ってた」
「壁の外で人類が生きてると知って…オレは ガッカリした オレは…望んでたんだ…すべて消し去ってしまいたかった」
世界の8割を虐殺してもアルミンやミカサを守る、という自分の行動について「ただやりたかった」(仲間を救う以外に破壊願望があった)という本心があったことは最終回を見る限りエレンは自分で気付けていた。
また、「どうしてもやりたかった」「ただ殺されるなんて嫌だ」「仲間みんなに長生きしてほしい」というあらゆる想いがぐちゃぐちゃとなった果てに地ならしを決断した、ということも最終回の台詞から示されている。そして、アルミンはエレンに招かれた「道」において、親友エレンへの情愛を示しながらもその行為については「君のした最悪の過ち」という評価を与えている。
そう考えると、「君を守るために犠牲を選ぶ」「正しさとは自分のことを信じること」という主題歌「悪魔の子」の美しい言葉は、本編でアルミンにも否定された「美しい目的のために悪役になったエレン」というヒーロー像をエモーショナルに補強するだけではないのか…?
むしろ、その美しさはエレンのぐちゃぐちゃの心情やアルミンの「最悪の過ち」という地ならしへの評価を無視したイェーガー派が作り上げた、「偶像としてのエレン・イェーガー」に近しいものではないのか…?
「悪魔の子」はあくまで『進撃の巨人』をイメージにシンガーソングライターのヒグチ氏が作った楽曲であり、完全にエレンを表した曲ではない。ただし、その
なにを犠牲にしても それでも君を守るよ
間違いだとしても 疑ったりしない
正しさとは 自分のこと 強く信じることだ
という歌詞と、エモーショナルな少年エレンの映像は、無垢で自由を求めるラムジー少年を惨殺し、子どもも大人も、みんな消し去ってしまいたかったと吐露するエレン像とはかけ離れているように思う。
エレンは自分のことを強く信じて8割の人類を殺したのではなく、間違っていると分かっていても、それでもやりたかったから地ならしをしたのだ。「少年の破壊願望と反骨芯を持ったエレン」は、「不自由な現実の中でも打開策を探そうともがくアルミン」とは異った、「永遠の子どもの感情」に突き動かされており、その「間違い」「どうしようもなさ」まで含めて最終回で描かれたエレンの実像であった。
「悪魔の子」は確かに美しい曲であり、少年エレンの霊魂が浄化されていくような映像も胸を打つものである。だが、10年単位でエレン・イェーガーというキャラクタ―を好きだった一人のファンの心境としては、この「美しさ」はエレンの実像ではない、感傷に浸って良いとは思えない、と感じる。
『進撃の巨人』という作品は、長年連載を続け作者が人として成熟するうちに、当初作者が想定してた「残酷な世界で究極的な選択を課せられるエレンやミカサ、アルミンという若者の物語」から、「世界が残酷な森であろうとも、そこから出ようともがき続ける人々の群像劇」へと徐々に変わって来たのだと思う。
読者も、エレン達とともに10年以上の時を過ごし、様々な背景を持ったキャラクターたちの心情に触れ、「何かを犠牲にしても自分の選択を信じ続けるエレン」という主人公を相対化できるようになってきたはずだ。
作者が最終回加筆で森の一部となり、森を産むエレンの墓所たる巨大樹を描いたのも、エレンのやったことに対し、「彼の行いが完全に正しいわけでなかった」と一定の評価を目に見える形で示したのだと思っている。
美しいアニメーションや優れた楽曲により、エレンの行い、心情に寄り添う気持ちが生まれてしまうのは避けられない。それでもファイナルシーズン後半ではオープニング、エンディング主題歌含め、もう少しエレンという主人公を相対化する表現であってほしかった、と今でも思っている。
園子温『冷たい熱帯後』の食事描写から見る父権の崩壊と生の痛み
園子温監督作品『冷たい熱帯魚』は、1993年に起きた「埼玉愛犬家連続殺人事件」という実在の猟奇殺人事件を下敷きにしたホラーサスペンス映画である。作中ではペットショップのオーナーが大型熱帯魚店経営者に変更されているものの、遺体を肉片にする証拠隠滅の手口など筋書きは実際の事件をなぞっている。公開時には容赦ない凄惨な殺人描写、でんでんや吹越満など俳優陣の怪演が話題となった。
映画が「フード性悪説」と呼ばれるのはラッパーのライムスター宇多丸氏がMCを務めるラジオ番組で紹介された料理研究家・福田里香氏の以下コメントがきっかけだ。(注1)
「本来、物語の中で登場人物が供に向き合って食べたら心から幸福に信頼し合っているという不文律になるのが、『フード性善説』だとするとそれを逆手にとり、家族の不協和音を描いている。たいていの作家は『フード性善説』的描写をするのに対し、園子温監督は明らかに『フード性悪説」です」
また、「フード性悪説」の説明として、
「『はあ、食べ物ごときでものごと変わると思ってるなんてアンタ、本当におめでたいよね』ということを付きつけてくる」と番組に送った投書のなかで言及している。(注2)
福田氏の言うように『冷たい熱帯魚』は「フード性悪説」の映画なのか。その検証の前に、映画の内容について私見を述べたい。
父権の暴力を描いた『冷たい熱帯後』と食事描写
『冷たい熱帯魚』には連続殺人を扱ったサスペンスという本筋だが、臆病で優柔不断だった男が手にした父権によって家族を抑圧し、破滅するというテーマが伏流として存在する。
郊外で小さな熱帯魚店の営んでいる社本は若い後妻の妙子と娘の美津子と三人暮らし。家族の折り合いは悪い。娘の美津子は母の死後すぐ再婚した父の社本と妙子を嫌い、ほとんどグレている。
三人の気まずい家族関係は冒頭の家族の食卓の場面で示されている。料理が苦手な妙子はスーパーで大量に購入した冷凍食品を電子レンジで温め、食卓に並べる。米すら炊かず真空パックご飯で済ませるのだから、よほど料理が苦手なのだと伝わってくる。三人は目線も合わせないまま、狭い居間で無言で冷凍食品を食べる。
美津子は一応席に着いているものの、家族の儀式に参加するのを嫌がって漫画を読みながら食事を口に運ぶ。そして夕飯の最中にもかかわらず携帯電話で彼氏と会話し、二人を置いて出て行ってしまう。食後、妙子にセックスを拒否された社本は一人トイレに籠り食べたばかりの食事を戻してしまう。
キッチンに触れず冷凍食品で料理を済ませる描写は、妙子がこの家の母・妻になりきれていないことの暗示で、形だけが整えられた家族の食卓は、家長として無力だが父の体面を保ちたいという社本の願望を現しているのだろう。
社本の日常を激変させるのが、スーパーで万引きした美津子を助けた、村田という男との出会いだった。年下の妖艶な妻・愛子と大型熱帯魚店を営む村田は異様に押しが強く、その巧みな話術に社本や妙子、美津子も心を許してしまう。あれよあれよと言う間に、社本は村田と愛子の凄惨な連続殺人の共犯者に仕立て上げられ、引き返せない地獄に足を踏み入れていたことに気づく。
食事シーンは、本作の最大の見せ場ともいえる死体解体の場面でも挿入される。村田と愛子はターゲットから金を騙しとった後、毒の入った栄養剤を飲ませて殺害を行う。(注3)
不穏な山小屋に社本を連行した二人は、手慣れた手つきで死体の解体を始める。カラフルな電飾で飾られ、十字架にマリア像、磔刑の石像がいたるところに配置された建物は打ち捨てられた教会のように見える。「ボディを透明にする」が村田の殺しの手口だ。さっきまで生きていた人間の肉に切り分け山に捨て、骨は粉になるまで焼く。物的証拠は何も残らない。「自分は絶対につかまらない」と村田は怯える社本に豪語する。
食事シーンは映画の後半でも重要な位置を占めている。村田は、共犯者になった社本に「逆らえば妙子も娘の美津子もただでは済まない」と脅す。完全犯罪を気取る村田だったが、警察にも勘付かれ仲間からの裏切りを察知すると次第に暴走を強めていく。
死体遺棄の最中に愛子と性交を強要された社本は、隙を見て村田を刺す。その瞬間から村田の暴力性が乗り移ったかのように社本は苛烈な人格に変貌する。社本は愛子を従え、村田のボディを透明にするように命じる。
社本は村田の店で働いていた美津子を家に連れ戻し、妻の妙子に絶叫しながら「食事を作れ!」と命じるのだ。そこには父親のプライドをへし折られていたかつての弱々しい社本の面影はない。殺人者となり、日常に戻れなくなったはずの社本はここで途絶えていた家族の食卓を再開しようとするのだ。
冷凍食品ばかりの食事。目も合わさず、無言で口を動かす三人。形だけが整えられた食卓なのは冒頭と変わらない。しかし、社本は不思議と嬉しそうに目の前のご飯とおかずを頬張っている。ここでまた美津子の電話が鳴る。美津子の彼氏の呼び出しで食事は再び中断されそうになるが、暴力性を携え「強い父親」へと変わった社本にもう恐れるものはない。車を乗り付けてやってきた彼氏と美津子を力の限り殴った社本は、穏やかな顔で食事を再開する。
そして、天気の話でもするように自然な調子で「お前村田と寝ただろ」と妙子に問い詰める。心の隙間に付け込まれた妙子は、密かに村田と関係を持っていたのだ。社本は逃げ出そうとする妙子を、美津子がいる場で強引に犯す。
家族の食卓をやり直すことは、父親として娘を、夫として妻を征服したことを意味する。形だけでも家族の絆を取り戻そうとすること。それが父権の暴力を手に入れた社本がすべての決着をつける前に一番やりたかったことだった。
父殺しと家族の食卓
作中、村田と社本は疑似的な父子関係として描かれている。二人は強欲な連続殺人犯と共犯者というのと同じく、「強大な力を持った父親と弱々しい子供」、あるいは「倒される父親と父の力を奪う息子」の役割を負っている。家族との食事描写は、村田と社本の相違を色濃く描写する補助線にもなっている。
『冷たい熱帯魚』で特筆すべきなのは「埼玉愛犬家殺人事件」をなぞりながら犯人の村田に「過去に父親からに虐待を受けていた」という設定を付与している点だ。
死体の肉をあらかた削ぎあとは骨を焼くだけどいう時に、血だらけの村田がやけに明るく「美味いコーヒーを入れてくれ」と社本に声をかける場面がある。この「死体解体現場のコーヒーブレイク」で、普段の大声とは打って変わってか細い声で村田は幼いころに父親から受けた仕打ちを語り始める。
「ここ驚いたろ、親父がよ。頭イカれちまってよ、ここに閉じこもってたんだ。小さいときからよ。ここに閉じ込められて、ひでぇ目に遭っちまった」
教会のような山小屋は村田の父が建てたもので、この場所で少年時代の村田が父親の暴力にさらされていたことが判明する。村田は辛い記憶を絞り出すように社本に打ち明け、妻の愛子は村田の腕を労わるように撫でる。寄り添う夫婦の自然さから、二人の間でこのトラウマの共有は何度も行われてきたと分かる。
当事者は外道な殺人犯ではあるが食が人の心をときほぐすシーンに変わりはない。愛子も村田と同じく何らかの原因で歪んでしまった人間であると作中仄めかされている。彼女は強い男に支配されることを望んでおり、社本が村田を殺した後は家長に変わる存在となった社本に服従し、肉体的なつながりを求めてくる。縋りつく愛子の様子は大人に褒めてほしいとねだる幼い少女のようにも見える。村田と愛子はどこかで心を壊されてしまったかつての被害者で、壊れた子供の万能感のまま人を殺し続けていたのだろう。
死体解体現場でのコーヒーブレイクは、壊れた二人の間だけで通じる絆の共有を表す象徴的なシーンだ。しかし、巻き込まれた社本の眼には死体を切り刻みながら美味しいコーヒーを飲む夫婦の姿は、この世のものではない異常な光景としか映らない。
「自分にとっての幸せな食事」と「その幸せを共有しない者」との埋めがたい隔絶が、社本の家族の食卓だけではなくこの異様なコーヒーブレイクにも表されている。誰かの心を満たす利己的な幸せは、他人とは共有できない。自分がもっともおぞましいと思う食事風景が、誰かにとってこの上ない愛情の確認になる。
死体解体現場という異常な状況下であるが、浮き彫りになっているのは「当事者だけで楽しむ幸せな食事」と「その輪に入れない他人」の間に横たわる深い溝である。これ自体は世間にありふれた疎外感の一つだろう。
山小屋は村田にとって恐ろしい父の記憶が染みついた場所であるはずだが、死体の解体に精を出す際に、彼は一家の家長のように振る舞う。
「お前、俺と愛子がいなくなったら、これ全部一人でやらなきゃいけないんだぞ。だから、お前にやり方を伝授してやろうと思ってんだよ」
風呂場で死体をバラしながら言う村田の口調は、こんな場面でなければ家業を息子に継がせようとする頑固おやじのそれである。村田は「ボディを透明にする」人殺しの技能を社本に分け与えたいと言っている。
村田は、社本に弱い子供だった頃の自分を重ねている。
「お前、俺の小さい頃にそっくりだな。びくびくしておどおどして」
「お前は常にそう生きてきた。お前は何の対処もしねぇ。俺は殺しもするがちゃんと対処する」
「俺を親父だと思って殴ってこい。ちっちゃいときの仕返しするんだよ。だんだん力が入ってきたな。何で泣くんだよ、社本、殴れ、思いっきり殴れ!」
村田は連続殺人に巻き込んだ側であるはずなのに、社本に生き方を教えるように、自分を乗り越えろと迫る。作中では明示されていないが、村田が最初に殺したのは自分の父親だったのではないかと思わせる場面だ。自分を虐げた父親を倒し、世を渡っていくための暴力性を見に付けたのが、村田と言う男だったのではないか。
「お父さんやめて、ちょっと痛い。もう逆らいません」
社本にボールペンで胸を刺された村田は、子供のような口調で懇願する。ここで子である社本と父である村田の関係が入れ替わった。社本は村田を殺し、村田の持つ父権を手に入れたのだ。強く非情な父親となった社本も終局では妻の妙子を殺し、娘の美津子の前でのどを突き刺して自死に至る。
「やっと死にやがったなクソジイ、起きて見ろよ」
ラストシーンでは美津子が息絶えた社本をこう罵倒するのだが、罵倒は社本個人だけなく、その背後にある山小屋にも向かっていたのではないかと想像してしまう。教会を模した山小屋には絶対者たる父なる神と御子キリストの関係性が暗示されていると思われる。ここで繰り広げられていたのは歪んで煮詰まった家父長制の連鎖だ。この場所でかつて子だった村田が苦しめられ、村田自身が振りかざし、最後には社本に奪い取られた暴力による支配が露わになっていた。「やっと死にやがったな」と、娘の美津子の罵倒が向けられる時、この暴力の連鎖は断ち切られたのかもしれないと、かすかな安堵を覚えるのだ。
生きることは痛くてたまらない
『冷たい熱帯魚』は、食事シーンを通して人間の願望の複雑さや隔絶を浮き彫りにしている。その内実を表す際に、「フード性悪説」という呼称は適切なのか?
『冷たい熱帯魚』を「フード性悪説」と呼ぶのは「フード理論」というものに基づいているらしい。理論と言うからにはベースに何らかの思想や論理あるとイメージしがちだが、実際にはそうではない(注4)。福田氏の著書『ゴロツキはいつも食卓を襲う フード理論とステレオタイプフード50』(注5)にあるように、この「フード理論」が指しているのは現実の理論ではなく「食べ物がフィクションの演出に使われる小ネタを集めたエッセイ」のことである。
「悪人は食べ物を粗末に扱う」「絶世の美女はものを食べない」「ココアは女子の悩みを癒す」など、ジブリ作品を始めとする料理描写の紹介にとどまる。「フード性悪説」「フード性善説」という言葉の説明もない。
基本的な話になるが、「性悪説」という言葉には「人は本来的に悪だが礼に基づいて努力すれば後天的に善性を持てる」という意味がある。「フード性悪説」を字面通りに取れば「食べることはもともと悪であるが礼に基づき努力すれば善い行いになる」となってしまう。日本語として破綻がある。(注6)
「フード理論」という理論や「フード性悪説」という新説が実際に提唱されている事実はない。「フード性悪説」という呼称は要するに「一度ラジオに投書された個人の感想の言い回し」であり、それ以上でもそれ以下でもない。
しかし、それ自体は些末なことかもしれない。重要なのは、「フード性悪説」という造語では『冷たい熱帯魚』で描かれた絶望感は表現しきれないという点だ。作中これでもかと言うくらい見せられる生々しい情動を説明にするには表面的すぎる。『冷たい熱帯魚』の数々の食事シーンが凶悪に見えるのは、社本の食卓のように幸せな食事の形を求めて失敗しているから、あるいは死体解体現場のコーヒーブレイクのように他者の生命を冒涜しても自分の幸福だけを享受する姿が浮き彫りになるからである。
「食べ物ごときでものごと変わると思ってるなんて、アンタ本当におめでたいよね」と突き付けられたとしても、社本や村田夫婦は彼らの考える幸せな食事を求めることをやめないだろう。人生を狂わされ、極限状態に追い詰められた社本が欲したのは家族の心など無視した形ばかりの家族の食卓だった。他人の視線などもはや関係ない。社本が抱えてしまったのは「性善説」「性悪説」などの言葉で二分することはできない、純粋だが決定的に間違った願望だった。
村田と愛子の異様なコーヒーブレイクで表されるのは、それ自体は本物で温かな夫婦の絆だった。人殺しに夢中になり、善悪を置き去りにしていても、美味しいコーヒーの香りを二人は心から満喫できる。殺した人間の内臓や血で汚れながらも、二人きりの癒しを得られる。
「食べ物ごとき」で家族の心を取り戻せると思ってしまう人間が「本当におめでたい」ということはとうに分かっている。それでも「食べ物ごとき」で幸せになろうとしてしまうこと、どんなに異常でも「食べ物ごとき」で楽しくなってしまうどうしようもなさ、身勝手さ、滑稽さ、恐ろしさを『冷たい熱帯魚』は見せてくる。本当におめでたい。それでも、幸せの形を願うことはやめられない。実態が狂っていても、歪んでいても幸せの形にどうにか自分の人生を当て嵌めたい。そうやって間違いながら生きることがとても痛く苦しくてもだ。
社本が最後に美津子に問いかける。
「美津子、一人で生きていけるよな。一人で生きていきたいんだよな。痛いか?」
包丁で腕を浅く切られた美津子は言う。
「痛いって言ってんだろ。生きたいよ。生きたい、生きたい、生きたい!」
そうか、と応えた社本は、押し殺してきた心を解放するようにこう叫ぶ。
「人生って言うのはな、痛いんだよ!」
唐突で、一見するとおかしみすら漂う叫びだが、ここに避けがたい真実がある。「彼にも痛みがあった、感情があった」と示すように赤い血が涙の代わりに頸動脈から流れ出る。家長になりきれない屈辱も、家長となって暴力を振るうことも、どちらも苦しく痛かった。食卓を囲みさえすれば家族でいられるというおめでたい願いも、その願いが間違っていたことに気づくのもとても痛い。その痛みを娘にはわかって欲しい。だからこうして首を刺し、死にゆく自分の痛みを見せつけた。生きるのは痛くてたまらない。父として社本が教えることができる真実はこれだけなのだから。
生きることの痛みから始まる情動を、善か悪かで言い表すことはできない。「フード性悪説」というパッケージではとても足りない。凶悪な食事風景が浮き彫りにした生きることの痛さ、やりきれなさについてもっと言葉を尽くしたい。言葉を尽くすほどに露わになる他者の幸せとそれを共有できない自己の間にある断絶の淵に立ち、さらに深く思いを馳せたいのだ。
(注1)TBSラジオ「ライムスタ―宇多丸のウイークエンド・シャッフル」
(注2)福田里香氏のラジオ投書コメント全文
「素晴らしい映画でした肝心の殺人は栄養ドリンクによる殺人。いわばフード殺人です。料理は咀嚼されず未消化のままブラックホールに呑みこまれる。すべてが腑に落ちない。胃に落ちたと思ったらそれは毒だし」
「この映画を見て『肉、当分いいわ』と言う人は多いと思いますが、私は肉以上に『インスタントコーヒー当分いいわ』と思いました。『ふーいい仕事したな、ひと山越えたな』というコーヒーブレイクタイムが生理的な駄目押しになっています。フード的には二重の意味でたまりません」
「本来、物語の中で登場人物が供に向き合って食べたら心から幸福に信頼し合っているという不文律になるのが、『フード性善説』だとするとそれを逆手にとり、家族の不協和音を描いている。たいていの作家は『フード性善説』的描写をするのに対し、園子温監督は明らかに『フード性悪説」です」
「『はあ、食べ物ごときでものごと変わると思ってるなんてアンタ、本当におめでたいよね』ということを付きつけてくる。『これ、おいしいよね美味しいもの食べると癒されるよね』という描写はフードの一面しか描かれていない。これらの映画では到達できないフードの真実が顕現している稀有な映画でした」
(注3)福田氏は「肝心の殺人は栄養ドリンクによる殺人。いわばフード殺人です」と言っているが栄養ドリンクによる殺人は実際の「埼玉愛犬家殺人事件」をそのままなぞったものであり、製作側が「フード殺人」を狙ったわけではない。
(注4)福田里香 『ゴロツキはいつも食卓を襲う フード理論とステレオタイプフード50』 太田出版 2012年
(注5)「理論」とは個々の現象や事実を統一的に説明し、予測する力をもつ体系的知識のこと。フィクションにおける食のステレオタイプを集めた福田氏の著書は、本人の感想や映画体験をもとに記したものなので「エッセイ」である。「フード理論」は「なんちゃって理論」と言うべき名称だ。
(注6)福田氏は投書の中で「家族の不協和音を描いている」「『食べ物ごときで変わるなんてアンタ、おめでたいよね』と突き付けている」ことを持って『冷たい熱帯魚』は「フード性悪説」としている。しかし「フード」と「性悪説」という言葉を組み合わせた「フード性悪説」という造語は「食べることはもともと悪であるが礼に基づき努力すれば善い行いになる」と読めてしまい、この言葉では福田氏の指摘を表せない。語義の矛盾を抜きに考えて見れば、福田氏が「フィクションにおける食が善を表さない側面」を表す演出方法を指して「フード性悪説」と呼んでいることが分かる。あくまで「食を通してフィクションを楽しむ方法」である。それを食全体に広げて「食の暴力性」「飯がまずい」などの現象を「フード性悪説」とするのは、福田氏の意図を読み違えているか、関係ない別の意味を付与しているのかのどちらかである。「『「フード性悪説』は各個人の心の中にある」と説明するほかなくなるからだ。各個人がそれぞれ様々な食表現を「これが『フード性悪説』だ」と言えてしまうのであれば、「フード性悪説」は『冷たい熱帯魚』の特異な食表現を指すための言葉にはならないのではないか。
呪いにより導かれる救済、運命の受容/「ヘレディタリー/継承」
あらすじ
祖母エレンが亡くなったグラハム家。過去のある出来事により、母に対して愛憎交じりの感情を持ってた娘のアニーも、夫、2人の子どもたちとともに淡々と葬儀を執り行った。祖母が亡くなった喪失感を乗り越えようとするグラハム家に奇妙な出来事が頻発。最悪な事態に陥った一家は修復不能なまでに崩壊してしまうが、亡くなったエレンの遺品が収められた箱に「私を憎まないで」と書かれたメモが挟まれていた。
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きわめて私的な映画という前提
「ヘレディタリー/継承」、本編に張り巡らされた伏線や隠喩の解説は散々されており、公式HPでもネタバレ解説があるので本編の謎解きについてはそちらを見てもらえれば十分だと思う。
観た人限定完全解析ページ | 映画『へレディタリー/継承』公式サイト
殆ど前情報を見ないで鑑賞したが、本当に怖くよくできた映画で当日は夜眠れなくなった。
一方で、映画の中で強調されていたのは「病の遺伝への恐れ」「家族不和」「逃れられない運命」みたいな、ホラーとは別種の「重たく厭な要素」。これは監督の私的な経験がだいぶ反映されているんじゃないかなと鑑賞中につらい気持ちになった。
映画評論家の町山智浩さんも、アリ・アスター監督へのインタビューで映画がきわめて私的な心象を表しており、監督の家族に関わる「遺伝」をモチーフにしていると話している。
「映画のような呪いはないかもしれないが、がんなどの病気のように、家族を縛る遺伝的な悲劇があると、監督は言っていました」
「ヘレディタリー」はホラーではなく“嫌な家族映画”!? 町山智浩が別アングルから解説 : 映画ニュース - 映画.com
映画の中ではトニ・コレット演じるアニーによって死んだ母エレンが解離性同一性障害を発症していたことが語られる。アニーの父も精神分裂病で餓死(どういう状況なんだ)、兄が母の奇行によって被害妄想を抱え、自殺。アニー自身もかつて夢遊病を患い再発を恐れていることが語られる。
アニーは家族をめちゃくちゃにした母の精神疾患を自分が受け継ぎ、それが子供にも遺伝してしまうのではないかと怯えている。
タイトルの「Hereditary」という単語は、「遺伝的な」「先祖代々の」「世襲の(親譲りの)」という意味の言葉で、「継承」というのは母エレンから受け継いだ先天性の病のことを、この時点では指しているのだと思われる。
前述の記事と照らし合わせると、「いずれ自分や子に降りかかる遺伝性の病を恐れる、というのは監督の体験が反映された描写なのでは…」と予想がつく。アニーはミニチュア模型アーティストで、集中治療室にいる死の淵の母だとか、現実を受け入れるために自分のつらい実体験をミニチュアする、といった行動をする。
これはある種の箱庭療法なのだが、遺伝について苦しい感情を持つ監督が遺伝をテーマの映画を作るというのがアニーの行動と重なっている。メタ的にみると「ヘレディタリー/継承」という映画自体がアリ・アスター監督が苦しみを昇華させるために作った一つの箱庭なのではないか、と思えてくる。
映画の冒頭がまさにミニチュアの中で暮らす登場人物たちのクローズアップから始まるので、こういったことは予め示されていたと思われる。
映画は監督の私的なつらい出来事が反映されている、ここまでは大前提として考えていいだろう。
開始30分後からホラー映画になるが…
映画開始から30分までは、家族に負担を与えたエレンの死をきっかけに遺伝の病気をこれからをどう受け入れるのかという身をつままされる現実的な苦悩に焦点が当たる。しかし大麻ばっか吸ってるやや軽薄な長男ピーターが妹のチャーリー大麻パーティに連れて行った時から、話が急変する。
アレルギーの発作を起こしたチャーリーを乗せて夜の道路を車で飛ばしていたピーターだが、手違いでハンドルを切り窓から顔を出していたチャーリーは首を飛ばされ即死する。
この衝撃的な死から家族の絆は瓦解。恐れからアニーとピーターはチャーリーの霊の気配を感じるようになり、アニーはセラピーで知り合った老女ジェーンに誘われて交霊術にハマってしまう。
この辺から映画が完全にホラーになる。実は母エレンはペイモンという悪魔崇拝の触媒的な存在であり、アニーや死んだチャーリーは悪魔を呼ぶ霊力を受け継いでいることがほのめかされる。悪魔崇拝者たちによれば、霊力を受け継ぐのは女だが、王ペイモンの器となるのは若い男だけだという。
ここで、アニーの兄の被害妄想の話がつながるのだが、アニーによれば、兄は「母が何かを自分に入れようとしている」という妄想に取りつかれていた。母エレンはかつて息子を悪魔の器にしようとしており、今度は長男ピーターが狙われていることがわかる。
「遺伝性の病気だと思っていたのは実は悪魔を呼んだ祖母の呪いだった」、と現実的な悩みが一気にオカルト的な様相を帯びるようになる。
もうここからは本当に恐ろしい。絶え間ない緊張が続き、「エクソシスト」と「イット・フォローズ」みたいなホラーそのままラストまで突っ切るのだが、冒頭30分とその後の展開の落差に少し思うところがあるので述べてみたい。
ホラーが人を癒すとき
私もホラー映画をよく見るのだが、怖いものが好きだからホラーを見ているわけではない。意識してホラー映画の描写に注目するようになったのは、町山さんのホラー映画評を見てからだ。
(町山智浩)そうそう。ホラー映画にすることで、これは地獄なんだよ!っていうことをみんな、わかってあげようよ!ってことで、すごく効果があるようになっていますね。
(町山智浩)はい。だからホラー映画っていうのは一見お化けの話のようで、そうじゃないわけですよ。で、本当に怖いホラー映画と怖くないホラー映画の差はそこにあるんですね。本当の嫌なこととか、みんなが怖がっていることをホラーの形で見せていくっていうことをやっているかどうか?なんですよ。
町山智浩『イット・フォローズ』『ババドック』とホラー映画を語る
なぜわざわざホラーというジャンルを選んで映画にするのか、と思うかもしれない。だが、「悪魔のせい」とか「死霊の呪いのせい」にしたほうがずっと楽で納得がいくことが世の中にはある、ということは言える。
自分の話になってしまうが、私も10代の頃に身内の一人がメンタルを病んだことがあり、その当時の家庭環境は相当ひどいものだった。また家族には人種差別的な言動をする者もおり、子供ながら「自分はこんな大人になりたくない」などと悩んでいた。
自分の家族、血筋というものはロクでもないんじゃないかという思いにとらわれたのも一度や二度ではない。
「ヘレディタリー/継承」のアニーが感じていた地獄というものに、正直かなり親近感を抱いた。作中にアニーが夢遊病で苦しんだり、他の家族からしたら病気で正気を失っているように見える描写も、ある時期の自分の家族の言動そのもののように見えてしまい、当時のことがフラッシュバックした。
作中、チャーリーの死の責任をアニーとピーターが押し付けあったりする地獄の夕食みたいなシーンがある。家族の仲を裂く要因を作り出したことを認めたくないという態度は、自分の体験から言ってかなり身に覚えのあることである。「最悪な家族不和」というよりかは「不仲家族あるある」を名優が本気で実演したらこうなる、という風に見えてしまった。
現実はフィクションの様にはいかない。フィクションの役者のように、現実の人間は演技が上手くないので起こった家族の不仲や悲劇は淡々としているか、ひどく滑稽でテンションが下がる、できそこないの芝居のようなものだ。それでもつらさや厭な思い出というのは残り続ける。年月がたって、環境が改善しても、あの厭なことばかりだった家の中から抜け出せていない。10代の頃の自分は、あの時間の中にとどまり続けている。そういう風に感じることは今でもある。
自分が感じた味気なくありふれた苦痛の思い出を、この上なく劇的で恐ろしい物語として表すことができたら。感じていた恐ろしさに「死霊」とか「悪魔」という形を与えることができたら、自分の苦しさの体感を他の人にも分かってもらうことができるかもしれない。ホラー映画には、そういう切実な可能性がある。
ホラーと言うのは、人がえげつなく死んだりグロテスクな要素があるが、同じ様な境遇の人にとっては「浄化」とか「救済」になることがままあるのだ。
「ヘレディタリー/継承」の30分後に起きるオカルト的な内容は、現実に寄っていた病の恐怖が、死霊や悪魔の跋扈するホラーとして再構成され映画となったものなのではないか?
地獄を世に残せる創作者
アリ・アスター監督が2011年に撮った自主製作短編映画、”The Strange Thing About the Johnsons”の主人公ジョンソンも、「ヘレディタリー/継承」のアニーと同じくクリエイターである。
30分のこの短編は、要約すると「父親に性的関心を持っていた息子が自分の結婚披露宴の日に父親にオーラルセックスを施してたところを母に目撃されるも母は見て見ぬ振りをし、詩人の父は息子からの虐待を手記に残して死亡。愛する父の思い出に浸る息子を問いただした母が、もみ合いの末息子を殺害し手記を焼く」という内容だ。
このジョンソンは高名な詩人という設定で、自分と息子の陥った関係を「コクーンマン」(繭男)という手記にして執筆をつづけている。性愛という呪いで父親をがんじがらめにする息子と、その地獄を表現せずにはいられない文筆家の父、という関係性。これは家族を凶悪な運命に縛る祖母エレンと、その地獄をミニチュアにせずにはいられないアニーとほぼ同じだ。
自分の体験した地獄を表現できる技能を有するのは、創作者の特権である。詩人のジョンソンは手記を形にすることで息子の虐待から抜け出そうといたが、アニーは途中でミニチュア作りをやめ、狂気の中に取り込まれていってしまう。
苦しい現状を作品にすることは、ただ苦痛に耐えるよりもさらにつらいことかもしれない。自分がこのときどう感じたか、何が厭だったか。繰り返し思いかえすことはただ現実を受忍しているより痛みが伴う。
それでも、最後まで自分の地獄を表現しきること、自分の苦しい思い出をもとに世界を呪うまでの作品を残すことができたらそれはもう呪いではなく自分を救う土台になるだろう。
苦痛は運命を受容する儀式
作中、アニーと同程度に地獄の恐怖を味わうのは息子ピーターだ。悪魔の王ペイモンの器に選ばれてしまった彼は母アニーからは生まれてこなければよかったと言われ、散々痛めつけられた挙句、恐怖によって身を投げてしまう。
ホラー映画として見た場合、身を投げたピーターの中に悪魔ペイモンが入り込み、忘我の境地になった彼を悪魔崇拝者たちが王と崇めるという終わり方になる。
その光景はとにかく輝かしく、死骸が転がっていることを除けば「馬小屋のキリストの生誕」みたいな暖かなイメージが重ねられている。王冠も祭壇もハンドメイドでまるでアニーが作っていたミニチュアや、チャーリーが作っていた工作を彷彿とさせる手作り感である。
アニーは子供たちへ病が遺伝することを恐れ、散々抵抗したものの最後はピーターに彼女が遠ざけたかった悪しきものが受け継がれてしまう。
作中、ピーターの高校で「ヘラクレスの選択」というギリシャ悲劇の命題について教師が講義するシーンがある。
「あの授業の内容が、この映画のテーマそのもの。ヘラクレスの話ですね。つらい苦難を自ら選ぶことは『ヘラクレスの選択』といいますが、そのときのヘラクレスには、実は選択肢なんてなく、運命に縛られて逃げ場がなかったと言っている。あれはピーターの運命を先生が(比喩的に)語っているんです」
「ヘレディタリー」はホラーではなく“嫌な家族映画”!? 町山智浩が別アングルから解説 : 映画ニュース - 映画.com
まさに、ピーターはほとんど拒否することができなかった運命によって、望んでもいない王冠を与えられることになる。この運命に蹂躙されるピーターの有様は何を表しているのだろうか?
これまでに監督の家族に関わる「遺伝」をモチーフがあり、その恐れをホラーという手法で表現したのが本作であるという話をしてきた。そう考えれば、この恐ろしくも荘厳な戴冠式は、単にピーターが死んで悪魔に体乗っ取られた、というだけでなく、これまで恐れてきた遺伝性の運命を受容を表すためのフィナーレだとわかる。
こんなロクでもない血筋の宿命を黙って受け入れるのか、と思うだろうがピーターは黙っていたわけではない。作中、観客はピーターの感じる恐怖や苦痛を通して、この運命がいかに恐ろしく厭なものだったか体感できたはずだ。
現実に、なんらかの遺伝性の病を患ってしまったり、それによる家族の諍いが起きたとしても、その苦痛を他者に知らしめるのは難しい。しかし、一種のマゾヒズムさえ感じるほどの壮絶な恐怖と身体的・精神的苦痛をピーターは味わった。それを観客が知ることこそが、運命に対する抗い(生体反応)として機能していると思う。
苦痛と恐れを観客の前で証明するという役割をピーターは果たしていたのだ。
これによって、ただの遺伝は「継承」という神秘を帯びることになる。変えられない運命を受け入れることも、それに伴う家族の不和も、とても嫌で怖いことだ。その厭さ、怖さを最後まで壮絶に描ききることで、この映画は完全な恐怖の物語として閉じることができた。
映画に仮託されたやりきれない自分の運命や遺伝への恐怖は、できそこないの芝居のような現実の中に埋没することはない。「ヘレディタリー/継承」という精巧な恐怖の願いを閉じ込めた箱庭のなかに生き続けることになる。
映画『マグダラのマリア』/魅力的で呪われてないユダ、伝道師マリア
イエスの弟子で復活に立ち会ったとされる聖女マグダラのマリアが主人公の伝記映画。マグダラの地で抑圧された生き方をしていたマリアがイエスと出会い、その死後に教えを広める伝道に向かうまでの物語を描いている。
娼婦ではなく弟子としてのマグダラのマリア
マグダラに住むマリアは、とても敬虔で聡明な女性だ。村の女たちにも信頼されていた彼女は父の命令で結婚を急がされる。彼女は心の中に住む神に忠実に生きたいと思っているのだが、それを言語化する術を知らないので父や身内の男たちはマリアの行動を「恥さらし」とか「悪霊に取りつかれている」と言って問題視してしまう。
マグダラのマリアは娼婦だったんじゃないの?と思う人もいるだろう。だが、マグダラのマリアが娼婦で罪深い女だったという解釈は西方教会が女性を下位に位置づけるために作らせたという説がある。この映画のようにイエスに導かれたマグダラ地方の一人の女性でありイエスから信頼を得ていた弟子の一人、という方が史実的には誤りが少ないと思う。
新約聖書の外典研究なんかでは、マグダラのマリアが他の弟子と同等の地位にいるという描写もあり、現在マリアの地位はかなり回復されている。映画ではその辺が正確に描かれていたと思う。日本では荒井健氏の「ナグ・ハマディ写本」の研究で明らかにされているので参考にどうぞ。
マリアは「女性として家族の期待に添えない」「昔から悪霊は私の中にいる」と苦悩するが、評判の預言者として訪れたイエスは、マリアが感じているのは悪霊ではなく神であると説き、彼女の悩みを祝福に変える。この時から、マリアは自分の中の体感を言葉にできるようになる。
内的な信仰の伝道師
マリアは、ほかの男性の弟子にはなかった徳を持っている使徒として描かれる。
マリアは出産で苦悩に悶える少女の痛みから目をそらさず、他者の苦痛を受け止められる強さを持っている。また水中に身を任せる感覚を「神とともにいる感覚」として捉えるなど、自分の生きる体感を以て信仰を知ろうとする。
これらのマリアの徳は、イエスの処刑を「神の国を呼ぶことに失敗した」と捉え、目をそらしてしまった弟子の行動と、内面的な変革ではなく実際にローマの圧政を滅ぼしてくれるとイエスに期待してしまった弟子たちの躓きと対になっている。
マリアは、具体的な奇跡ではなくイエスの言葉が「内面的な変革を経てこそ心の中の神の国に至れる」と理解していたただ一人の弟子だった、と言うことがわかる。
作中の描写を見れば、イエスは使者を蘇らせたりという奇跡を起こしている一方、被差別者だった女性たちの内面的な変革を手助けしている。
イエスは女性たちに、女たちを支配する男たちの方が憎しみに囚われており、虐げられる女たちこそが憎しみを退けることができると話す。男たちはイエスの奇跡ばかりを求めていたが、マリアと女たちにとっては生きる上での内的な変化を促したイエスの言葉こそが現実的な助けであったのだろう。
こうした神の国への内なる道のりを理解する素地があったマリアだからこそ、イエスの死と復活を見届ける証人になることができた、という経緯を描いている。
可愛げのあるユダ、人らしいイエス
監督のガース・デイヴィスはDVD収録のインタビューで「神格化された聖書人物を人として描く」と言っていたが、それは権威主義にとらわれていないマリアの目から見た物語ということと重ねると、より深く味わえると思う。
使徒のリーダー格であるペテロは頼りになるのだが、一方で固定観念にとらわれた男性として描かれる。マグダラのマリアの才覚を認めてはいるがイエスがマリアをひいきするのを嫌がり、マリアの信仰を「現実的ではない」と拒否する。聖書を読んでいてもペトロの権威主義的な部分はかなり目立つのだが、映画のペトロは一枚岩な性格ではなく(ペトロ=岩だけに)、イエスやマリアを信じたいが自分の偏見を乗り越えられない存在として描かれており、そこにも深みがあると思った。
イエスの運命を知る聖母マリアも登場する。神格化されたマリアはカトリックでは「神の花嫁」という面が強調され、聖画の中では若い女性として描かれることが多いが、このマリアは普通の中年女性である。イエスの受難を知ってはいるが、あくまでイエスを「自分の息子」として愛している。やたら処女幻想が仮託される表象としてのマリア像を考えると、かなり人らしい母親のマリアで好感が持てた。
そして、とにかく人間味が強調されていたのがイスカリオテのユダである。
アルジュリア系フランス俳優のタハール・ラヒム演じるユダが非常に人間味ある純朴な青年として描かれていて、ここまで負の要素がない魅力的なユダはこれまでいなかったんじゃないかと衝撃を受けた。
イエスを売ったユダは、狡猾で金の使い方に厳しい悪魔的存在として語られることが多いが、「マグダラのマリア」のユダは明るく愛すべき人物である。彼はローマの重税が原因で妻と幼い娘を失っており、神の国の到来によって家族と再会できると信じ、救世主としてのイエスを慕っている。女の使徒の参入に難色を示していた他メンバーと違い、マリアに対しても親切で人懐っこい。熱狂的にイエスを慕いながら使徒のムードメーカー的な存在でもあるというのは「熱心党のシモン」と年少で愛された弟子、使徒ヨハネがユダとミックスされた造形ではないかと思った。(作中にシモンとヨハネは未登場)
マリアの目から見たユダというのは、ちっとも呪われた人間ではない。
ユダは純朴に神の国の到来を信じており、その動機は「死んだ家族に会いたい」という一途な願いである。彼はあまりにポジティブに救世主イエスを信じ、自分の死の運命に苦しむイエスの本心に気付けない。他の使徒たちは政治的な意味でイエスを王にしたがっていた節があったが、ユダは「死者と会える神の国」を本気で望んでいた。イエスを役人に売ったのは、恐れるイエスに本気を出してもらおうと先走ったためで、彼の中に悪意はなかった。
聖書では最後の晩餐でユダの裏切りの予告がされるが、映画の中ではそのシーンすらない。徹底して「ユダが純朴な故に過ちを犯してしまった」、という描写がされている。
ユダと対話したイエスも、彼の願いをかなえてやれないことに苦しんでいる。ここに裏切りとか罪、という雰囲気はない。
このユダの描写は宗教紛争やテロなど世相を反映した描写と考えることもできるかもしれない。決して悪意があるわけでない純朴な若い信仰者が行き違いで悲劇を生んでしまう。元から呪われた存在が引き起こす罪よりもよほど普遍的で、悲しみが深いともいえる。
ホアキン・フェニックス演じるイエスも、神格化された神の子でなく一人の誠実な伝道師、という側面が強調される。イエスは自分の死の運命を恐れており、神殿で大暴れしたのも、殺される羊たちの血に自分の見た未来を重ねてしまったからである。言葉を使って内的な神の国を実現したいと望んでいるが、弟子たちが自分を王としたいことも分かっている。マリアから見たイエスは、世界の王ではなく運命に苦しむ師だった。
十字架刑に対する苦痛と絶望が強調される描写はパウロの十字架の逆説とかが原典なのかなとも思った。
内なる神との出合い方
マリアは、使徒たちに「私たちが変わらないと世界が変わらない」と伝える。それがイエスの死によってマリアが知った神の国の到達方法だったからだ。
最後に「君は神の国はどんなものかと聞いたな」と復活したイエスがマリアに問うシーンがあるが、マリアは言葉ではなく朗らかな笑みで答える。マリアは神の国とはマリアが生きている世界であり、心の中で神やイエスと出会うことのできる今現在だということを知ったのだ。
「それは種に似ている。一粒の芥子種だ。女はその種を庭に蒔く。それは大きく成長し、大きな枝を張り、そこに鳥が巣を作る」
とマリアがラストシーンと冒頭でつぶやいた言葉はマタイによる福音書13:31–32に出てくる言葉で、イエスが天国とは何か説く際の説明だ。
使徒たちと別れたマリアを見つめるのは、これまでイエスが内的に心を救った女たちと母マリアであり、内的な神の国を作り上げていけるのは、彼女たちなのだということを示している。
ペトロは政治的な意味で圧政から解放されたユダヤの王国を「神の国」だと考え、ユダは死者と会うことのできる彼岸の国を「神の国」だと思っていた。マグダラのマリアがイエスから受け取った「神の国」は世俗的な国とも死の世界とも違う、ある意味両者の中間にあるようなものである。現実の中に神を見出していく、というバランサーとして考えができるマリアだからこそ、生きながらにして復活したイエスと出会うことのできる「復活の証人」になれたのだ。
内的な伝道師としてのマグダラのマリア、人間らしいユダとイエスを描くことで聖書の物語を普遍的な人間ドラマに落とし込むことができた作品だ。イエスと使徒たちと仲介者でもあるマリアの態度を通して信仰の内側に起こる分断をほぐしたい、みたいなメッセージもあるなと思った。
『阿・吽』2巻について本気出して考えてみた/火をつけたのは誰か?最澄が見たものは?
おかざき真理『阿・吽』2巻収録の6話~9話は修業中の最澄の苦難を描いたエピソードだ。理想の仏教を目指した繊細で世間知らずの天才最澄は霊山比叡で小さな庵を築き、僅かな弟子たちともに「全てを救う教え」を実践しようとする。しかし清浄なはずの比叡で彼が直面したのは理想を打ち砕くようなこの世の悲惨だった…という内容。
心情が台詞なしの作画で表現されている
この一群のエピソード、個人的には『阿・吽』のなかで最高に好きな話だ。しかし、9話の「薬師如来」のラストに至るまでの最澄の心情描写は余計な口語説明を入れず、作画で表現されている。その作画というのも、6話「灯」から描かれてきた内容をメタファーで表したもので、ものすごく視覚的に迫ってくるものの、情報と熱量が多すぎて自分では言語化がなかなかできなかった。言葉にしなくても凄いことは分かるのだが、たぶん言葉にできたらもっと納得がいくと思うので、自分なりに読み取ったことの説明を試みたい。
6~9話のエピソードの中で、最澄は何度も自分の理想と現実のギャップに心を引き裂かれることになる。
一つ目は、自分を慕っていた村娘は実は母の差し金で、最澄を堕落させるためにやってきたと気付いてしまうこと
二つ目は教えを裏切っていた弟子のせいで村娘が熊に襲われて死んでしまったこと、
三つ目は、「生き残るために傷ついたものを捨ててしまいたい」という自分の本能に気付いてしまったこと。
一つ目と二つ目は、最澄が気持ちでは「全てを救いたい」と言いながら実際には彼が掴んだ仏の教えが人々に届いていなかったことを浮き彫りにしたエピソードだ。三つ目は、極限状態に追い込まれたが故に現れた弱さなのだが、おそらく最澄の謳う仏の教えがこの時点では最澄だけしか救えていなかった事実ともつながっている。
「火」がひとつのキーワード
6話「灯」では、ほかの修行僧がいくら努力しても、最澄が天才過ぎて彼に近寄れない、人々と照らす火になりたいと願う最澄が実際には他者を脅かす危険な火であるということが語られる。
山の中で修業に励み続ける絶えない火である最澄と同時に、この話の中では暗い山の自然の姿が語られる。火が人に属するもので、不断の努力をしなければ途切れてしまう者であるのに対し、山の闇と沈黙は、自然の驚異と無慈悲さと重なる
「灯」がタイトルになっているのは、のちに最澄が残したと言われる
「明らけく、後の仏の御世までも、光伝えよ法の灯しび」
という歌から来ていて、この時点ではまだ最澄の放つ光が人を導ける灯ではなかったことを表しているのだと思う。
6~9話のエピソードは比叡に冬が訪れる間際の出来事であり、作中繰り返し山の冬は厳しく、寒さや飢えが生き物を苛み、クマなどの肉食動物が人を襲う様が描かれる。
そんななか、比叡の庵に一人の男が訪れる。
おおよそ学があるとは思えない歯の抜けた変な風貌の男で、最澄の弟子になりたいという。修行僧にはなれそうもなさそうだが、やけに生活能力がある男であり、最澄たちは彼が持ってきた食糧に助けられる。
彼は実は殺人者で、里で人を殺して逃げてきたことがわかるのだが、私はこの男がただの人間の様には見えなかった。殺人者なのは確かなのだが、この男の造形には「恐ろしい自然の摂理」そのものが仮託されてると思った。
対峙したのは山の神そのものなのでは?
村娘を死なせてしまった弟子のひとりはクマに足をえぐられ、寝たきりになってしまうのだが、男は山の摂理に従って見殺しにすべきだと提案する。言っていることは非常に合理的であり、本来慈悲の心を持たなければならない修行僧たちも、山の摂理の「合理性」に心を動かされていく。そんななか、男に妻子を殺されたという村人が闖入し、殺し合いが起きる。仲裁に入った最澄も刃物を突きつけられ、地には死人と傷ついた弟子たちが倒れている。
この惨劇で倒れた弟子の一人が「最澄様、これでも皆を救うとおっしゃいますか!みな、暗い心を持っております」と叫ぶ。
叫んだのは最澄をもっとも慕っていた弟子だ。この問いが出てくるのは当然だ。最澄が唱える理想と、今目前で起きていることのあまりの醜さに耐えきれなくなったからだろう。人を殺して生き延びることの合理性、山の摂理に飲み込まれていくだけの人間の弱さ。その現実に、最澄の綺麗な理想は耐えられないだろうと思った。そうであってほしい。自分と同じであってほしいと彼は思ったはずだ。
だが、最澄は「救います!それでも私は皆を救います」と応える。
この言葉は最澄が、山の神(のような存在)が見せた「自然」に最澄が刃向った、ということだと思う。実際にはみんな殺されそうな状況で、「全てを救う」のは不可能なはずなのだが、彼は自分に課した使命だと言わんばかりに「皆を救う」と宣言する。
この宣言は、すぐに厳しい現実にへし折られる。
刃物を持った男から逃れるために、最澄は寝たきりになった弟子を背負って光のない暗闇の中を彷徨うのだが、一歩間違えば足を踏み外して死ぬ危険な道行きだ。
「全てを救う」と言ったはずなのに、聞こえてくるのは自分の声なのか、あの男の声なのかわからない複数の問い。
(なんのために助けるのか、捨ててしまえ)
(その者に助ける価値はあるのか?)
その問いは、おそらく最澄自身の生きたいという本能が発した内なる問いであって、
「あなたの願いをかなえてあげよう」と言って刃物を振り下ろした男は、やはり人間ではなかったのではないだろうか。
あるいは、庵で人を殺して逃げたまではただの人間だったが、闇の中最澄の本心を引きずり出すように問いを続け、負傷者を殺すことで最澄の命を救ったのは、殺人者の男の姿を借りた「山の神」(のような存在)そのものだったのではないかなと思った。
そういうものと対峙した最澄は理想だけが先走っていた自分の弱さをまじまじと見つめさせられたのだ。
暗い炎に名をつける
一連の惨劇が落ち着いた後、最澄たちはこれまで通り修業を続けるのだが、庵の蜘蛛の巣にかかった蝶を見てから、様子が変わる。
この後、最澄はせっかく苦労して集めた宝のような経典の写しを悲しそうに一瞥した後、火がつく庵を黙って見つめるという奇異な行動をとる。
初見ではなぜそんな行動をとったのかわからなかったのだが、これまでの内容を順を追って振り返れば、彼の行動の理由がわかる。
蜘蛛の巣にかかった蝶を見ていた最澄にの目に映っていたのは、そのままの光景ではない。蝶に重なって見えたのは、クマに襲われて死んだあの村娘であり、殺人者の男に殺された村人であり、自分が見捨てようとしてしまった弟子の姿である。
経典を読みふけり、救いを説きながら、彼の目は蜘蛛に食われる蝶を追ってしまう。それは、あの山の神のような男が見せた「生き残ることの合理性」であり「命を奪うことで成り立つ山の摂理」のメタファーだ。
自分が集めた経典の山を見ながら、最澄はこう思っていたのではないだろうか。
――すべてを救うなどと言いながら、自分は他者を見殺しにしてきた。
――これまでやってきたことは、ただの独りよがりだったのではないか。
私は、庵は自然に燃えたのではなく、最澄の内に生じた理想への疑念が「暗い炎」となって点火したのだと思う。最澄が呆けたようにその場を動かなかったのは、自分の身に宿っていた炎をまじまじと見つめていたからだ。
しかし、最澄はその悲劇的な光景のなかに、歌い舞う天人の姿を見る。消火活動をする弟子の目に天人の姿は見えていない。
全てが燃えてしまった後に、ひらりと彼のもとに舞い降りたのは、経典の一部で「無」と記された紙片だった。
これは、何を意味しているのか?
様々は考えられることはあるのだろうが、私は「これまで最澄がやってたことが全部無駄だった」と言う意味ではないと思う。
最澄の財産であった経典が燃えたというのに何かを祝福するように炎の中から天人は現れた。残された「無」という字は、「無駄」という意味ではなく、「自分は何も成しえていなかった、まだ何も無い状態にすぎなかった」ということを悟った、ということなのではないか?
いまだ無であり、自分はまだスタート地点にも立っていなかった、それに気づかされたから最澄は泣いたのではないか。
最澄はのちに、桓武帝に対して「そのために言葉はあるのです。自らの中にある暗い炎に名前を付けるために、自らの持つ煩悩の正体を知るために」という言葉をかける。
2巻の6~9話のエピソードは、最澄が自らの中にある暗い炎の正体を知る話だったのだ。暗い炎を自覚した最澄は、それから「全てを癒す」薬師如来を掘り、のちに不滅の法灯がともされる根本中堂の本尊とする。
最澄と6~9話のエピソードは、もしかしたらこの薬師如来と不滅の法灯がまず念頭にあって、そこから逆算して考えられたのかもしれない。
そうすると「あの方は絶望とともに歩まれるのだと思う」と言った弟子の言葉がよりしっくりとくるかもしれない。つまり、最澄の絶望の発端となった暗い炎こそが、彼が救いを広める動機であり、自分の中に暗い炎が燃えているのを知っている彼が一度の絶望や敗北では止まることはないということだ。
この後も、最澄には数々の困難が降りかかるのだが、このエピソードはそれに向かい合う最澄の壮絶な姿勢の基礎を描いたものだったと思う。
『阿・吽』、電子書籍で2巻まで無料だそうなのでぜひ読んでほしい
kindleで無料のようです〜。この機会に是非。
— おかざき真里 (@cafemari) December 17, 2018
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時代劇なのに「野火」より根源的な反戦映画/塚本晋也監督「斬、」(ざん)
フィリピンのレイテ島を舞台に飢餓に襲われる兵士の視点から戦争の不条理を描いた「野火」から4年、壮絶なテーマ性を引き継ついだ時代劇「斬、」(ざん)が公開された。
あらすじ
舞台は長く続いた太平の時代が終わり、ちまたに「世直し」「攘夷」といった言説が囁かれきな臭さが漂い始める幕末の世。主人公の若き浪人、杢之進(池松壮亮)は、そんな都の喧騒から離れ、里山で農民たちと交わりながら暮らしていた。彼に想いを寄せる気の強い農家の娘ゆう(蒼井優)と、杢之進に憧れ、侍になりたいと剣術稽古に励むゆうの弟・市助(前田隆成)に囲まれ、穏やかな暮らしを過ごす杢之進のもとに、「京で起きる騒乱に参加しないか」と誘う凄腕の浪人・澤村(塚本晋也)が現れる。人を斬ることに疑問を抱く杢之進は、澤村との出会いをきっかけに大きな悩みに対峙することになるのだが…
(以下、全編ネタバレあり)
一見するとふつうの時代劇だが…
ストーリー自体はものすごく単純で、世直しをしろ、無法者は殺す、という幕末の侍の「テンプレ」のような澤村と、人を斬ることに戸惑い続ける杢之進が折り合わず、無益な暴力の果てに二人が相対し、人を斬れない杢之進はどこかに消えてしまう、という内容だ。
これだけ見ると筋がはっきりしない時代劇、と思えるかもしれない。だが実は、「斬、」は戦争の生々しい悲惨を描いた「野火」とそのまま地続きな「反戦映画」であり「暴力の痛みを描くことで非暴力を訴える」映画なのである。
北米の試写会で塚本監督は「『野火』を作ったのは戦後70年という年でしたが、戦争にまた近づいているという恐怖から急いで作りました。多くの観客の皆さんに届いたという手応えがあり、少し安心できるかと思ったのですが、それから3年経っても安心感を得られませんでした。その不安な “叫び”のような気持ちをこの作品にしました」と語る。
『斬、』トロント国際映画祭 塚本晋也監督 北米プレミア上映に登壇 – CINEMATOPICS
新撰組などの志士が活躍する舞台としての幕末は、「かっこよく人を斬る」侍がフィクションで数多く描かれてきた。この時代を新作の舞台に設定したというのも塚本監督の皮肉の一つだろう。「戦争で日本兵が勇敢に戦った!兵隊さんの死のおかげで今の日本がある」という戦後つくられたヒロイズムへの返答として、飢餓に狂っていく人間や無為に死んでいく兵士の死体を見せた「野火」とやっていることは同じだ。戦争の熱に流されて容易に人を殺したり、飢餓に駆られて人肉を喰うことにも葛藤した田村一等兵と、侍でありながら「人が斬れない」と取り乱す杢之進は別の時代を生きる同一人物と言ってもいいだろう。
「人殺し」として侍を描く
「斬、」で描かれるのは「ヒーロー」としての侍ではない。
浪人の杢之進は清廉だがなかなか難しい心理を持つ人物だ。争いを好まず、村を訪れた荒くれ者たちにも心を開いて話し合うといった平和主義的な面が目立つが、一方で自分が持つ日本刀の美しさに異常なほど魅せられている。彼が執拗に光る鉄の刀を見つめる姿は性的ですらあって、鉄の美しさと人を斬る「力」に心底焦がれているというのが分かるのだが、それでも彼はいざという時、生身の人間を斬れないのだ。「刀に執着するのに人が斬れない侍」。人を殺せる武器の力に心酔する気持ちと、生身の人間の命を奪うことを結び付けられない。その葛藤が映画の中で繰り返し繰り返し描かれる。
「そんな侍、本当に幕末にいたんだろうか」と思わないわけではないのだが、塚本監督はインタビューで「普通の現代の若者が幕末に行ってしまったらどうなるか」というアイデアがあったと語っており、杢之進は現代的な葛藤の受け皿となる人物、と見ていいだろう。
杢之進とは対照的に凄腕の侍・澤村は、世直しの使命に殉じ、刀の力を誇示することに全く抵抗がない。一見穏やかで人が良さそうだが、彼が「侍らしく」面倒事を話し合いではなく斬り合いで解決しようとしたことが引き金となり、村で起きた些細な諍いは優を除く村人の皆殺しという陰惨な結果を招くことになる。
侍と刀の力に魅せられていたのはゆうの弟、市助も同じだった。
市助は澤村に世直しの要員に誘われたことに有頂天になり、農民でありながら「人を斬る刀」の力を振るうことを求めてしまう。いつもだったらしない無謀な戦いを挑み、無法者たちに馬鹿にされ最後は命を落としてしまう。こうした場面を通じて繰り返し、「力に振り回されること」の恐ろしさや軽率さを描いている。
映画を見ていくと、澤村は「誇り高く映画の主人公となるような侍」ではなく、なんとかおさまったはずの状況を暴力的な結果に導く単なる「人殺し」ではないかと思えてくる。
実際の斬り合いの場面でも、通常の時代劇のように「かっこよく観客が高揚するような殺陣」は描かれない。杢之進は混乱して刀を取れず、気がふれたように叫び続ける。果し合いに乱入した澤村が行うのは、「正義の執行」でなく、無法者たちの物理的な身体の切断だ。観客が感情移入を促されるのはばたばたと敵を斬り倒す侍側ではなく、腕を失い苦痛に悶える敵側のほうだ。これも通常の時代劇とは異なる演出で、観客からすれば「これから悪者を倒す場面だ」という高揚感が空振りされ、刀で斬られる人体の痛みや死にゆく時の恐れの方に注意を向けざるを得なくなる。
そうしてもう一度、混乱する杢之進と同じく観客は自分に問うことになる。
「人を斬るとはどういうことなのか? なぜ人は人を斬るのか?」
なぜ人は人を斬るのか?
「世直し」のためとあれば簡単に人を殺せる澤村と、刀に焦がれ侍としての役割を自覚しながらも、どうしても人を斬れない杢之進。二人の違いはなんなのか。
当時、武士階級の人々が役目から逃げ出すことは難しかったと思われる。本当だったら義務として人を斬らなければならないし、人を斬れないというそれ自体が相当な恥である。それでも杢之進は澤村の前でみっともなく泣き、「どうしたらあなたのように人を斬れるんですか」と問う。家族を殺されたゆうが「このままじゃみんなは浄土に行けない、侍なら敵を討ってください」と鼓舞しても、無法者を斬れなかった。ゆうが無法者たちに乱暴されているのを目にしても、彼は刀を取って殺すことができなかった。
しかし、侍らしい侍である澤村も到底正義の人のようにも見えない。深手を負って、もう「世直し」を達成できそうもない状況に陥っても、澤村は杢之進に刀を振るわせることにこだわる。「これも御上のため」と嘯くその笑顔は、叶わない妄執に取りつかれたような不気味さがある。農村の風景しか描かれない映画では、彼らのいう「世直し」が本当にあるのかさえ怪しい、と思えてくる。世直しも、動乱も、その御上も、すべて澤村の言う妄想なのではないか、侍たちだけがこだわっている共同の幻想なのではないか、そんな気配すらかんじさせる一幕だ。
澤村の思考回路の不気味さに気付くことは、そのまま「なぜ、人は人を斬るのか」という本作のキャッチコピーに繋がってくる。
些細な行き違いで殺されてしまった市助たち、手足を斬られ痛みに悶えながら息絶えていく無法者たち、彼らの死の光景を今一度思い浮かべれば、こう気づくだろう。
「なぜ、人はそんな理由で人を斬れてしまえるのか。なぜそんな理由で人を殺さなければならないのか」
「なぜ、人は人を斬るのか」という問いの裏側にはこのような告発があったように思えてくる。
「野火」を撮った塚本監督は過去のインタビューで「今までは自分の心の中にあるものを形にするっていうのが自分のこの上ない喜びだと感じていたんですけど、今度は戦争を体験した人が書いた世界を追体験していきたい、っていう全く今までとは違うアプローチでした」
『野火』塚本晋也監督インタビュー「ファンタジーではない本当の暴力を」
と語っているが、「斬、」にも同様のアプローチが見える。追体験するのは武力を行使して英雄になる側ではなく、人を殺さなければならない状況に放り込まれてしまった側の体験であり、そこに安易なヒロイズムは存在しない。「野火」で描かれたのは機関銃や爆撃といった近代的兵器による死だったが、「斬、」で描かれるのは刀を用いたさらに根源的な人殺しであり、杢之進はそのような手ごたえのある生身の死に慄いている。観客は杢之進の恐れと苦しみを追体験する。
悩み、足掻く姿は美しい
終局で、杢之進は襲い掛かる澤村を斬った、という結果だけが描かれるのだが、極限状態に陥った杢之進の心理を引きずるようにエンドロールではカメラはふらふらと光を遮断する森の光景を映す。木から飛び立っていく一つ星のテントウムシを見つけた、と囁く澤村だけが妄執から解き放たれて死んでいったということがほのめかされるが、杢之進がどうなったのかわからない。
作中を通して、杢之進は人を斬ることもできず、役目から逃亡する役どころだというのに非常に美しい存在として描かれていたように思う。「どうしたらあなたのように人を斬れるんですか」と泣く姿も、苦悩を抱えたまま澤村と対峙した時の幽鬼のような姿も、とても見ていて希少で好ましいものに見えた。それは「野火」から「斬、」に至った塚本監督なりの人間愛であり、祈りの一つなんじゃないかと思った。
悩んで足掻いて、弱さを晒してわめくことは、そんなに悪いことか?
不穏な時代にただ黙って呑まれることよりも、ままならない叫びをあげることの方がずっといいのではないか?
そうやって足掻く姿を通してしか、生命の尊さというのは問えないんじゃないか。杢之進のようなあり方を美しく希少だという価値観を保つことが、実はものすごくシンプルな反戦の態度なんじゃないかと思った。