『ロングレッグス』はどこが怖いのか、なぜ『セブン』『ヘレディタリー/継承』と近いのか?

『ヘレディタリー/継承』が自分の人生を変えたと言っていいほど好きな映画です。今回、プロ狂人こと平山夢明先生が『ロングレッグス』は「ヘレディタリーど真ん中ダークホラーだ」とレビューしていたので、これは見なければならないと思い、映画館に足を運びました。確かに『ヘレディタリー/継承』と通底するテーマがある作品でした。
『ロングレッグス』、私はかなり怖いと思ったんですが、その怖さは心霊的な怖さやスリラー的な怖さでなく、やはり「悪魔的な在り方」と「神の不在」をしっかり描いてるからころの怖さだと思うんですよね……。おそらく、アメリカ人にしみついてるそういう慣習や道徳に刺さる怖さなんだと思います。
◆悪魔は人間を堕落させるのが使命
いわゆる悪魔というのは、人間を堕落させることを使命としています。敬虔で善良な人間に罪を犯させて神から引き離すのが悪魔のお仕事なんですね。また、悪魔を実際に存在するもの、というより、神から人間を遠ざける作用そのものを悪魔というとらえ方もあります。
本作で言うと『エクソシスト』や『死霊館』シリーズみたいに、実際に人間に悪態をつく悪魔という存在は出てきません。ただし、「神から人間を遠ざける作用」として、人間を殺し合いに導く力としての悪魔はしっかり物語で描かれていたと思います。
◆ロングレッグスはどうやって人間を堕落させたのか
アメリカ人が考える敬虔な人間っていうとたぶん、家族を大事にする家長、優しい母、素直な子供、という家族に象徴されると思います。だから、家長が母子を殺し、家庭を破壊するというのは非常に悪魔的な、最悪な行為なんですね。ロングレッグス(悪魔の使い)が自分で人間虐殺するのでなく父親を操ってちまちま家族を惨殺するのは、敬虔な人間という存在を邪悪な側に堕とす、堕落させるという目的のためと考えられます。
そうすることで、神を挑発し、毀損する。神が庇護しているものを悪魔側に引き込もうとしているんです。
また、主人公の母もロングレッグスの共犯者として家族を虐殺する手引き役をしていました。「娘を助ける引き換えに他の家族を殺す」という約束を強いたのですが、作中最も神を侮辱するような行いとして描かれていたのがこの点だと思いました。
『ヘレディタリー/継承』でもそうだったと思うのですが、おそらく現代的な感覚で「悪魔に魂を売る」とは、「保身のために弱いものを平気で犠牲にできる精神に堕ちる」ということだと思います。自分が誰かを生かす、助けるのではなく、弱いものを苦しめて自分が得をする、それに罪悪感も感じなくなる……。そういう人間を悪魔の側に立った、というんじゃないでしょうか?
その観点から言うと、主人公の母のケースは最悪です。善良な母親だった彼女は、自分の娘だけは助けて欲しいという願いの元、他の家族を犠牲にして、娘を言い訳にして罪悪感も感じなくなっている。「子への愛」という神の側に属する感情を利用して悪魔的行いをさせるのですから、これはとんでもなく冒涜的なやり方でしょう。
ちなみに、七つの大罪がテーマにもなってる『セブン』ですが、ブラピ演じるデビッド・ミルズ刑事はピュアな心根を持つ人間として描かれています。その彼も最後は「WRATH(憤怒)」の念に囚われて犯人を射殺し、罪を犯します。
悪魔の側に立つ犯人が、ピュアな人間に罪を犯させる=人間を堕落させるという目的を達したので、これは神を挑発する悪魔の物語だと思われます。『ロングレッグス』も、最終的には『セブン』のように、母ともども主人公に罪を犯させて、他人の家族を殺させるところまで計画していたのかもしれません。
◆悪魔の姿・声が描かれないからこそ「悪魔の力」を感じる
本作は、悪魔的なものと言えば人形から出てくる変なモヤモヤとか、時折挿入される蛇の描写だけで、象徴的な部分に留まっていました。それは『ヘレディタリー/継承』や『サスペリア』(リメイク版)で悪魔・魔女の魂が点滅する光として象徴的に表現されたのと同じアプローチだと思います。
今回、シリアルキラーのロングレッグスでさえ、何かのトラウマが原因で悪魔の依り代になってしまったと思わせるシーンもありました。ロングレッグスが死んでも殺人行為が母に受け継がれている点からも、人間の意志を超えた悪魔の力が作用している?と見て取れました。
悪魔が干渉した父親たちは母子を惨殺しましたが、それは本来人間が持っている攻撃性に悪魔が少しだけ手を貸したから、という風にも見えます。人間というのは総体としては善なのかもしれないけど、一時「弱いものを犠牲にしてよい」という想いに囚われたら、もうその時点で悪魔の側に引き寄せられてしまうのかもしれない。悪魔が実際には眼に見えないからこそ、自分が悪魔的なものに接近してしまうのでは……、悪魔の誘惑に負けて人間を辞めてしまうのでは……という怖さが身近に感じられるのです。
◆神から遠のいた主人公は絶望的な戦いを強いられる
主人公は悪魔の側にいってしまった母を撃ち、少女を連れて逃走しますが、彼女自身はもう信仰がないようなので、この先自身の気力だけで悪魔と闘わなくてはなりません。地獄の定義とは神の不在の場所ですし、悪魔とは神から人間を遠ざけるものでもあります。『ロングレッグス』の主人公の心は神から遠のいてしまっているけど、依然として害悪としての悪魔が存在してる。
神の存在は感じ取れないけど、大きな邪悪と戦い続けなくてはいけない、神に助けを求められないけど、だからと言って悪魔の側に付いたら試合終了である。これは現代的な道徳感覚に極めて近いのだと思います。
『ロングレッグス』が怖いのは、恐ろしい邪悪や非人間的な行いは溢れているけど、絶対的な救いも信じ切れない、終わらない後退戦を強いられる道徳的な葛藤というのが映画に反映されているからではないでしょうか‥‥‥。
『教皇選挙』のキリスト教美術史、聖書的な見どころ
『教皇選挙』を見て、かなり聖書ベースのストーリー、キリスト教美術史的な表象をなぞっていると思いましたので、見ていて「これはこういうイメージで撮っているんじゃないかな」と気付いたところを挙げたいと思います。制作者は絶対こうしている!というよりかは私はこう受け取ったということを書いています。
①主人公の名前をわざわざ「トマス」にしている理由

カラヴァッジョ「聖トマスの不信 」
主人公のローレンス枢機卿のファーストネームはトマス。これは12使徒のひとり、聖トマスから取っていると思われます。
聖トマスと言えば、彼が「疑念の人」「不信の人」と評される様になったイエスの復活時のエピソードが有名です。聖書においてイエスは十字架にかけられた後、防腐処理を施され墓所に葬られますが、3日後に復活したと語られます。
聖トマスはイエスの復活に立ち会わなかったので(ルカ福音書等によると立ち会ったのは女性信徒たち)、イエスが復活したと聞いても信じず、自分の眼に見える者しか信じないというリアリストでもありました。しかし槍に刺されたイエスの傷を見て、その復活を悟り、イエスにも「疑わず信じる人になりなさい」と諭されるのです。
十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。
ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。
八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。
それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。
トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。
イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」 ヨハネによる福音書20章24~29
※原作ではローレンスの名前はヤコポ・ロメリーとのことなので、これは映画版でのあえての脚色でしょう
②ローレンス(トマス)がコンクラーベ冒頭でするスピーチ
上記の元ネタを踏まえると、コンクラーベ冒頭でトマスが「確信でなく疑い」が私たちに必要だと言った理由が分かると思います。疑念というのはトマスのエピソードからして推奨されるものではありませんが、ローレンスは自身の名前「トマス」にまつわるエピソードを逆手にとって、自分の頭で何が大事か吟味しろと言ったのです。
「神が教会に与えてくださった賜物は、その多様性です」
「私が何よりも恐れるようになった罪が一つあります。それは確信です。…私たちの信仰は、疑いと手を取り合って歩むからこそ生きていけるのです」
通常、不信とか疑念とかはキリスト教会では推奨されない態度です。(説教で取り上げられるのも、だいたいはイエスや神を信じた者達ですしね)だから、ここでローレンスがわざわざ疑念を主題にしたスピーチをするのは本当に胡乱な状況と捉えられていたと思います。一般の信者相手にはまずしないスピーチですが、政治屋化している一部の教皇候補に対して冷や水を浴びせる意図で「あえて」のスピーチであり、作品のテーマを伝えるための「あえて」の内容だと思います。
ちなみにローレンスがスピーチの中で「エフェソス」におけるパウロの話を引いていた箇所。
パウロがエフェソスで「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」と言ったように、私たちは寛容にならなければならない。
St Paul said “Be subject to one another out of reverence for
Christ.” To work together, and grow together, we must be tolerant.
この「エフェソス」とは、まだ迫害やギリシャ教徒との闘争が色濃かったキリスト教黎明期、小アジアでつくられた信仰共同体。新約聖書の一部「エフェソスの信徒への手紙」では、人々の共同と救いに関する使徒パウロの文言が手紙形式で語られています。
いがみ合ってる面々の前ふさわしい引用でした。使徒パウロも、もともとはユダヤ教徒を迫害していた側で、完全に潔白な聖人ではない、悩む人でもあったパウロの言葉をわざわざ引っ張ってくる所にも、ローレンスの心情が現れています。
英語版テキストではエフェソスってあまり触れてなかったですが、日本語字幕には出てきました。
また以下のスピーチも、よくよく読めばかなりローレンスの切実な状況を説明している内容でした。
「わが神よ、わが神よ、なぜ私をお見捨てになったのですか」と、十字架上で、苦しみのなかでイエスは叫びました。私たちの信仰は、疑いと共に歩むからこそ、生きているのです。
“My God, my God, why have you forsaken me?” He cried out in His agony at the ninth hour on the cross. Our faith is a living thing precisely because it walks hand in hand with doubt.
この、神を栄光だけでなく、十字架上で苦しむイエスという観点から信仰をとらえなおしたのが神学的には「十字架の神学」という立場。これの基礎を作ったのは前述したパウロです。このように一つ一つのセンテンスを見ていくと、ローレンスがどういう立場なのかがよくわかりますね。
※「十字架の神学」の内容は青野太潮さんの『パウロ 十字架の使徒 (岩波新書) 』参照
「イエスの死の絶叫は、無力で惨めな男の絶望と悲嘆を現す絶叫以外の何物でもない。聖書学者の中には、このイエスの絶叫が旧約聖書の〈詩編〉22篇の冒頭の句からの引用だからということで、イエスの絶望に疑問を投げかけたり、ルカと同様の神への信頼の言葉のように解釈する人もいる」
「しかし、神への信頼とするならば〈詩編〉には他にも無数の適当な言葉がある。ここで大事なことは、自分がなぜ殺されなければならなかったのか、イエスには不可解でならなかったということである、イエスの発した言葉の意味を詮索する前に、苦悩と悲哀に満ちたイエスの心情を察することが先決であろう」
イエスが十字架上で神の真意がわからないと言って叫ぶ場面をローレンスは自分に重ねています。それは、イエスでさえ神の真意が理解できない中で畏れながら行動するしかなかった。神の子でさえそんな絶望的な境地で進んだ。自分も前教皇や神の導きがわからない中で選挙に臨むしかない、という気持ちを訴えてるんですね。
個人的に『教皇選挙』見ていて一番泣けたのがローレンスのスピーチでした。「エフェソス信徒への手紙」というのは初期キリスト教において信者にいかに神と共に生きる道を教えるか、指導者たちはどのように協力し合えばよいかを述べた書です。ローレンスの切実なスピーチと共に、困難な時期に初期の教父たちに背中を押してもらいたいという願いのようなものもにじんでいたと思いました。
「わが神よ、わが神よ、なぜ私をお見捨てになったのですか」の箇所も神への疑念を問いかける、聖書解釈でも解釈が分かれる部分でもあります。この一節を持ち出すというのも、コンクラーベという晴れの場にはかなり場違いな印象も受け(実際スピーチ直後、若い聖職者は引いていた)、ローレンスの非常に差し迫った感情が伝わってきました。
◆物語のベース→聖書の「トマスが疑いから解き放たれ信仰を取り戻す」
物語はサスペンスなのですが、ローレンス=不信の使途トマスの現代版という風に私は見ていたので、『教皇選挙』は聖書通り、トマス=ローレンスが信仰を取り戻す物語だと思いました。ローレンスの状況と聖トマスのエピソードは以下の通り
③教皇の死の状況はちょくちょく絵画モチーフを連想
美術史的に気になったのは、教皇臨終の際のシーンの撮り方で、
・臨終時にかけられる布
・白い布で覆われる遺体
がしっかり映される所でした。なぜかというとこれはイエスの死の状況で良く描かれる素材なんですね。
イタリア画家ジュリオ・クローヴィオの絵画、聖骸布を作っているところ
この人がピラトのところへ行って、イエスのからだの引き取り方を願い出て、
それを取りおろして亜麻布に包み、まだだれも葬ったことのない、岩を掘って造った墓に納めた
ルカによる福音書23章 52~53
教皇の亡骸は、現代的な白い死体袋に入れられていたと思いますが、イエスの埋葬の場面を描いた絵では、イエスの身体に亜麻布をぐるぐる巻いてたりします。イエスが生きた時代のユダヤ教徒の埋葬方法が、布をぐるぐる巻いて地下墓地に保管するという方法だったから。慕っていた教皇の遺体が白い布で覆われて、遠くに運びされてしまう、という状況。イエスの死後、使徒たちが見ていた埋葬の光景、心もとなさを連想させるように撮られていたのかなと思いました。
このほか教皇の遺体処理シーンを見ていて連想したのは「ラザロの復活」のシーンでしたね。復活はしないのですが、神の代理人として志は受け継がれていました。
ジョット「ラザロの復活」
④システィーナ礼拝堂「最後の審判」がそのままコンクラーベの審判になってる
コンクラーベはシスティナ礼拝堂のミケランジェロ作「最後の審判」の前で行われます。最後の審判は終末の時に神=キリストが復活する人間、地獄落ちの人間をより分ける場面です。システィナ礼拝堂には「天地創造」もあるんですが、そちらは少ししか映りませんでした。
こちらは公式サイトのネタバレページ を見てもらった方が良いと思いますが、ローレンスの視点だと、人間をより分けるキリストを直視せず、審判を下す天使ばかり見ているのが気になりました。画面下中央でラッパを吹いているのが審判を告げる天使たち。映画内ではこの天使が映った後に爆発が‥‥。システィナ礼拝堂にいて神の姿をほぼ直視しないっていうのは、信仰に困難を抱えているローレンスの視点だからこそかもしれません。
⑤聖霊の兆しが現れる
テロリストによってシスティナ礼拝堂の一角が爆破されたあと、天上横に開いた穴から風が吹き込み、鳥の鳴き声が聴こえてきます。これは、表象的には「神の一側面である聖霊の兆しが現れた」ということを指していると思います。
エレ・グレコ「聖霊降誕」
爆発シーンで起きたこと、「使徒言行録」に出てて画題にもなっているシーンをモチーフの一つにしてんのかな?と感じました。
「五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。」
(「使徒言行録」2章1〜4節
炎のようなものは出てこないのですが、爆破は起きてます。その後、そよ風と鳥の鳴き声が密室に入り込み、物理的な意味でも、議論ののちベニテス枢機卿が注目されるという意味でも「風穴を開ける」展開に。また、カトリックでは聖霊は「鳩」の姿で現れますが、鳥の鳴き声が響くというのも、そういったものを象徴させる演出だったと思います。
実は、上記のシーン以外でも鳥の鳴き声が聴こえるシーンがいくつかありました。それはシスター・アグネスらシスターとローレンスが会話しているシーンです。そこで鳴いている鳥ちゃんはセキセインコだったと思うのですが、はっきりと姿は画面に映り込まず、ささやかな鳴き声だけが聴こえました。
・風と目に見えない鳥の鳴き声が聖霊として表現されている
という前提で考えると、シスターたちの近くで鳥が鳴いていたのはコンクラーベ最前線の場所でシスターたちが危険を察知する炭鉱のカナリアだからでもあり、同時に聖霊が現れて審判=教皇選出へ導く兆しでもあったのかもしれません。この映画はあまりスピリチュアルな方面でなく、あくまで人間の心の動きとしての信心を描いているので、象徴・兆しとしてさりげなく盛り込んでいるという印象。
パンフレットなどをちゃんと読んでいないのでほぼ勘で書いてますが、ローレンスのスピーチの部分の元ネタは多分そうだと思うので、背景を知るとより心情を理解できると思います。
◆その他の小ネタ
共産主義者みたいな教皇→現教皇フランチェスコ
……SNSやホームページの投稿内容が貧困問題、環境問題、平和問題ばかりなので「投稿者の名前を伏せたら共産主義者なのか教皇なのか区別がつかない」とリアルタイムで言われているのを見た
ナチスと闘った教皇→ピウス11世か?
……ナチスと当初友好関係があったが、ナチスの非人道的行いについて非難。または教皇在職中ではないが、ポーランド出身で若い頃ナチスに対抗する活動に身を投じてたヨハネ・パウロ二世か?
児童虐待を黙認した教皇→ベネディクト16世
……聖職者による児童性的虐待問題で厳しい対応を取らなかったことで批判を浴びる
この作品はエンタメですが、ベニテスを見るにけっこう現教皇フランチェスコのリスペクト設定も多いですし、ローレンスの造形というのはかなり真面目に信仰について考えさせるものになっています。
それでいてエンタメとしてレベルが高いので映画としての完成度は凄いのですが、極めて真剣に信仰をテーマにしてる部分がまず刺さりました。なので、個人的にはみんなでワイワイ盛り上がるというより、静かに提示されたテーマを受け止めたいという気持ちになりました。
また、こちらのブログを書くうえで、ネット上で公開されている『教皇選挙』の脚本スクリプトを参考にしました。地の文で語られる部分が映画とは印象違うのでおすすめです。
https://assets.scriptslug.com/live/pdf/scripts/conclave-2024.pdf?v=1738463617
「オッペンハイマー」で引用される「バガヴァッド・ギーター」関連の感想
※『オッペンハイマー』がアマプラ視聴可能になったとのことなので、公開当時に急いで書いた『バガヴァッド・ギーター』関連の感想を再録します。

3時間どういう風に描くつもりなのかと思いましたが、「原爆の父」オッペンハイマーを「後先考えないし、罪悪感を感じるが最終的な責任は取れない男」として描くことに今回は振り切ったのかなと思いました。
■罪悪感は人並にあるが、責任は取れない男
愛人のジーンに死なれたオッピーが研究所を放り出して泣いてるシーン。「(不貞や愛人を傷つけた)罪を犯しておいてその結果に同情しろっていうの?」と奥さんが質してたのが後々の展開にも響いてきてると感じました。
ここで突き付けられた
「甚大な結果をもたらしておいて、同情してもらえると思うな」
「罪悪感でノーカンにはならん」
は全体を通してのテーマだったな…と思います。映画ではオッピーが主人公だけど、主人公に同情を誘うのが目的の映画ではない、というノーランの宣言だったのかな、とも。ストローズは、オッペンハイマーの道徳的呵責など偽りだ、断じますが、偽りではないにしろオッピー自身の罪悪感は曖昧なものにとどまっているという描写に見えました。
※実際のオッペンハイマーはヒロシマ・ナガサキへの被害についてもっと言及していたそうなので、映画ではテーマを深めるためにあえて煮え切らない描写にしてるのかもしれない。
■神話からの引用、プロメテウスの火
私が神話関連が好きなので、本作では神話の引用をしつこく入れている点も面白く見ました。何度も出てくるのはギリシア神話のプロメテウスの火。ギリシア神話のプロメテウスは、人間に火を起こす技術をもたらしますが、人間は火を基に武器を作り戦争を起こしてしまった。プロメテウスはゼウスに罰せられてずっと苦しむ、というオチ。
『オッペンハイマー』の原作本の原題は「American Prometheus(アメリカのプロメテウス)」というらしいです。プロメテウスは「核爆発」という火を手に入れ、原子爆弾や水爆という武器を広める結果となったオッペンハイマーそのものでもありますね。本作では核爆発がオッペンハイマーの幻視として映し出されますが、これはオッペンハイマーが地上にもたらしてした「プロメテウスの火」の象徴的イメージを重ねてるんだろうと思います。「核爆発」自体は人類が発見した技術で純粋な力かもしれませんが、それが核兵器という形で彼の死後も脅威になると考えられなかった。そういう所まで含めて「アメリカのプロメテウス」なんだろうなと。
■神話からの引用、バガヴァッド・ギーター
そのほか、何度も引用されるのが「我は死なり、世界の破壊者なり」というサンスクリット語の一節。これは古代インドの戦争の講話『バガヴァッド・ギータ―』の一節なんですが、戦争で人を殺すことに罪悪感を覚える英雄アルジュナに対して神が「行為の結果など考えずに自分の使命を果たせ」と罪の意識を追い払うよう激励する、という文脈で出てくる言葉です。
https://www.y-history.net/appendix/wh0201-073_1.html
「この者たちが貪欲に心を奪われて家族を滅ぼしたり親しい友同士が殺しあうことに罪を感じないとしても、一家一族を全滅させる罪を知りながらなぜわれらはこの地で戦争などをしなければならないのですか?」(ギーター 一・三七・八)
戦争による死と荒廃を憂慮する人間に対し、神は次のように話します。
「あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にない。行為の結果を動機にしてはいけない。また無為に執着してはならぬ」(ギーター 二・四七)
「全ての行為を私の内に放擲し、自己に関することを考察して、願望なく”私のもの”と言う思いなく、苦熱を離れて戦え」(ギーター 三・三〇)
「『放擲(ほうてき)』は難しい訳語ですが、放棄するということです。(略)すべての行為を『私』のうちに放棄する。つまり、最高神にゆだねる。そして真実の自己に関することを考察して、願望なく、『私のもの』という思いなく、苦しみを離れて戦えということです」(上村勝彦『バガヴァッド・ギーターの世界 ヒンドゥー教の救済』)
そうして神は、自分の真の姿を現し、「われは死なり、世界の破壊者なり」と告げます。疑念に囚われていた英雄は、その姿を見て再び戦場で戦う意思を取り戻す、というところで講話は終わります。
インド思想界隈だとこの「あなたの職務は行為そのものにある、その結果にない」という考えはかなり有名なんですよね。本作でもやたら「科学者は結果について考えるのが仕事ではない」「職務に忠実にただただ前進しろ」という話が出てきます。ちょっと考えすぎかもしれませんが、「世界の破壊者なり」の元ネタと背景も込みで、神話的寓意と重ねて「職務の結果に頓着しない科学者」の描写をやたら入れてんのかな…?と思う箇所が多かったです。
これも余談なんですが以前読んだ、ノーベル賞受賞の経済学者の著作『議論好きなインド人』という本で、オッペンハイマーと印パの核開発競争について神話的寓話をもとに言及してる文章がありました。
「『マハーバーラタ』の終わりに近づく部分に描かれる、戦闘と殺戮が終結したあとの土地、すなわちインド。ガンジス河平原あたりの土地の悲劇的な荒廃の様子は、アルジュナの抱いた深遠な懐疑の正しさを証明するものとも読める」「『バガヴァッド・ギータ―』のメッセージが何を意味しようと、アルジュナの反論は完全に駆逐されてしまったのではない。たんに『前進する(forward)』のではなく、『良く生きる(faring well)』べきという力強い主張は残っているのである
アマルティア・セン 著『議論好きなインド人』
正義の陣営にいるからといって、「前へ進め」という考えや理想だけで、生じた結果を正当化することはできない。多くの死に対する分析や熟慮が大事なんだと神話の寓話と核開発を絡めてまとめてたんですが
「ここで書かれてたことと今回のオッペンハイマーの話にまんま当てはまるじゃん…」と感じました。オッペンハイマーは「前進せよ、振り返るな」という神の声に異義を申し立てず、むしろ自分の側が破壊を推進する神のように振舞っていたんだろうと思います。
■「世界の破壊者」にならない、ターニングポイントもあった
オッペンハイマーがあまり結果に頓着せず、起きたことに責任を取らないあり方は随所で描写されてました。イラっとしたからリンゴに毒を入れる、妻子がいるのに浮気する、共産主義者の身内を開発に携わらせる、ストローズを過剰にやり込めて恨みをかってしまう、等々。
それでも、冒頭の毒リンゴ事件はその後に起きる死という結果を考えて、一応は引き返すことができたんですね。もう一度、オッペンハイマーがまだ引き返せるターニングポイントだったのが、アインシュタインとの会話のシーンです。
「この計算は正しいよ」という回答を得られた瞬間、核爆発が世界を本当に破壊する武器になりうるのをオッペンハイマーは理解しました。プロメテウスの火を手に入れただけでなく、核戦争で世界が滅ぶ未来までこの時点で予見してました。でも、正義の陣営にいるのだから、結果より前進が大事だと思って引き返さなかったんですね。
グローヴスにも「連鎖反応で世界が終わる可能性は<ゼロ>じゃないんだな?」と問いただされてましたが、最終的な結果・起きうる未来からは目をそらしていた様子がうかがえます。
「世界の破壊者になった」と言うが、この映画では「そういう結果にならない道もあったよね?」というシーンを幾度も入れつつ、「一度世界を破壊する手段を手に入れてしまったら以前の世界には戻れない」という恐怖を意識的にしつこく描いてました。
どんな天才でも、絶対にナチやソ連には勝たないといけない、国から予算もらってるんだから成功させないといけないという外圧とか高揚感に突き動かされるし、一度そういう渦に入ったら抗えない。そういう「渦中にいるときは結果のことは考えられなかった」というリアルを追体験するには、オッペンハイマーの一人称視点というのは最適解だったのかな、という感想になりました。
■日米の視点など
今回、日本人として映画見るアドバンテージがあるとしたら「オッペンハイマーが目をそらしていた被害の実像」を説明なくても脳裏に浮かべた上で物語を追える、という点ですかね(オッピーが目をそらしてた被爆地の写真、○○万人の被害という数字で示された被害の実態、ちらっと話題に上がって消えた原爆症の影響など)
日本の被爆の実態について具体的描写がなかったのはある意味逃げでもあると思いますが、オッペンハイマー自身が「罪悪感はあるが、自分が招いた結果を直視できない人間」と私生活でも通して描かれていたので、その描写にはかなり納得はいきました。
あと作中、日本について「ドイツにくっついてた敵国の一つ」くらいの扱いだったのもある意味率直な視点なのかなと思いました。こっちは被爆国という意識がありますが、映画撮ってる方はそっちより日本=戦争加害国の一つとして描いてんだろうなと。「日本の被爆のことは知らないけど日本が戦争中ナチと組んだ国なのは知ってる」という人の方が世界には多いというのもこの描写で感じたので、これは新鮮でもありましたね。
■まとめ
私はクリストファー・ノーランが好きなので「あまりにもオッピーその他が被害に無頓着なのは、彼らを暗に批判するために無頓着に描いてる」と好意的に解釈しちゃってますが、そうでない部分もあると思います。このほか、個人的には『オッペンハイマー』はこうの史代『夕凪の街 桜の国』とセットで完成するような内容だと思ってるので、アメリカ現地の人にもセットで見て欲しい気持ちがありますね。
『関心領域』感想、「無関心」ではなく「頑張って嫌なことから目を背ける不断の努力」
『関心領域』、事前に予想していたのとは少し違った形に直撃しました。自分はエンドロールあたりで吐きそうになったりしたのですが、なんでそうなったのか、つらつら考えたことを書こうと思います。
①予告の「無関心という恐怖」はミスリード?
予告に「無関心という恐怖」というコピーがあったので、虐殺に無関心でガーデニングばっかしているドイツ人一家の話かと思いましたが、それは違いましたね。本国版の宣伝を見てないのですが、鑑賞後「"無関心という恐怖”という文言は、分かりやすくしすぎてて若干ミスリードでは」という感想をまず持ちました。
主人公格であるヘス夫人ことヘートヴィヒは「平凡な人間が犯しがちな無関心」とは対極な生き方をしてる人間として描かれてたと思います。冒頭からママ友?とユダヤ人の財産をせしめる方法で盛り上がり、強制収容されたユダヤ人の毛皮と化粧品にご満悦。生きた人間から高級品を収奪をすることに抵抗がありません。
ヘートヴィヒは、塀の向こうにあるアウシュビッツ強制収容所で何が行われているのかもおおよそ理解してます。ユダヤ人の使用人に「夫があんたを灰にしてやるから」と吐き捨てるなど、「なんも知らん無関心主婦ではない」という描写は随所に見られました。
強制収容所の司令官たる夫ヘスと、戦争に無関心な善き母であり善き妻であるヘートヴィヒ、という描き方には最初からなっていないわけです。
ヘートヴィヒは、庭付き一戸建ての生活(ただしアウシュビッツ隣接)を理想の環境と考え、庭造りや子どもの教育に励みます。夫の転属があっても、この環境を死守したいと考え、「総統が生存圏獲得を説いたように、ここ(庭付き一戸建て)が私の生存圏」と主張します。
「東方生存圏の獲得」とはヒトラーが『我が闘争』の中で主張していた構想で、具体的にはアジア人の西欧進出を防ぐため、ドイツが東方(ポーランドとかハンガリーとか)に入植し、生活圏を築くことで防衛するというもの。
もともとアウシュビッツのような絶滅収容所ができたのも、この「東方生存圏」の構想があったからです。構想に従い東方の国を次々に侵略していったはいいものの、占領地にもユダヤ人が当然住んでます。「生存圏」を広げたことで、ユダヤ人の国外追放先がなくなり、現地で収容して殺すしかなくなった、という経緯。
「東方生存圏」について参考
<考える広場>ナチスに「良い面」もあるのか? 熊倉逸男・論説委員が聞く:東京新聞 TOKYO Web
占領先のポーランド、ユダヤ人収容所の隣で「庭付き一戸建ての生存圏を主張する」というシーン。これはかなり考えられた台詞だと感じました。ヘートヴィヒ自体は直接的に虐殺をしませんが、彼女のあり方というのはある意味ナチを体現している。
「家庭人としてナチ思想を内面化したらこうなる」という風に描かれていたように思います。積極的に「生存圏」を死守したい、と言ってる人間は意思が明確なので、組織の歯車的な意味で言われる『凡庸な悪』とは違うと思うんですよね。
実際にユダヤ人虐殺計画をプランニングしてるヘスは言わずもがなですが、家庭人ヘートヴィヒも、いわゆる「平凡な人」ではない。ナチのやり方に反対していた人や連合国側から見たら「悪人」の範疇であったと思われます。
マライ・メントラインさんが紹介していた『関心領域』のルドルフ・ヘスのお孫さんへのインタビューでは、映画で描かれたようにヘートヴィヒは何も知らない一般人でなく、確信的なナチであったと語られています。
ーーIch denke, sie wusste viel, was in Auschwitz passierte. Sie war ideologisch sehr klar, profitierte vom System und zeigte nach außen keine Reue. „Wir sind mit den Nationalsozialisten aufgestiegen und mit ihnen gefallen“
彼女はアウシュビッツで何が起こったかをよく知っていたと思う。彼女はナチのイデオロギーに対して自覚的で、システムから利益を得ていて、表向きには反省の色を見せなかった
②明確な「悪役(ヒール)」としては描かれない加害者たち
まあ「悪人」だとは思うのですが、本作で画期的だったのは、映画的な「完全な悪役(ヒール)」としてヘスやヘートヴィヒを扱ってはいないという点です。
冒頭でユダヤ人を燃やす焼却炉の打ち合わせをするなど、「収容所の司令官」としての職務を務めていたヘス。家庭ではやや気弱な夫であり、虐殺の任務にもストレスを溜めているように見えました。動物や自然との触れあいに癒しを見出している描写もあり、現代の中間管理職的な悲哀も感じさせます。これは『シンドラーのリスト』で描かれた悪役・収容所所長アーモン・ゲートを念頭に、ステレオタイプにならないよう描き分けをした造形に見えます。
享楽的にユダヤ人殺しまくる、誰から見てもヒールとしてのナチではなく、小市民的ですらあるヘス。「世界史に残る大虐殺に関わった極悪人」というような、スケールの大きさとは見合わない人物造形です。虐殺と『関心領域』に出てくる気弱なお父さんヘスが一見して結びつかないんですよね。
ヘスのユダヤ人虐殺プラン作成、強制収容所の司令官という「人類悪」のような業務内容と、ヘス個人のメンタリティが一致しない、容易に「ヒール」の型に嵌まらないように描かれてます。これは観客にこの映画を「筋の通った物語」として呑みこませないための人物造形なんだなと思いました。
(ヘスの回想録で「自分は普通の人間なんだ」という主張があるそうですが、これはこれとして胸糞を感じました。普通ではないだろ)
作中、やってることは人類悪に数えられるがメンタリティ含め「ヒール」として描かれる人は出てきません。家庭人としてナチを体現しているようなヘートヴィヒも、虐殺に平然としているサイコパスなわけではない。
③無関心≠頑張って嫌なことから目を背ける努力
断末魔が響く屋敷にいながら主婦業をやってるヘートヴィヒは、ユダヤ人の遺灰が子どもたちに付着したら全力で洗い流そうとします。この場所に、自分達が作り出した死の痕跡が満ちていると実は気付いているからです。
屋敷を訪ねて来たヘートヴィヒの母が、収容所から聞こえる銃声や叫び声、人間を焼く煙にメンタルをやられ逃げかえってしまった描写もありました。母に逃げ帰られたヘートヴィヒは気分を害してユダヤ人の使用人に八つ当たりしますが、これは「隣で虐殺が行われている異常な環境を我が家としている」ことを改めて自覚させられたからでしょう。ここの描写は、彼女が本当は無関心でなく、見ないことを積極的に選んでいることを暗に示してたと思います。
また、母には使用人をユダヤ人でなく近所の人と紹介してましたが、これも「殺す前のユダヤ人を労働力として使ってる」ことが後ろめたいから嘘ついてたと思います。強制収容所と我が家を隔てた塀が見えないよう、蔓科の薔薇を植えようという話もしてますが、本当は塀を見たくないんですよね。彼女にも、後ろめたい、罪悪感を覚えたくないという気持ちはあるのです。努力して隠してはいますが……。
私が本作を見て「本当にいやだな…」と感じたのは、「虐殺を見ないようにして理想の生活を維持する不断の努力」をずっと見せられてたから。「無関心はダメだ」という教条的な話ではありません。「嫌なことを見ないようにするため素敵なことを考え続ける努力」。それを持続するパワーを感じました。ひたむきですらある。
でも、彼女の領土・生存圏は殺した人間の土地だし、花が咲く庭の土には人間の灰がまかれている。作中描写されませんが、死体が燃える匂いもしたはずなんですよね。
④『サウルの息子』との関連性
「見たくないものを視ないようにする努力」ですが、これは映画『サウルの息子』で別の形で描かれてました。
『サウルの息子』は強制収容所で死体処理係をしていたユダヤ人サウルの視点で話が進みます。背景にはもやがかかっていますがこれは、子どもの死や、虐殺の場面を見るのがつらすぎて、彼の脳が見ることを拒否しているから。
『サウルの息子』では「それを直視したらもはや生きていけない」、だから最大の関心ごとを画面に映さないという手法が採用されてました。
『関心領域』もこの手法に影響を受けているのでは?と感じました。塀の向こうの出来事を直視してしまったら「理想の生活」が終わる。「自分たちが虐殺の加害者」であるという最大の「嫌なこと」を実は認知しているから、登場人物の目には映らないのかもしれません。
ある意味、『サウルの息子』と『関心領域』は表と裏、内と外のような映画です。ただし、『サウルの息子』はそんな悲惨な状況下でも、尊厳を貫く物語として成立してます。『関心領域』では、「悪人だがメンタリティ的にはギリ感情移入可能な人間がひたらすら加害から目をそらす様」を追体験しないといけません。観客は、尊厳を取り戻そうとするユダヤ人に感情移入することも、悲劇に感じ入ることもできません。
この描写から、自分が好きな映画『ちいさな独裁者』の監督が言ってた言葉を連想しました。
「(前略)実際はほとんどの人たちは当時、立ち上がったり抗ったりせず、ただどっちつかずの形で生きただけだ。立ち上がった人の多くは亡くなったし、彼らの映画を作るのは何も悪いことではないが、人はそうしたヒーロー的人物になりたがり、倫理的な視点を持った人物と自分を重ね合わせて見る方が楽だと感じるそんな風に安心して見られる映画など作りたくなかった。歴史はそうはなっていないのだから」
「もし私たちが血にまみれた歴史を忘れ、 なりたい人間像に自分自身を当てはめて安らぎを得たら、非常にもろい状態になる。」
『関心領域』の作中、収容所で働くユダヤ人のためにリンゴを埋める少女が登場します。この少女は、作品内で唯一の英雄と言ってよいと思います。でも、彼女はヘス一家からは見えない(赤外線でしか視認できない)存在です。監督は「エネルギー態」のようなものとして彼女を表現していたそうで、一瞬昼間の姿も映るのですが、観客が素直に感情移入できる存在としては描かれはいなかったと思います。
『関心領域』には、「こうなりたいと思う英雄」も「悪役と割り切れるキャラクター」もキャラとして描かれないし、「同情できる悲惨な被害者」もはっきりと映らない。でもヘス一家の歪みや「自分が人でなしだとはっきりとは自覚したくない」というメンタリティはなんとなく理解できてしまう‥‥‥。
前提知識や想像力を要求されはしますが、現代人が「自分事」として感じられるような見せ方と人物造形に徹してたと思います。
余談:
私はこのヘス一家の日常(実は日常でない)で十分「自分事」を感じたので猛烈に気分が悪くなったのですが、ラストの現代との接続シーンはそこまで響きませんでした。第三の壁を乗り越えるようにヘスがこっちを見ることで「現実と接続する」という表現意図なのだろうな、とは思います。
これは、見ようによっては「駄目押しをしすぎではないか」「説明しすぎでは」となりそうでした。自己啓発的な色が濃くなっちゃうというか…
私自身は映画を見ながら嫌な意味で「こいつらと自分は同類なんだろうな」と感じてしまったので、ラストであえて意図を固定しなくても作中描写で十分伝わったなという想いです。
『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』感想、「因習村ホラー」でなく「われわれの側」の邪悪と希望を描いた快作

ホラー邦画『犬鳴村』を思わせるトンネル、遺言状開示から始まる『犬神家の一族』なんかをもろ彷彿させる導入……。このあたりの描写から横溝正史風「因習村ホラー」という口コミが広がっていた『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』(以下『ゲ謎』)。
映画を見た初見感想では「これ、いわゆる"因習村ホラー"に見せかけて全然違う話だ」と思いました。
- そもそも「因習村ホラー」ってなによ?
- 描かれているのは「人を踏み台にするシステム」そのもの
- 忌まわしい近親相姦も邪悪な利益循環システムの一環
- グルになってる村人は「われわれの側」の似姿でもある…
- なぜ、今回戦う妖怪が「狂骨」だったのか…?
- 雑誌記者の山田はかなり希望として描かれてないか?
- 未来を奪われた時弥と、未来を願われた鬼太郎
- 嫌さと対比するように、鬼太郎誕生の尊さが描かれてる
- 片眼で世界を見る、見えないものを視るということ
そもそも「因習村ホラー」ってなによ?
「因習」って田舎の未開文化にいる人たちが、近代化されてないが故の無知により信じてるおかしな風習・掟のことを指すと思います。『八つ墓村』だと「それは中国と山陰との境にある、因習と迷信にこりかたまった村である」という描写があるそうで。洋画だと『ウィッカーマン』などのfolk horrorジャンルが有名です。
その年の生贄を決める村の風習を書いたシャーリィ・ジャクスンの『くじ』も類型です。ですが、これは100年前の小説なんで、現代ホラー作家は同じような「因習」を考えなしでは書きません。地方や未開と見なした共同体への差別になるので、今描くなら、もっと現代コミュニティよりの悪意・恐怖をテーマにします。
なので、テンプレ的「因習村ホラー」って実は中々ないんですよね。アリ・アスター『ミッドサマー』も異教カルトの共同体の話ですが、これもただテンプレ的に邪教の因習を描いているわけでなく、古典のfolk horrorを換骨奪胎する作品でした。
『ゲ謎』も同じく「因習村ホラー」のガワを被った別物で、むしろ村人の方が自分らを「因習にとらわれてる田舎者」と偽装してる共同体の話。地方=未開・他者という風には位置付けてない、かなり巧妙に考えられている設定でした。
描かれているのは「人を踏み台にするシステム」そのもの
物語の舞台は、政界にも強いパイプを持つ龍賀一族の生家とされる「哭倉村」。龍賀一族は戦時中に極秘に使用されていた、不死身の兵士を生む血液製剤「M」によって財を成した一族。その当主の死の一報を聞きつけ、遺言状開示に立ち会おうとする帝国血液銀行担当者・水木。そんな彼が、妻を探す謎の男(鬼太郎父、以下ゲゲ郎)と出会い、血液製剤に絡んだ陰惨な連続殺人事件の謎を解き明かしていく。
このあらすじだけ見ると横溝正史作・市川崑映画のまんまですが、起きる事件とその顛末も「未開な地で因習に浸る人たちを成敗する」という単純な話ではなかったです。哭倉村で実際に行われてるのは村の中でだけで完結する因習でなく、弱者を搾取して富国強兵や経済成長の一端だったから。
呪いを司る龍賀一族がやってることは、鬼太郎の一族である幽霊族の血と、被験者になる貧乏人たちをつかった人体実験。これで不死の血液製剤を作り戦争に貢献した一族の村なので、時代錯誤で無意味な迷信に従ってる人たちではない。自分たちのやってる悪事に自覚的で「弱者を犠牲にして利益を生むシステム」を維持してる村なんです。
だから因習村の人たちが意味不明な迷信を信じてる、というホラー展開と違い、実態としては人権無視の企業と社員たちのような近代的な悪事をやってる。あと「科学発展のためなら人間以下と見なした者の命を使い捨てていい」という姿勢は、人体実験で医療の進歩を目指してたナチスや731部隊とかの有様にかなり近い描写だと思いました。
(人体実験工場の有益性を説いてる描写は、「アーリア人の進歩のためにユダヤ人使って人体実験しよう」みたいなことを言ってるナチス医師の手記を思い出してかなり嫌でしたね)
忌まわしい近親相姦も邪悪な利益循環システムの一環
霊力の強い龍賀一族の娘は濃い血を作るために、父・祖父と交わる掟があり、それが物語後半で暴露されます。これも「因習村あるある」で片づけるのは違うかな、と思いました。(顔見知りの女たちがみんな一人の男の子を身ごもってる、というのは『悪魔の手毬唄』っぽくはあった)
龍賀は呪術師ですが、「日本を世界一の産業国にする」という富国強兵思想というか、一見するとありそうな資本主義的思考に基づいて長年悪事に手を染めてます。「国の発展のための犠牲になれんだから喜べ」みたいな、搾取の正当化になること言ってくる。
近親相姦のルールも因習ではなく、「最も効率よく利益を生む術師を生む、そのスペアを用意する」という最短距離で利益を生むシステムの一環なんです。
父親と交わるという「嫌なこと」を受け入れた長女の乙米は、たぶんどっかで心が壊れてて、「自分がそういう金を生むシステムの犠牲になったんだから、他の人間や異種族が犠牲になって当然」と思ってる。「システムの中で搾取されたから、今度は自分がシステムの上位に立って搾取する側に回ってやる」という思考の中で生きてる悪役なのだと思いました。
これは、呪術が存在する鬼太郎世界だかこその、邪悪な合理性に基づいてる設定だったと思います。拝み屋が出てくる『百鬼夜行』シリーズだったら憑き物落とししてくれるんですが「呪いも妖怪もある・いるんだよ」の世界なので、呪いや妖怪を使ってガチの悪事が可能なんですね。
グルになってる村人は「われわれの側」の似姿でもある…
哭倉村は、異種族である幽霊族を狩って、身寄りのない人間を人さらいして人体実験するヤベー村。でもこの村人たち、おかしな信仰心とかでなく金と生活の安泰のために悪事に手を染めてる、って点が重要だと思います。
「傘下にいれば金儲けの恩恵受けられる」と思って一族に協力してる村人は、「捨てられる前にのし上がる」と言って搾取する側に回ろうとしてた冒頭の水木とも重なります。前半、水木の側から「ぼーっと善良でいたら使い捨てられ、奪われてしまう」というような戦争体験が語られてました。なので、「持たざる者は良い暮らしのためなら他者を食い物にせざるを得ない」も作品を通底する切実さとして響いてくるんですよね。
ラストバトルで、ラスボスから「お前に社長の椅子をやろう」と富と地位を約束された水木。彼にはゲゲ郎の存在があったから拒否できたけれど、一般村人はその懐柔を拒否できないと思うんですよ。しかも、龍賀一族は「これは国の経済成長のためなんだよ!ポジティブ!」という自己正当化の理由もくれますからね。
このあたり、サラっと流してますが、「因習村!」「未開人の悪事!」とかじゃなくて、「いや、俺ら近代人が手を染めがちな悪事+正当化の理屈じゃん」という描き方になってると思います。ごく一部の村で極悪な人たちがやってる特殊な悪事、ではないよね…現代の駄目なとこの縮図なんだよね。
なので、導入からラストの筋書きとしては「村の因習を終わらせる」という体裁を取りながら、水木たちが立ち向かったのは、「富国強兵や経済成長のために人を踏み台にするシステム」そのもの、だったと思います。
なぜ、今回戦う妖怪が「狂骨」だったのか…?

今回、倒すべき妖怪が「狂骨」でした。野ざらしにされた骨に宿った恨みの化身と言われる狂骨は、もとは江戸時代の画人・鳥山石燕の画集にでてくる妖怪。
今回、京極堂シリーズではおなじみではあるものの、この地味な妖怪をラスボスに据えた意図がこの映画にはあるんだと思いました。私がかなり強めに連想したのは、水木先生の実録戦記漫画『総員玉碎せよ!』なんですよね。
作中、水木の「大義のために死ねと命じられたのに、上官は一緒に死んでくれなかった」という回想シーンがあります。水木が人間への信頼を失った一因なんですが、これ『総員玉砕せよ!』に全く同じシーンがあります。『ゲ謎』水木は、『墓場鬼太郎』の水木青年が元ネタだけど、加えて『総員玉碎せよ!』のキャラクターと水木先生の戦争体験をミックスした造形なんですね。
・『ゲ謎』の水木
→玉碎命令に従い突撃中に左半身負傷、死にきれず終戦へ
・現実の水木しげる先生
→不完全な玉碎命令が出た後、左手を吹き飛ばされて病院収容、終戦へ
・『総員玉碎せよ!』の丸山(水木先生の分身)
→玉碎命令に従って死亡、骨だけの屍となりバイエンに留まる
『ゲ謎』の水木は玉砕命令後も負傷して生き延びますが、『総員玉砕せよ!』で描かれたもう一人の水木であり、水木先生の分身である丸山二等兵は命令に従って死んでいます。
ああ
みんなこんな気持ちで死んで行ったんだな
誰にみられることもなく 誰に語ることもできず……ただ忘れさられるだけ…『総員玉碎せよ!』より
漫画のラストシーンは、忘れ去られていくこと嘆いて死んでいく丸山の最期、そして玉砕で死んでいった人々の骨の集まり。見知らぬ土地で野ざらしになり、判別もつかなくなっていく屍の集合のアップ。崩れた骨、骨、骨が、鬼気迫る写実で描かれています。
『ゲ謎』映画のラスト、恨みの化身になって襲い掛かってくる骨の霊。これは『総員玉砕せよ!』で描かれた戦場の地獄や無念をオーバーラップさせるような演出になってるのでは…、と感じました。
『総員玉砕せよ!』要素を踏まえると、70年後、狂骨になった時弥が「忘れないで…」と言ったこと、雑誌記者が悲しみの記憶を引き継ぐことを誓った意味についても納得がいくと思います。
ラスボスや乙米らが「幽霊族や被験者の犠牲は、国を豊かにするために必要な犠牲」と説きますが、その発言というのは、「大義のためなら死ね」と玉碎を強いた者たちに意図的に重ねてると思うんですよね。水木が「ふざけんじゃねぇ」と、言えたのも戦後も同じことが繰り返されることに嫌気がさしたからでしょうしね。
血液製剤の使い道が、戦前=不死身の兵士、戦後=酷使できる労働力とされる想定。水木が村入りした時点では「戦争が終わっても変わらず誰かを使い捨てるシステム」は維持されていました。なので、大義のために死ねと言われて顧みられない者がいる構造や、誰かの犠牲を前提として得られる幸福そのものを水木は拒否したんだと思うんですよね。
この展開見て、『総員玉砕せよ!』で玉砕を拒んだ軍医の台詞も思い出しました。
「人生ってそんなもんじゃないですか、つかの間からつかの間に渡る光みたいなもんですよ。それを遮るものは、なんだろうと悪ですよ、制度だってなんだって悪ですよ」『総員玉碎せよ!』より
小さな村の因習、という導入をフックにして、大義のためなら人の命や尊厳を軽んじるシステム全体への批判というところまで映画の中で描かれてたと思います。
雑誌記者の山田はかなり希望として描かれてないか?
「哭倉村の村人たちはダメな部類の水木や俺らの似姿ではないか」という話しましたが、未来パートで、スクープ求めて鬼太郎を追い回してた雑誌記者も、最初はその部類のキャラだったと思います。
雑誌記者の山田、「私欲で村に足を踏み入れた」「村のヤバイ秘密を知る」「それに抗って戦う幽霊族の生き残りの頑張りを知る」という流れまで水木とコンプしてるんですよね。
山田は水木みたいにクソ度胸でないし、昭和イケメンでもないが、「自分にも悪事を再生産させないためにできることはある」と気づいた人でもある。鬼太郎だけでなく、おそらくスペック的には一番観客に近い山田も希望の一つである、って提示するの、絶望で終わらせない良い作りだと思います。
「未来への希望」と言えば、映画の中では次世代を生きる子供=鬼太郎のこと。でも、水木やゲゲ郎(+山田)が抱く希望というのは、ただ子供に願いを託すという他力本願ではない。希望となる子の未来のために、自分らはあがいてよいのだ。負けるかもしれない、何も残せないで終わるのかもしれないが、そうやって今あがくことを許されてるんだ、という希望。
未来を奪われた時弥と、未来を願われた鬼太郎
『ゲ謎』、きちんと「何が非人間的な思考なのか」をしっかり描いているから「自分たちはどうすれば人間性を捨てずに生きられるのか」という点まで考えられる作りになってる。
作中、私が非人間的で怖いと思ったのは「システム維持のためなら人の生殖を管理して良いという考え」と「年長者が子供を資源として考えている」というこの2つです。
① 人間の生殖を管理して搾取して良い、という考えの嫌さ
私が作中もっとも「嫌」で、映画館で天を仰いだのは、不死の血液製剤の原料となる幽霊族の血を手に入れるため、ゲゲ郎に、「お前達夫婦だったならちょうどいい、番って子供を生みなさい」的なこと乙米が言い放ったシーンです。幽霊族の最後の生き残りに、子供をたくさん作らせて血の供給源を確保しようという意図で話してました。
このとき乙米はゲゲ郎の手を切り落とせと命じてたので、本当に子を生ませ血を奪うための道具として扱うつもりだったんですよね。龍賀一族の人は、人間なんだけどみんなシステムの奴隷になるような生き方を強いられてて、そこに個人としての愛とかない(乙米と長田は内心では愛し合ってたらしいが…)。
一方、人間ではないゲゲ郎と鬼太郎母は、作中もっとも温かな情感を共有してる夫婦として描かれてました。ゲゲ郎はもともと「人間のこと憎んでた」というスタンスですが、人間を愛してる奥さんの気持ちを尊重して町暮らしてたよう。クソ強いのに、妻の命乞いのために自分は死んでも良いとも言ってる。こっちの夫婦は人外なのに龍賀の人間にはない「人間らしい愛」を全部持ってるんですよね。
ここで、「何が人間で何が人間でないのか?人間性とは何なのか」?の問いかけがなされてたと思います。
人間への信頼を失ってた水木にさえちょっと影響受けるような愛情を持つゲゲ郎と奥さん。それを文字通りただの「番」としか捉えてないあの台詞は割と吐き気を催す「嫌さ」でしたね。奥さんも幽閉されて瀕死の状態だったので、自由効かない夫妻を延命させて家畜みたいに扱うつもりだったんで、本当に「非人間化」「人間性のはく奪」の極みなんですよね。
この映画の作り手は倫理観がしっかりしてるせいか、その裏返しで「もっとも非倫理的でカスな思考回路」というのを真面目に考えて、すごい解像度でぶつけてくるので油断できない。
しかし、元をたどれば龍賀一族の女は当たり前のように父親に生殖行為を強いられ子供を産まされてきた、という背景があります。ああやって幽霊族を虐待して溜飲下げてる乙米も父親の野心を内面化するしかなかったのかも。
② 身体と人生を年長者に奪われる子供の図、という嫌さ
私が『ゲ謎』で『ヘレディタリー/継承』らしい「嫌さ」を感じたのは老衰したラスボスの魂が、孫の時弥(じつは器として娘に産ませた息子)を乗っ取った展開です。
未来がある子供を自分への生贄にする、というの、ヘレディタリーの死した祖母やペイモン教の年輩者たちがこぞってやったことなんですよね。本来成長を見守り、子供のために何かを残す側にいる年長者が、子供の人生を欲望成就の資源とする、という嫌さ。
ヘレディタリーではホラー要素マシマシ描写を入れ、『ゲ謎』だと漫画チックな表現にとどめるという配慮はありましたが、やっぱ根元的かつシンプルな嫌悪感がありました。た
これも、「幽霊族に子供産ませて永続的に金儲けしようぜ!」というカスの発想と地続きで、生まれてくる子供のこと資源としか考えてない。時弥の母も、息子について執着はありながら、最終的には一族内で成りあがる道具としての認識が勝ったのでラスボスに息子を手渡してました。
嫌さと対比するように、鬼太郎誕生の尊さが描かれてる
父親に身体と人生を奪われる時弥と、父と母+居合わせた他人である水木の頑張りで誕生する鬼太郎は物語の中で意図的に対比されてます。だから、物語の最後に対峙するのが、生きたくても生きられなかった時弥の霊なんですね。
私は映画公開前に出されたキービジュアルが大好きで、これを見て映画見に行こうと決めたくらいですが、映画見終わった後、なんでこの絵面になったのかしっくりきました。すでにインターネットのオタクが100回くらい言及してると思いますが、サイコーなので私も言おうかなと思います。

歩兵銃もった水木が血で汚れたお地蔵様の群れのそばに立つという構図。この血濡れのお地蔵様は、未来を生きる子を祝福して昇天していった幽霊族の人々、もしくは母を表してるのかな?と思いました。
お地蔵様は子供の人命を守護する菩薩だから、やっぱ、自分達は傷つき、手を汚しながら鬼太郎の生を祝福する幽霊族のみんな。またはお地蔵様はサンスクリット語だと母胎・子宮とかの意味もあったので、あの70年前は母の胎内にいた鬼太郎、を暗示してるのかも。
父たちや水木、死んでいった同族たち(または母の肉体)は血まみれだけど、鬼太郎は血で汚れていない。生まれてくる命を守護する者達の「落とし前は俺達の側でつける」「子供の未来は血塗られたものにはしない」という作中メッセージを込めてるんだろうと思います。
片眼で世界を見る、見えないものを視るということ
この映画のテーマが、目玉の親父のエピソード0らしく「片目で見るくらいでちょうどよい」「見えないものを見る」でもあります。
ゲゲ郎が繰り返す「見えるものが全てではない」といった一連の台詞。これ、『星の王子さま』的な意味とは少し違っていて、「この世には幽霊も人間もいる」という意味と「繁栄の影には隠され虐げられた存在がある」(それに想いを馳せられるか?)の2つの意味が重なっています。
『ゲ謎』と同じ世界の鬼太郎6期のコピーが「見えない世界の扉が開く」だったので、それをさらに掘り下げて、大人の物語に合わせて来た印象。
水木が作中、ゲゲ郎と最初に邂逅するのは夜行列車の中です。そこでゲゲ郎が「死相が出ておるぞ」と告げると、水木の背後に兵士の亡霊が現れます。この時、異界に足を突っ込んだ水木が見たのがただのおばけでなく、死んでいった兵士たちというのにも意味がある。「不条理の犠牲になった者たち」「踏み台にされた者たち」の存在を、水木に気づかせる演出なんだと思います。
ゲゲ郎が水木に語る妖怪存在の説明の軸は、幽霊族の歴史です。それは超常現象の話というより、虐げられた民・被差別者視点の話でもあり。ここで言う「見えないものを見る」というのは、歴史の影に追いやられた者への眼差しを持つ、という態度も意味してると思います。
①視界が開かれた水木が視てしまったもの
序盤、水木は世捨て人風のゲゲ郎を見て「こいつは負け犬だな」と見下してましたよね。ここ水木が想定してる「負け」というのは戦争体験にルーツがあります。水木のハングリー精神の根っこにあるのは「これ以上奪われたくない」の気持ち。彼にとっての戦争体験は、尊厳を失い、仲間を失い、実家の財産を失った「敗残の経験」だったからです。
彼が「日本が経済大国になる」という未来志向の話ばかりして、出世に邁進してるのは、その敗残や罪の記憶を追いやりたいから。でも、毎日戦場の夢を見てうなされるのは、当時の記憶を忘れられてないからでもあります。
でも、ゲゲ郎と関わって妖怪を見るようになってから、水木は過去の話もするようになるんですよね。冒頭の電車で現れた兵士の亡霊たちが生きていた頃の時間軸の体験、をゲゲ郎とも共有します。これは過去を捨て去ろうとした未来志向の視点から、犠牲になった者たちへ向ける視点を水木が獲得しつつある、という過程の描写だったと思います。
水木は国を富ませるために狩られる幽霊族とか、親の生存のため搾取される子供とか、「繁栄のための犠牲」となる存在に同情し、憤りを爆発させることができたのは、「見えないものを見る」という視点が開かれてたから。
これもインターネットのオタクが言及してると思いますが、一回死にかけて左目の近くに傷を負った水木、死してなお息子のために生きようとしてよみがえったのはゲゲ郎の左目、と作中では左目に固執した描写が目立ちます。
水木先生が左手を失って生還した、というのにかけてると思いますが、映画内で左目は「生還・未来」を象徴してるんですよね。未来を閉ざされて死んでいった龍賀の人たちの多くが左目を潰されてたのと対照的。
②見えないものを視た後の人生
水木という男は、戦争で人間に対する信頼のすべてを失って地位と金で成り上がろうとしてる「高度成長期を支えた人間の典型」として登場しました。でも「見えないものに目を凝らす」心を得た結果、国を富ませ成長することで踏み台にされる存在をも「視て」しまった。
なので、村入りした前と後で、水木の人生は取り返し付かないほど変わってしまったと思います。「負け犬共なんか踏み台にして俺はのし上がるぜ!」という野心があったからこそバリバリ仕事できたのでしょうが、「見えないものを視る目」が備わった時点で彼は別の価値観で生きることになったのではないか。
あの事件を経て「負け犬ってのは人間としてのプライド捨て、弱者を踏み台にして肥え太ってる奴のことだ」と知ってしまった。事件後の水木は「負け犬組」の生き方となり、出世コースからは外れてくんじゃないでしょうか。
でも、『ゲ謎』ラストの水木は、不気味な墓場の子を、愛を持って抱きしめることができたんですよね。作中、彼は多くの変化を経験しましたが、「不気味な出自の鬼太郎を、抱きしめられる人間になれた」。これが一番大事な変化だったと思います。保身を語りながら、たぶんどっかで「自分は生きててもしょうがない」と思ってた水木が、「お前の生きてる世界を見たいんだ」という理由で救われて、希望になる子を託されたので。
戦争体験によって、水木はいやおうなく変わってしまった。短い人生の中で望みもしないまま、時代によって、罪の意識によって、変化を強いられるの苦さを何度も味わったはずです。でも、変化によって生まれるのは苦痛だけではなかったと示された。
お話しとしてはシビアで、メイン登場人物ほぼ死亡してますが、鬼太郎という希望の子の命だけでなく、主人公・水木の心も明確に救われたのだと思います。
進撃の巨人ファイナルシーズン主題歌「悪魔の子」に感じる危うさ 破壊願望のエモーショナルな肯定

アニメ版『進撃の巨人』ファイナルシーズンが放送中である。筆者も進撃の巨人は単行本3巻が出た辺りからの読者であり、一時期読むのは中断してたが、10年近く物語を追っていた者の一人だ。
既に物語の結末は知っており、個人的に納得できるところ・できないところ含め作品を読んできてよかったな、という結論に至っている。ファイナルシーズンをアニメ版としてどう表現するのか、思ってこれまで見て来たが、マーレ編を中心としたファイナルシーズンの前半は納得できる完成度だった。特に、戦うキャラクターを出さずに「殲滅戦としての戦争」「英雄のいない兵器が駆使される戦争」という部分に焦点を当てたオープニング主題歌の演出は非常に抑制的で好感を持っていた。
しかし、最終回に至るファイナルシーズンの後編はどうか…。個人的に漫画版の最終回を読んだ後だとかなり引っかかる部分があったので、それをまとめていきたい。
- ED主題歌「悪魔の子」の歌詞はエレンの心象風景か?
- ファイナルシーズン前半主題歌「僕の戦争」「衝撃」との比較
- 「森から出られなかった少年」としてのエレン
- ED「悪魔の子」で描かれるのも森、未来の世界
- 漫画本編と異なり「悪魔の子」はエレンを過度に英雄視していないだろうか?
ED主題歌「悪魔の子」の歌詞はエレンの心象風景か?
『進撃の巨人』ファイナルシーズン後半ED主題歌、はシンガーソングライターヒグチアイさんの楽曲である。ヒグチアイさんも『進撃の巨人』の読者の一人であり、「悪魔の子」というタイトルも『進撃の巨人』に出てくるユミルの民・エルディア人がイメージソースだと語っている。
美しい映像と共にED歌われるのは以下の部分である。ヒグチさんの美声と胸に迫るようなメロディと相まって非常にエモーショナルな気分になる一曲だ。
鉄の弾が 正義の証明
貫けば 英雄に近づいた
その目を閉じて 触れてみれば
同じ形 同じ体温の悪魔僕はダメで あいつはいいの?
そこに壁があっただけなのに
生まれてしまった 運命嘆くな
僕らはみんな 自由なんだから鳥のように 羽があれば
どこへだって行けるけど
帰る場所が なければ
きっとどこへも行けない
ただただ生きるのは嫌だ世界は残酷だ それでも君を愛すよ
なにを犠牲にしても それでも君を守るよ
間違いだとしても 疑ったりしない
正しさとは 自分のこと 強く信じることだ
引用:ヒグチアイ / 悪魔の子【Official Video】|Ai Higuchi"Akuma no Ko”Attack on Titan The Final Season Part 2 ED theme
ED映像と共に流れる歌詞は、かなり『進撃の巨人』本編をそのままイメージしたような文言が多くなっている。
特に以下の部分は、調査兵団を「英雄」と信じ人類の敵たる巨人(実は同胞の成れの果て)を駆逐するため行動したエレン、「英雄になりたい」と悪魔を殺すことを願った少女ガビをイメージしていると思われる。
鉄の弾が 正義の証明
貫けば 英雄に近づいた
その目を閉じて 触れてみれば
同じ形 同じ体温の悪魔
そして、以下の歌詞は、「自由を奪われるくらいなら他人の自由を奪う」と言い切った主人公エレン、ただただ飼殺されて生きるのは奴隷と同じだと調査兵団に入ったエレン、地ならしで世界の8割の人類を虐殺し、自身は自由な鳥となって世界を俯瞰することになった最終回のエレンを象徴している歌詞であろうと読み取れる。
僕はダメで あいつはいいの?
そこに壁があっただけなのに
生まれてしまった 運命嘆くな
僕らはみんな 自由なんだから鳥のように 羽があれば
どこへだって行けるけど
帰る場所が なければ
きっとどこへも行けない
ただただ生きるのは嫌だ
問題は、最後の以下のフレーズである。
世界は残酷だ それでも君を愛すよ
なにを犠牲にしても それでも君を守るよ
間違いだとしても 疑ったりしない
正しさとは 自分のこと 強く信じることだ
「世界は残酷なんだから」「世界は残酷だ、それでも戦え」というのは、初期から通じて『進撃の巨人』のテーマとなっていた台詞であり、絶望的な状況にあっても進撃を続ける不屈の意思というのがエレンに課せられていた作劇上の使命でもあった。
しかし、壁の外に存在していた世界を中心に描かれた「マーレ編」を経て、エレンは「自分の愛する人々を生かし、ユミルの民を巨人化する運命から永遠に解放するため自分達以外の人類を滅ぼす」ことを選択する。
そのエレンの選択は、言うならば核のボタンを握った10代の青年が、自分達の民族の平和を願い、それ以外の地球人類を根絶やしにしてしまう、という状況に似ている。漫画版の最終回では、エレンの決断が人々を巨人から解放する一つの道であったことが語られるが、それと同時に
「どうしても世界を平らにしたかった」
「壁の外に人類がいてがっかりした」
という、エレンの台詞も作中にあった。
作中では、仲間を救いたいという想いに加え、エレンの中にゆるぎない破壊願望があったことも明記されており、簡単にエレンを「自由のために戦ったヒーロー」「自分の正しさを信じた主人公」とだけ語ることを作中では赦していない。(と思う)
始祖ユミルと一体化したエレンが、悩み決断する青年の姿ではなく、「自由を奪われるなら相手を殺す」という手段を取り、「壁の外の世界を見たい」と切望していた少年の姿をしていたのも、根本的なところでエレンが正義の人ではなく「無垢な自由意志の権化」という存在であったことを示していると思う。
この最終回までの展開を踏まえると、
なにを犠牲にしても それでも君を守るよ
間違いだとしても 疑ったりしない
正しさとは 自分のこと 強く信じることだ
という歌詞は、エレンの心象風景をイメージしたものと考えると、「かなり一面的な見方しか示していないのでは…」と思えてくる。
ファイナルシーズン前半主題歌「僕の戦争」「衝撃」との比較
ファイナルシーズン前半の主題歌はどうだっただろうか。
「異質で不気味」だと言われたオープニング主題歌『僕の戦争』は、これまで『紅蓮の弓矢』などで描かれてきたキャラクターの勇姿をあえて描かなかった。
悪夢的な音楽と、ガスや空爆、軍隊のパレードなど戦争を不気味に戯画化した映像を流す、という表現方法を採用しており、国家同士の争い、一民族の浄化を目論む戦争、その渦中にいるガビとファルコという二人の子どもを中心としたマーレ編のストーリーに合致していたと思う。
また、ED主題歌の『衝撃』は、マーレの繰り広げる争いに疑問を持ちながらその渦中にいるファルコ、敵を悪魔と見なして戦うガビ、争いによって精神に傷を負ったライナーを中心とした映像で、全体的にもの哀しさが際立っていた。
僕がここにいたという証も
骨はどうせ砂として消えるのに呑まれて踏まれた仲間の声
終わりにできない理由が 僕らの背中を突き立てる
引用:安藤裕子 official channel|『衝撃』Music Video【TVアニメ「進撃の巨人」The Final Season エンディングテーマ曲】
という歌詞は、巨人に食われた後に火葬さえ骨となってしまったマルコ、拒めたはずなのに戦う選択をしたジャン、過ちを犯しながらも進撃を辞めなかったエレンの父グリシャを思わせる歌詞だ。悲痛さと内に秘める不屈さを感じさせる。
このように、ファイナルシーズン前半は殺す側・殺される側、守る側・攻める側が入れ替わるマーレ編の内容を鑑み、一方の陣営を勇敢に描くことはしない。ファイナルシーズン後半の主題歌と比べても、かなり抑制が効いた楽曲かつ映像演出になっていたのではないか?
「森から出られなかった少年」としてのエレン
『進撃の巨人』では、物語の後半から人類の争いの象徴として「森」という言葉が用いられる。それは、娘サシャをガビ殺されながら、子供たちを争いという森から出さなければならない、というブラウスさんの言葉からきている。
「他所ん土地に攻め入、人を撃ち、人に撃たれた」
「結局森を出たつもりが世界は命ん奪い合いを続ける巨大な森ん中やったんや…」「サシャが殺されたんは… 森を彷徨ったからやと思っとる」
「せめて子供達はこの森から出してやらんといかん」「そうやないとまた同じところをぐるぐる回るだけやろう」
そして、ブラウスさんの言葉を受け、愛するサシャをガビに殺されたニコロも、後に次のように「森」について語る
「みんなの中に悪魔がいるから…世界はこうなっちまったんだ」
「……森から出るんだ 出られなくても 出ようとし続けるんだ」
「永遠に続いてしまう争い」の象徴として語られる森の比喩であるが、始祖ユミルが迷い込み、原始生物の起源を接触したのも深い森のなかであり、巨人を産む巨大樹(ユグドラシル)のふもとだったことも無関係ではないだろう。単行本化にあたって『進撃の巨人』の最終回では、「エレンのその後」が加筆されている。
ミカサに首を落とされたエレンの亡骸は、物語の始まりの場所であったシガンシナ区の丘にある木の根元に埋葬された。ミカサはエレンの墓を守りながら、結婚し、家庭を持ち、幸せな人生を送ったことが台詞のない後日談として描かれる。
しかし、それからおそらく数十年か100年ほどたった後、新たな戦争が勃発しパラディ島は更地となり、長い年月をかけて、エレンの墓がある木を中心に深い森が形成される。エレンが埋葬された墓は、始祖の巨人の成分を吸収したせいか、始祖ユミルが原始生物の起源と接触した巨大樹(ユグドラシル)へと変貌していた…。
物語は、若き日のエレンのような犬を連れた少年が、エレンの埋まった巨大樹(ユグドラシル)へとたどり着き、新たに巨人が生まれることを示唆して幕を閉じる。
エレンは巨人を駆逐し、巨人化の運命から同胞を解放したいと願い地ならしを手段としたが(本音としては「ただやりたかった」もあったが)、最終的に、彼は新たに巨人を産む巨大樹の養分となってしまっていた。この描写は、何を表しているのか?
エレンは様々な思いを抱えて地ならしを敢行した主人公ではあるが、アルミンの様に争いを回避しながら人類の可能性を信じるという道は選べなかった。誰かを救うために、何十億人を殺す方法を除外しなかった。つまり、このエレンを中心とした森の描写は、ブラウスさんの言う「命の奪い合いを続ける巨大な森」からエレンは出ることはできなかった、と暗に示しているのでは、と思えた。
最終回で描かれた少年が何を求めて巨大樹のもとへやって来たかは不明だが、おそらく、この巨大樹が巨人を生み出し、世界を新たな「争いを産む巨大な森」とすることは想像に難くないだろう。
『進撃の巨人』における「巨大樹」の考察についてはこちらの翻訳記事が非常に面白く、この記事を書くうえでもイメージソースとさせてもらったので紹介します。読んでね。
ED「悪魔の子」で描かれるのも森、未来の世界
改めて、「悪魔の子」で描かれる映像について考えてみよう。「悪魔の子」のアニメーション映像では、青年エレンではなく、「少年の破壊願望と反骨芯を持ったエレン」の象徴である10歳前後の少年エレンが決意を持った表情で立ち尽くす。
そして、植物に覆われた廃墟と化したヒガンシナ区をはじめとするエルディアの街、王宮が映し出される。この廃墟と化した世界は、おそらくエレンの死後、数十年か100年ほど経って戦争により滅びたエルディアの姿なのだろう。この場所をさまよっているエレンは、極彩色の花畑にたどり着き、そこで煙のように消えて花弁と共に去っていく。この映像は、地ならしをした後、魂となって去っていく死後のエレンの姿を現している、とみてもいいだろう。
この「悪魔の子」で歌われ美しいアニメーションで表現されるエレンは、地ならしも、極右政権化したのちに滅んだエルディアのたどった道もふくめ全てが終わった後の地に漂う「自由を求めるために進んだエレンの思念/魂」なのだと思う。
漫画本編と異なり「悪魔の子」はエレンを過度に英雄視していないだろうか?
本編131話でエレンは、いずれ地ならし踏み潰すことになる異民族のラムジー少年にこう伝える。
「島を…エルディアを救うため…それだけじゃ……ない」
「壁の外の現実は、オレが夢見た世界と違ってた アルミンの本で見た世界と、違ってた」
「壁の外で人類が生きてると知って…オレは ガッカリした オレは…望んでたんだ…すべて消し去ってしまいたかった」
世界の8割を虐殺してもアルミンやミカサを守る、という自分の行動について「ただやりたかった」(仲間を救う以外に破壊願望があった)という本心があったことは最終回を見る限りエレンは自分で気付けていた。
また、「どうしてもやりたかった」「ただ殺されるなんて嫌だ」「仲間みんなに長生きしてほしい」というあらゆる想いがぐちゃぐちゃとなった果てに地ならしを決断した、ということも最終回の台詞から示されている。そして、アルミンはエレンに招かれた「道」において、親友エレンへの情愛を示しながらもその行為については「君のした最悪の過ち」という評価を与えている。
そう考えると、「君を守るために犠牲を選ぶ」「正しさとは自分のことを信じること」という主題歌「悪魔の子」の美しい言葉は、本編でアルミンにも否定された「美しい目的のために悪役になったエレン」というヒーロー像をエモーショナルに補強するだけではないのか…?
むしろ、その美しさはエレンのぐちゃぐちゃの心情やアルミンの「最悪の過ち」という地ならしへの評価を無視したイェーガー派が作り上げた、「偶像としてのエレン・イェーガー」に近しいものではないのか…?
「悪魔の子」はあくまで『進撃の巨人』をイメージにシンガーソングライターのヒグチ氏が作った楽曲であり、完全にエレンを表した曲ではない。ただし、その
なにを犠牲にしても それでも君を守るよ
間違いだとしても 疑ったりしない
正しさとは 自分のこと 強く信じることだ
という歌詞と、エモーショナルな少年エレンの映像は、無垢で自由を求めるラムジー少年を惨殺し、子どもも大人も、みんな消し去ってしまいたかったと吐露するエレン像とはかけ離れているように思う。
エレンは自分のことを強く信じて8割の人類を殺したのではなく、間違っていると分かっていても、それでもやりたかったから地ならしをしたのだ。「少年の破壊願望と反骨芯を持ったエレン」は、「不自由な現実の中でも打開策を探そうともがくアルミン」とは異った、「永遠の子どもの感情」に突き動かされており、その「間違い」「どうしようもなさ」まで含めて最終回で描かれたエレンの実像であった。
「悪魔の子」は確かに美しい曲であり、少年エレンの霊魂が浄化されていくような映像も胸を打つものである。だが、10年単位でエレン・イェーガーというキャラクタ―を好きだった一人のファンの心境としては、この「美しさ」はエレンの実像ではない、感傷に浸って良いとは思えない、と感じる。
『進撃の巨人』という作品は、長年連載を続け作者が人として成熟するうちに、当初作者が想定してた「残酷な世界で究極的な選択を課せられるエレンやミカサ、アルミンという若者の物語」から、「世界が残酷な森であろうとも、そこから出ようともがき続ける人々の群像劇」へと徐々に変わって来たのだと思う。
読者も、エレン達とともに10年以上の時を過ごし、様々な背景を持ったキャラクターたちの心情に触れ、「何かを犠牲にしても自分の選択を信じ続けるエレン」という主人公を相対化できるようになってきたはずだ。
作者が最終回加筆で森の一部となり、森を産むエレンの墓所たる巨大樹を描いたのも、エレンのやったことに対し、「彼の行いが完全に正しいわけでなかった」と一定の評価を目に見える形で示したのだと思っている。
美しいアニメーションや優れた楽曲により、エレンの行い、心情に寄り添う気持ちが生まれてしまうのは避けられない。それでもファイナルシーズン後半ではオープニング、エンディング主題歌含め、もう少しエレンという主人公を相対化する表現であってほしかった、と今でも思っている。
園子温『冷たい熱帯後』の食事描写から見る父権の崩壊と生の痛み

園子温監督作品『冷たい熱帯魚』は、1993年に起きた「埼玉愛犬家連続殺人事件」という実在の猟奇殺人事件を下敷きにしたホラーサスペンス映画である。作中ではペットショップのオーナーが大型熱帯魚店経営者に変更されているものの、遺体を肉片にする証拠隠滅の手口など筋書きは実際の事件をなぞっている。公開時には容赦ない凄惨な殺人描写、でんでんや吹越満など俳優陣の怪演が話題となった。
映画が「フード性悪説」と呼ばれるのはラッパーのライムスター宇多丸氏がMCを務めるラジオ番組で紹介された料理研究家・福田里香氏の以下コメントがきっかけだ。(注1)
「本来、物語の中で登場人物が供に向き合って食べたら心から幸福に信頼し合っているという不文律になるのが、『フード性善説』だとするとそれを逆手にとり、家族の不協和音を描いている。たいていの作家は『フード性善説』的描写をするのに対し、園子温監督は明らかに『フード性悪説」です」
また、「フード性悪説」の説明として、
「『はあ、食べ物ごときでものごと変わると思ってるなんてアンタ、本当におめでたいよね』ということを付きつけてくる」と番組に送った投書のなかで言及している。(注2)
福田氏の言うように『冷たい熱帯魚』は「フード性悪説」の映画なのか。その検証の前に、映画の内容について私見を述べたい。
父権の暴力を描いた『冷たい熱帯後』と食事描写
『冷たい熱帯魚』には連続殺人を扱ったサスペンスという本筋だが、臆病で優柔不断だった男が手にした父権によって家族を抑圧し、破滅するというテーマが伏流として存在する。
郊外で小さな熱帯魚店の営んでいる社本は若い後妻の妙子と娘の美津子と三人暮らし。家族の折り合いは悪い。娘の美津子は母の死後すぐ再婚した父の社本と妙子を嫌い、ほとんどグレている。
三人の気まずい家族関係は冒頭の家族の食卓の場面で示されている。料理が苦手な妙子はスーパーで大量に購入した冷凍食品を電子レンジで温め、食卓に並べる。米すら炊かず真空パックご飯で済ませるのだから、よほど料理が苦手なのだと伝わってくる。三人は目線も合わせないまま、狭い居間で無言で冷凍食品を食べる。

美津子は一応席に着いているものの、家族の儀式に参加するのを嫌がって漫画を読みながら食事を口に運ぶ。そして夕飯の最中にもかかわらず携帯電話で彼氏と会話し、二人を置いて出て行ってしまう。食後、妙子にセックスを拒否された社本は一人トイレに籠り食べたばかりの食事を戻してしまう。
キッチンに触れず冷凍食品で料理を済ませる描写は、妙子がこの家の母・妻になりきれていないことの暗示で、形だけが整えられた家族の食卓は、家長として無力だが父の体面を保ちたいという社本の願望を現しているのだろう。
社本の日常を激変させるのが、スーパーで万引きした美津子を助けた、村田という男との出会いだった。年下の妖艶な妻・愛子と大型熱帯魚店を営む村田は異様に押しが強く、その巧みな話術に社本や妙子、美津子も心を許してしまう。あれよあれよと言う間に、社本は村田と愛子の凄惨な連続殺人の共犯者に仕立て上げられ、引き返せない地獄に足を踏み入れていたことに気づく。
食事シーンは、本作の最大の見せ場ともいえる死体解体の場面でも挿入される。村田と愛子はターゲットから金を騙しとった後、毒の入った栄養剤を飲ませて殺害を行う。(注3)
不穏な山小屋に社本を連行した二人は、手慣れた手つきで死体の解体を始める。カラフルな電飾で飾られ、十字架にマリア像、磔刑の石像がいたるところに配置された建物は打ち捨てられた教会のように見える。「ボディを透明にする」が村田の殺しの手口だ。さっきまで生きていた人間の肉に切り分け山に捨て、骨は粉になるまで焼く。物的証拠は何も残らない。「自分は絶対につかまらない」と村田は怯える社本に豪語する。
食事シーンは映画の後半でも重要な位置を占めている。村田は、共犯者になった社本に「逆らえば妙子も娘の美津子もただでは済まない」と脅す。完全犯罪を気取る村田だったが、警察にも勘付かれ仲間からの裏切りを察知すると次第に暴走を強めていく。
死体遺棄の最中に愛子と性交を強要された社本は、隙を見て村田を刺す。その瞬間から村田の暴力性が乗り移ったかのように社本は苛烈な人格に変貌する。社本は愛子を従え、村田のボディを透明にするように命じる。

社本は村田の店で働いていた美津子を家に連れ戻し、妻の妙子に絶叫しながら「食事を作れ!」と命じるのだ。そこには父親のプライドをへし折られていたかつての弱々しい社本の面影はない。殺人者となり、日常に戻れなくなったはずの社本はここで途絶えていた家族の食卓を再開しようとするのだ。
冷凍食品ばかりの食事。目も合わさず、無言で口を動かす三人。形だけが整えられた食卓なのは冒頭と変わらない。しかし、社本は不思議と嬉しそうに目の前のご飯とおかずを頬張っている。ここでまた美津子の電話が鳴る。美津子の彼氏の呼び出しで食事は再び中断されそうになるが、暴力性を携え「強い父親」へと変わった社本にもう恐れるものはない。車を乗り付けてやってきた彼氏と美津子を力の限り殴った社本は、穏やかな顔で食事を再開する。
そして、天気の話でもするように自然な調子で「お前村田と寝ただろ」と妙子に問い詰める。心の隙間に付け込まれた妙子は、密かに村田と関係を持っていたのだ。社本は逃げ出そうとする妙子を、美津子がいる場で強引に犯す。
家族の食卓をやり直すことは、父親として娘を、夫として妻を征服したことを意味する。形だけでも家族の絆を取り戻そうとすること。それが父権の暴力を手に入れた社本がすべての決着をつける前に一番やりたかったことだった。
父殺しと家族の食卓

作中、村田と社本は疑似的な父子関係として描かれている。二人は強欲な連続殺人犯と共犯者というのと同じく、「強大な力を持った父親と弱々しい子供」、あるいは「倒される父親と父の力を奪う息子」の役割を負っている。家族との食事描写は、村田と社本の相違を色濃く描写する補助線にもなっている。
『冷たい熱帯魚』で特筆すべきなのは「埼玉愛犬家殺人事件」をなぞりながら犯人の村田に「過去に父親からに虐待を受けていた」という設定を付与している点だ。
死体の肉をあらかた削ぎあとは骨を焼くだけどいう時に、血だらけの村田がやけに明るく「美味いコーヒーを入れてくれ」と社本に声をかける場面がある。この「死体解体現場のコーヒーブレイク」で、普段の大声とは打って変わってか細い声で村田は幼いころに父親から受けた仕打ちを語り始める。
「ここ驚いたろ、親父がよ。頭イカれちまってよ、ここに閉じこもってたんだ。小さいときからよ。ここに閉じ込められて、ひでぇ目に遭っちまった」
教会のような山小屋は村田の父が建てたもので、この場所で少年時代の村田が父親の暴力にさらされていたことが判明する。村田は辛い記憶を絞り出すように社本に打ち明け、妻の愛子は村田の腕を労わるように撫でる。寄り添う夫婦の自然さから、二人の間でこのトラウマの共有は何度も行われてきたと分かる。
当事者は外道な殺人犯ではあるが食が人の心をときほぐすシーンに変わりはない。愛子も村田と同じく何らかの原因で歪んでしまった人間であると作中仄めかされている。彼女は強い男に支配されることを望んでおり、社本が村田を殺した後は家長に変わる存在となった社本に服従し、肉体的なつながりを求めてくる。縋りつく愛子の様子は大人に褒めてほしいとねだる幼い少女のようにも見える。村田と愛子はどこかで心を壊されてしまったかつての被害者で、壊れた子供の万能感のまま人を殺し続けていたのだろう。
死体解体現場でのコーヒーブレイクは、壊れた二人の間だけで通じる絆の共有を表す象徴的なシーンだ。しかし、巻き込まれた社本の眼には死体を切り刻みながら美味しいコーヒーを飲む夫婦の姿は、この世のものではない異常な光景としか映らない。
「自分にとっての幸せな食事」と「その幸せを共有しない者」との埋めがたい隔絶が、社本の家族の食卓だけではなくこの異様なコーヒーブレイクにも表されている。誰かの心を満たす利己的な幸せは、他人とは共有できない。自分がもっともおぞましいと思う食事風景が、誰かにとってこの上ない愛情の確認になる。
死体解体現場という異常な状況下であるが、浮き彫りになっているのは「当事者だけで楽しむ幸せな食事」と「その輪に入れない他人」の間に横たわる深い溝である。これ自体は世間にありふれた疎外感の一つだろう。
山小屋は村田にとって恐ろしい父の記憶が染みついた場所であるはずだが、死体の解体に精を出す際に、彼は一家の家長のように振る舞う。
「お前、俺と愛子がいなくなったら、これ全部一人でやらなきゃいけないんだぞ。だから、お前にやり方を伝授してやろうと思ってんだよ」
風呂場で死体をバラしながら言う村田の口調は、こんな場面でなければ家業を息子に継がせようとする頑固おやじのそれである。村田は「ボディを透明にする」人殺しの技能を社本に分け与えたいと言っている。

村田は、社本に弱い子供だった頃の自分を重ねている。
「お前、俺の小さい頃にそっくりだな。びくびくしておどおどして」
「お前は常にそう生きてきた。お前は何の対処もしねぇ。俺は殺しもするがちゃんと対処する」
「俺を親父だと思って殴ってこい。ちっちゃいときの仕返しするんだよ。だんだん力が入ってきたな。何で泣くんだよ、社本、殴れ、思いっきり殴れ!」
村田は連続殺人に巻き込んだ側であるはずなのに、社本に生き方を教えるように、自分を乗り越えろと迫る。作中では明示されていないが、村田が最初に殺したのは自分の父親だったのではないかと思わせる場面だ。自分を虐げた父親を倒し、世を渡っていくための暴力性を見に付けたのが、村田と言う男だったのではないか。
「お父さんやめて、ちょっと痛い。もう逆らいません」
社本にボールペンで胸を刺された村田は、子供のような口調で懇願する。ここで子である社本と父である村田の関係が入れ替わった。社本は村田を殺し、村田の持つ父権を手に入れたのだ。強く非情な父親となった社本も終局では妻の妙子を殺し、娘の美津子の前でのどを突き刺して自死に至る。
「やっと死にやがったなクソジイ、起きて見ろよ」
ラストシーンでは美津子が息絶えた社本をこう罵倒するのだが、罵倒は社本個人だけなく、その背後にある山小屋にも向かっていたのではないかと想像してしまう。教会を模した山小屋には絶対者たる父なる神と御子キリストの関係性が暗示されていると思われる。ここで繰り広げられていたのは歪んで煮詰まった家父長制の連鎖だ。この場所でかつて子だった村田が苦しめられ、村田自身が振りかざし、最後には社本に奪い取られた暴力による支配が露わになっていた。「やっと死にやがったな」と、娘の美津子の罵倒が向けられる時、この暴力の連鎖は断ち切られたのかもしれないと、かすかな安堵を覚えるのだ。
生きることは痛くてたまらない
『冷たい熱帯魚』は、食事シーンを通して人間の願望の複雑さや隔絶を浮き彫りにしている。その内実を表す際に、「フード性悪説」という呼称は適切なのか?
『冷たい熱帯魚』を「フード性悪説」と呼ぶのは「フード理論」というものに基づいているらしい。理論と言うからにはベースに何らかの思想や論理あるとイメージしがちだが、実際にはそうではない(注4)。福田氏の著書『ゴロツキはいつも食卓を襲う フード理論とステレオタイプフード50』(注5)にあるように、この「フード理論」が指しているのは現実の理論ではなく「食べ物がフィクションの演出に使われる小ネタを集めたエッセイ」のことである。
「悪人は食べ物を粗末に扱う」「絶世の美女はものを食べない」「ココアは女子の悩みを癒す」など、ジブリ作品を始めとする料理描写の紹介にとどまる。「フード性悪説」「フード性善説」という言葉の説明もない。
基本的な話になるが、「性悪説」という言葉には「人は本来的に悪だが礼に基づいて努力すれば後天的に善性を持てる」という意味がある。「フード性悪説」を字面通りに取れば「食べることはもともと悪であるが礼に基づき努力すれば善い行いになる」となってしまう。日本語として破綻がある。(注6)
「フード理論」という理論や「フード性悪説」という新説が実際に提唱されている事実はない。「フード性悪説」という呼称は要するに「一度ラジオに投書された個人の感想の言い回し」であり、それ以上でもそれ以下でもない。
しかし、それ自体は些末なことかもしれない。重要なのは、「フード性悪説」という造語では『冷たい熱帯魚』で描かれた絶望感は表現しきれないという点だ。作中これでもかと言うくらい見せられる生々しい情動を説明にするには表面的すぎる。『冷たい熱帯魚』の数々の食事シーンが凶悪に見えるのは、社本の食卓のように幸せな食事の形を求めて失敗しているから、あるいは死体解体現場のコーヒーブレイクのように他者の生命を冒涜しても自分の幸福だけを享受する姿が浮き彫りになるからである。
「食べ物ごときでものごと変わると思ってるなんて、アンタ本当におめでたいよね」と突き付けられたとしても、社本や村田夫婦は彼らの考える幸せな食事を求めることをやめないだろう。人生を狂わされ、極限状態に追い詰められた社本が欲したのは家族の心など無視した形ばかりの家族の食卓だった。他人の視線などもはや関係ない。社本が抱えてしまったのは「性善説」「性悪説」などの言葉で二分することはできない、純粋だが決定的に間違った願望だった。
村田と愛子の異様なコーヒーブレイクで表されるのは、それ自体は本物で温かな夫婦の絆だった。人殺しに夢中になり、善悪を置き去りにしていても、美味しいコーヒーの香りを二人は心から満喫できる。殺した人間の内臓や血で汚れながらも、二人きりの癒しを得られる。
「食べ物ごとき」で家族の心を取り戻せると思ってしまう人間が「本当におめでたい」ということはとうに分かっている。それでも「食べ物ごとき」で幸せになろうとしてしまうこと、どんなに異常でも「食べ物ごとき」で楽しくなってしまうどうしようもなさ、身勝手さ、滑稽さ、恐ろしさを『冷たい熱帯魚』は見せてくる。本当におめでたい。それでも、幸せの形を願うことはやめられない。実態が狂っていても、歪んでいても幸せの形にどうにか自分の人生を当て嵌めたい。そうやって間違いながら生きることがとても痛く苦しくてもだ。
社本が最後に美津子に問いかける。
「美津子、一人で生きていけるよな。一人で生きていきたいんだよな。痛いか?」
包丁で腕を浅く切られた美津子は言う。
「痛いって言ってんだろ。生きたいよ。生きたい、生きたい、生きたい!」
そうか、と応えた社本は、押し殺してきた心を解放するようにこう叫ぶ。
「人生って言うのはな、痛いんだよ!」
唐突で、一見するとおかしみすら漂う叫びだが、ここに避けがたい真実がある。「彼にも痛みがあった、感情があった」と示すように赤い血が涙の代わりに頸動脈から流れ出る。家長になりきれない屈辱も、家長となって暴力を振るうことも、どちらも苦しく痛かった。食卓を囲みさえすれば家族でいられるというおめでたい願いも、その願いが間違っていたことに気づくのもとても痛い。その痛みを娘にはわかって欲しい。だからこうして首を刺し、死にゆく自分の痛みを見せつけた。生きるのは痛くてたまらない。父として社本が教えることができる真実はこれだけなのだから。
生きることの痛みから始まる情動を、善か悪かで言い表すことはできない。「フード性悪説」というパッケージではとても足りない。凶悪な食事風景が浮き彫りにした生きることの痛さ、やりきれなさについてもっと言葉を尽くしたい。言葉を尽くすほどに露わになる他者の幸せとそれを共有できない自己の間にある断絶の淵に立ち、さらに深く思いを馳せたいのだ。
(注1)TBSラジオ「ライムスタ―宇多丸のウイークエンド・シャッフル」
(注2)福田里香氏のラジオ投書コメント全文
「素晴らしい映画でした肝心の殺人は栄養ドリンクによる殺人。いわばフード殺人です。料理は咀嚼されず未消化のままブラックホールに呑みこまれる。すべてが腑に落ちない。胃に落ちたと思ったらそれは毒だし」
「この映画を見て『肉、当分いいわ』と言う人は多いと思いますが、私は肉以上に『インスタントコーヒー当分いいわ』と思いました。『ふーいい仕事したな、ひと山越えたな』というコーヒーブレイクタイムが生理的な駄目押しになっています。フード的には二重の意味でたまりません」
「本来、物語の中で登場人物が供に向き合って食べたら心から幸福に信頼し合っているという不文律になるのが、『フード性善説』だとするとそれを逆手にとり、家族の不協和音を描いている。たいていの作家は『フード性善説』的描写をするのに対し、園子温監督は明らかに『フード性悪説」です」
「『はあ、食べ物ごときでものごと変わると思ってるなんてアンタ、本当におめでたいよね』ということを付きつけてくる。『これ、おいしいよね美味しいもの食べると癒されるよね』という描写はフードの一面しか描かれていない。これらの映画では到達できないフードの真実が顕現している稀有な映画でした」
(注3)福田氏は「肝心の殺人は栄養ドリンクによる殺人。いわばフード殺人です」と言っているが栄養ドリンクによる殺人は実際の「埼玉愛犬家殺人事件」をそのままなぞったものであり、製作側が「フード殺人」を狙ったわけではない。
(注4)福田里香 『ゴロツキはいつも食卓を襲う フード理論とステレオタイプフード50』 太田出版 2012年
(注5)「理論」とは個々の現象や事実を統一的に説明し、予測する力をもつ体系的知識のこと。フィクションにおける食のステレオタイプを集めた福田氏の著書は、本人の感想や映画体験をもとに記したものなので「エッセイ」である。「フード理論」は「なんちゃって理論」と言うべき名称だ。
(注6)福田氏は投書の中で「家族の不協和音を描いている」「『食べ物ごときで変わるなんてアンタ、おめでたいよね』と突き付けている」ことを持って『冷たい熱帯魚』は「フード性悪説」としている。しかし「フード」と「性悪説」という言葉を組み合わせた「フード性悪説」という造語は「食べることはもともと悪であるが礼に基づき努力すれば善い行いになる」と読めてしまい、この言葉では福田氏の指摘を表せない。語義の矛盾を抜きに考えて見れば、福田氏が「フィクションにおける食が善を表さない側面」を表す演出方法を指して「フード性悪説」と呼んでいることが分かる。あくまで「食を通してフィクションを楽しむ方法」である。それを食全体に広げて「食の暴力性」「飯がまずい」などの現象を「フード性悪説」とするのは、福田氏の意図を読み違えているか、関係ない別の意味を付与しているのかのどちらかである。「『「フード性悪説』は各個人の心の中にある」と説明するほかなくなるからだ。各個人がそれぞれ様々な食表現を「これが『フード性悪説』だ」と言えてしまうのであれば、「フード性悪説」は『冷たい熱帯魚』の特異な食表現を指すための言葉にはならないのではないか。





