園子温『冷たい熱帯後』の食事描写から見る父権の崩壊と生の痛み

f:id:sayokokarikari:20200716140910j:plain

配給:日活

園子温監督作品『冷たい熱帯魚』は、1993年に起きた「埼玉愛犬家連続殺人事件」という実在の猟奇殺人事件を下敷きにしたホラーサスペンス映画である。作中ではペットショップのオーナーが大型熱帯魚店経営者に変更されているものの、遺体を肉片にする証拠隠滅の手口など筋書きは実際の事件をなぞっている。公開時には容赦ない凄惨な殺人描写、でんでんや吹越満など俳優陣の怪演が話題となった。

 映画が「フード性悪説」と呼ばれるのはラッパーのライムスター宇多丸氏がMCを務めるラジオ番組で紹介された料理研究家福田里香氏の以下コメントがきっかけだ。(注1)
「本来、物語の中で登場人物が供に向き合って食べたら心から幸福に信頼し合っているという不文律になるのが、『フード性善説』だとするとそれを逆手にとり、家族の不協和音を描いている。たいていの作家は『フード性善説』的描写をするのに対し、園子温監督は明らかに『フード性悪説」です」

また、「フード性悪説」の説明として、

「『はあ、食べ物ごときでものごと変わると思ってるなんてアンタ、本当におめでたいよね』ということを付きつけてくる」と番組に送った投書のなかで言及している。(注2)


宇多丸が園子音監督による映画「冷たい熱帯魚」を激賞

福田氏の言うように『冷たい熱帯魚』は「フード性悪説」の映画なのか。その検証の前に、映画の内容について私見を述べたい。

父権の暴力を描いた『冷たい熱帯後』と食事描写

冷たい熱帯魚』には連続殺人を扱ったサスペンスという本筋だが、臆病で優柔不断だった男が手にした父権によって家族を抑圧し、破滅するというテーマが伏流として存在する。

郊外で小さな熱帯魚店の営んでいる社本は若い後妻の妙子と娘の美津子と三人暮らし。家族の折り合いは悪い。娘の美津子は母の死後すぐ再婚した父の社本と妙子を嫌い、ほとんどグレている。

三人の気まずい家族関係は冒頭の家族の食卓の場面で示されている。料理が苦手な妙子はスーパーで大量に購入した冷凍食品を電子レンジで温め、食卓に並べる。米すら炊かず真空パックご飯で済ませるのだから、よほど料理が苦手なのだと伝わってくる。三人は目線も合わせないまま、狭い居間で無言で冷凍食品を食べる。

f:id:sayokokarikari:20200716143425j:plain

美津子は一応席に着いているものの、家族の儀式に参加するのを嫌がって漫画を読みながら食事を口に運ぶ。そして夕飯の最中にもかかわらず携帯電話で彼氏と会話し、二人を置いて出て行ってしまう。食後、妙子にセックスを拒否された社本は一人トイレに籠り食べたばかりの食事を戻してしまう。

キッチンに触れず冷凍食品で料理を済ませる描写は、妙子がこの家の母・妻になりきれていないことの暗示で、形だけが整えられた家族の食卓は、家長として無力だが父の体面を保ちたいという社本の願望を現しているのだろう。

社本の日常を激変させるのが、スーパーで万引きした美津子を助けた、村田という男との出会いだった。年下の妖艶な妻・愛子と大型熱帯魚店を営む村田は異様に押しが強く、その巧みな話術に社本や妙子、美津子も心を許してしまう。あれよあれよと言う間に、社本は村田と愛子の凄惨な連続殺人の共犯者に仕立て上げられ、引き返せない地獄に足を踏み入れていたことに気づく。

食事シーンは、本作の最大の見せ場ともいえる死体解体の場面でも挿入される。村田と愛子はターゲットから金を騙しとった後、毒の入った栄養剤を飲ませて殺害を行う。(注3)

不穏な山小屋に社本を連行した二人は、手慣れた手つきで死体の解体を始める。カラフルな電飾で飾られ、十字架にマリア像、磔刑の石像がいたるところに配置された建物は打ち捨てられた教会のように見える。「ボディを透明にする」が村田の殺しの手口だ。さっきまで生きていた人間の肉に切り分け山に捨て、骨は粉になるまで焼く。物的証拠は何も残らない。「自分は絶対につかまらない」と村田は怯える社本に豪語する。

 食事シーンは映画の後半でも重要な位置を占めている。村田は、共犯者になった社本に「逆らえば妙子も娘の美津子もただでは済まない」と脅す。完全犯罪を気取る村田だったが、警察にも勘付かれ仲間からの裏切りを察知すると次第に暴走を強めていく。

死体遺棄の最中に愛子と性交を強要された社本は、隙を見て村田を刺す。その瞬間から村田の暴力性が乗り移ったかのように社本は苛烈な人格に変貌する。社本は愛子を従え、村田のボディを透明にするように命じる。

f:id:sayokokarikari:20200716142810j:plain

社本は村田の店で働いていた美津子を家に連れ戻し、妻の妙子に絶叫しながら「食事を作れ!」と命じるのだ。そこには父親のプライドをへし折られていたかつての弱々しい社本の面影はない。殺人者となり、日常に戻れなくなったはずの社本はここで途絶えていた家族の食卓を再開しようとするのだ。

冷凍食品ばかりの食事。目も合わさず、無言で口を動かす三人。形だけが整えられた食卓なのは冒頭と変わらない。しかし、社本は不思議と嬉しそうに目の前のご飯とおかずを頬張っている。ここでまた美津子の電話が鳴る。美津子の彼氏の呼び出しで食事は再び中断されそうになるが、暴力性を携え「強い父親」へと変わった社本にもう恐れるものはない。車を乗り付けてやってきた彼氏と美津子を力の限り殴った社本は、穏やかな顔で食事を再開する。

そして、天気の話でもするように自然な調子で「お前村田と寝ただろ」と妙子に問い詰める。心の隙間に付け込まれた妙子は、密かに村田と関係を持っていたのだ。社本は逃げ出そうとする妙子を、美津子がいる場で強引に犯す。

家族の食卓をやり直すことは、父親として娘を、夫として妻を征服したことを意味する。形だけでも家族の絆を取り戻そうとすること。それが父権の暴力を手に入れた社本がすべての決着をつける前に一番やりたかったことだった。

父殺しと家族の食卓

f:id:sayokokarikari:20200716142315j:plain

作中、村田と社本は疑似的な父子関係として描かれている。二人は強欲な連続殺人犯と共犯者というのと同じく、「強大な力を持った父親と弱々しい子供」、あるいは「倒される父親と父の力を奪う息子」の役割を負っている。家族との食事描写は、村田と社本の相違を色濃く描写する補助線にもなっている。

冷たい熱帯魚』で特筆すべきなのは「埼玉愛犬家殺人事件」をなぞりながら犯人の村田に「過去に父親からに虐待を受けていた」という設定を付与している点だ。

死体の肉をあらかた削ぎあとは骨を焼くだけどいう時に、血だらけの村田がやけに明るく「美味いコーヒーを入れてくれ」と社本に声をかける場面がある。この「死体解体現場のコーヒーブレイク」で、普段の大声とは打って変わってか細い声で村田は幼いころに父親から受けた仕打ちを語り始める。

「ここ驚いたろ、親父がよ。頭イカれちまってよ、ここに閉じこもってたんだ。小さいときからよ。ここに閉じ込められて、ひでぇ目に遭っちまった」

教会のような山小屋は村田の父が建てたもので、この場所で少年時代の村田が父親の暴力にさらされていたことが判明する。村田は辛い記憶を絞り出すように社本に打ち明け、妻の愛子は村田の腕を労わるように撫でる。寄り添う夫婦の自然さから、二人の間でこのトラウマの共有は何度も行われてきたと分かる。

当事者は外道な殺人犯ではあるが食が人の心をときほぐすシーンに変わりはない。愛子も村田と同じく何らかの原因で歪んでしまった人間であると作中仄めかされている。彼女は強い男に支配されることを望んでおり、社本が村田を殺した後は家長に変わる存在となった社本に服従し、肉体的なつながりを求めてくる。縋りつく愛子の様子は大人に褒めてほしいとねだる幼い少女のようにも見える。村田と愛子はどこかで心を壊されてしまったかつての被害者で、壊れた子供の万能感のまま人を殺し続けていたのだろう。

死体解体現場でのコーヒーブレイクは、壊れた二人の間だけで通じる絆の共有を表す象徴的なシーンだ。しかし、巻き込まれた社本の眼には死体を切り刻みながら美味しいコーヒーを飲む夫婦の姿は、この世のものではない異常な光景としか映らない。

「自分にとっての幸せな食事」と「その幸せを共有しない者」との埋めがたい隔絶が、社本の家族の食卓だけではなくこの異様なコーヒーブレイクにも表されている。誰かの心を満たす利己的な幸せは、他人とは共有できない。自分がもっともおぞましいと思う食事風景が、誰かにとってこの上ない愛情の確認になる。

死体解体現場という異常な状況下であるが、浮き彫りになっているのは「当事者だけで楽しむ幸せな食事」と「その輪に入れない他人」の間に横たわる深い溝である。これ自体は世間にありふれた疎外感の一つだろう。

山小屋は村田にとって恐ろしい父の記憶が染みついた場所であるはずだが、死体の解体に精を出す際に、彼は一家の家長のように振る舞う。

「お前、俺と愛子がいなくなったら、これ全部一人でやらなきゃいけないんだぞ。だから、お前にやり方を伝授してやろうと思ってんだよ」

風呂場で死体をバラしながら言う村田の口調は、こんな場面でなければ家業を息子に継がせようとする頑固おやじのそれである。村田は「ボディを透明にする」人殺しの技能を社本に分け与えたいと言っている。

f:id:sayokokarikari:20200716143951j:plain

村田は、社本に弱い子供だった頃の自分を重ねている。

「お前、俺の小さい頃にそっくりだな。びくびくしておどおどして」

「お前は常にそう生きてきた。お前は何の対処もしねぇ。俺は殺しもするがちゃんと対処する」

「俺を親父だと思って殴ってこい。ちっちゃいときの仕返しするんだよ。だんだん力が入ってきたな。何で泣くんだよ、社本、殴れ、思いっきり殴れ!」

村田は連続殺人に巻き込んだ側であるはずなのに、社本に生き方を教えるように、自分を乗り越えろと迫る。作中では明示されていないが、村田が最初に殺したのは自分の父親だったのではないかと思わせる場面だ。自分を虐げた父親を倒し、世を渡っていくための暴力性を見に付けたのが、村田と言う男だったのではないか。

「お父さんやめて、ちょっと痛い。もう逆らいません」

 社本にボールペンで胸を刺された村田は、子供のような口調で懇願する。ここで子である社本と父である村田の関係が入れ替わった。社本は村田を殺し、村田の持つ父権を手に入れたのだ。強く非情な父親となった社本も終局では妻の妙子を殺し、娘の美津子の前でのどを突き刺して自死に至る。

「やっと死にやがったなクソジイ、起きて見ろよ」

ラストシーンでは美津子が息絶えた社本をこう罵倒するのだが、罵倒は社本個人だけなく、その背後にある山小屋にも向かっていたのではないかと想像してしまう。教会を模した山小屋には絶対者たる父なる神と御子キリストの関係性が暗示されていると思われる。ここで繰り広げられていたのは歪んで煮詰まった家父長制の連鎖だ。この場所でかつて子だった村田が苦しめられ、村田自身が振りかざし、最後には社本に奪い取られた暴力による支配が露わになっていた。「やっと死にやがったな」と、娘の美津子の罵倒が向けられる時、この暴力の連鎖は断ち切られたのかもしれないと、かすかな安堵を覚えるのだ。

生きることは痛くてたまらない

冷たい熱帯魚』は、食事シーンを通して人間の願望の複雑さや隔絶を浮き彫りにしている。その内実を表す際に、「フード性悪説」という呼称は適切なのか?

冷たい熱帯魚』を「フード性悪説」と呼ぶのは「フード理論」というものに基づいているらしい。理論と言うからにはベースに何らかの思想や論理あるとイメージしがちだが、実際にはそうではない(注4)。福田氏の著書『ゴロツキはいつも食卓を襲う フード理論とステレオタイプフード50』(注5)にあるように、この「フード理論」が指しているのは現実の理論ではなく「食べ物がフィクションの演出に使われる小ネタを集めたエッセイ」のことである。

「悪人は食べ物を粗末に扱う」「絶世の美女はものを食べない」「ココアは女子の悩みを癒す」など、ジブリ作品を始めとする料理描写の紹介にとどまる。「フード性悪説」「フード性善説」という言葉の説明もない。

基本的な話になるが、「性悪説」という言葉には「人は本来的に悪だが礼に基づいて努力すれば後天的に善性を持てる」という意味がある。「フード性悪説」を字面通りに取れば「食べることはもともと悪であるが礼に基づき努力すれば善い行いになる」となってしまう。日本語として破綻がある。(注6)

「フード理論」という理論や「フード性悪説」という新説が実際に提唱されている事実はない。「フード性悪説」という呼称は要するに「一度ラジオに投書された個人の感想の言い回し」であり、それ以上でもそれ以下でもない。

しかし、それ自体は些末なことかもしれない。重要なのは、「フード性悪説」という造語では『冷たい熱帯魚』で描かれた絶望感は表現しきれないという点だ。作中これでもかと言うくらい見せられる生々しい情動を説明にするには表面的すぎる。『冷たい熱帯魚』の数々の食事シーンが凶悪に見えるのは、社本の食卓のように幸せな食事の形を求めて失敗しているから、あるいは死体解体現場のコーヒーブレイクのように他者の生命を冒涜しても自分の幸福だけを享受する姿が浮き彫りになるからである。

「食べ物ごときでものごと変わると思ってるなんて、アンタ本当におめでたいよね」と突き付けられたとしても、社本や村田夫婦は彼らの考える幸せな食事を求めることをやめないだろう。人生を狂わされ、極限状態に追い詰められた社本が欲したのは家族の心など無視した形ばかりの家族の食卓だった。他人の視線などもはや関係ない。社本が抱えてしまったのは「性善説」「性悪説」などの言葉で二分することはできない、純粋だが決定的に間違った願望だった。

村田と愛子の異様なコーヒーブレイクで表されるのは、それ自体は本物で温かな夫婦の絆だった。人殺しに夢中になり、善悪を置き去りにしていても、美味しいコーヒーの香りを二人は心から満喫できる。殺した人間の内臓や血で汚れながらも、二人きりの癒しを得られる。

「食べ物ごとき」で家族の心を取り戻せると思ってしまう人間が「本当におめでたい」ということはとうに分かっている。それでも「食べ物ごとき」で幸せになろうとしてしまうこと、どんなに異常でも「食べ物ごとき」で楽しくなってしまうどうしようもなさ、身勝手さ、滑稽さ、恐ろしさを『冷たい熱帯魚』は見せてくる。本当におめでたい。それでも、幸せの形を願うことはやめられない。実態が狂っていても、歪んでいても幸せの形にどうにか自分の人生を当て嵌めたい。そうやって間違いながら生きることがとても痛く苦しくてもだ。

社本が最後に美津子に問いかける。

「美津子、一人で生きていけるよな。一人で生きていきたいんだよな。痛いか?」

包丁で腕を浅く切られた美津子は言う。

「痛いって言ってんだろ。生きたいよ。生きたい、生きたい、生きたい!」

そうか、と応えた社本は、押し殺してきた心を解放するようにこう叫ぶ。

「人生って言うのはな、痛いんだよ!」

唐突で、一見するとおかしみすら漂う叫びだが、ここに避けがたい真実がある。「彼にも痛みがあった、感情があった」と示すように赤い血が涙の代わりに頸動脈から流れ出る。家長になりきれない屈辱も、家長となって暴力を振るうことも、どちらも苦しく痛かった。食卓を囲みさえすれば家族でいられるというおめでたい願いも、その願いが間違っていたことに気づくのもとても痛い。その痛みを娘にはわかって欲しい。だからこうして首を刺し、死にゆく自分の痛みを見せつけた。生きるのは痛くてたまらない。父として社本が教えることができる真実はこれだけなのだから。

生きることの痛みから始まる情動を、善か悪かで言い表すことはできない。「フード性悪説」というパッケージではとても足りない。凶悪な食事風景が浮き彫りにした生きることの痛さ、やりきれなさについてもっと言葉を尽くしたい。言葉を尽くすほどに露わになる他者の幸せとそれを共有できない自己の間にある断絶の淵に立ち、さらに深く思いを馳せたいのだ。

 

(注1)TBSラジオ「ライムスタ―宇多丸のウイークエンド・シャッフル」
(注2)福田里香氏のラジオ投書コメント全文 
「素晴らしい映画でした肝心の殺人は栄養ドリンクによる殺人。いわばフード殺人です。料理は咀嚼されず未消化のままブラックホールに呑みこまれる。すべてが腑に落ちない。胃に落ちたと思ったらそれは毒だし」
「この映画を見て『肉、当分いいわ』と言う人は多いと思いますが、私は肉以上に『インスタントコーヒー当分いいわ』と思いました。『ふーいい仕事したな、ひと山越えたな』というコーヒーブレイクタイムが生理的な駄目押しになっています。フード的には二重の意味でたまりません」
 「本来、物語の中で登場人物が供に向き合って食べたら心から幸福に信頼し合っているという不文律になるのが、『フード性善説』だとするとそれを逆手にとり、家族の不協和音を描いている。たいていの作家は『フード性善説』的描写をするのに対し、園子温監督は明らかに『フード性悪説」です」
「『はあ、食べ物ごときでものごと変わると思ってるなんてアンタ、本当におめでたいよね』ということを付きつけてくる。『これ、おいしいよね美味しいもの食べると癒されるよね』という描写はフードの一面しか描かれていない。これらの映画では到達できないフードの真実が顕現している稀有な映画でした」
(注3)福田氏は「肝心の殺人は栄養ドリンクによる殺人。いわばフード殺人です」と言っているが栄養ドリンクによる殺人は実際の「埼玉愛犬家殺人事件」をそのままなぞったものであり、製作側が「フード殺人」を狙ったわけではない。
(注4)福田里香 『ゴロツキはいつも食卓を襲う フード理論とステレオタイプフード50』 太田出版 2012年
(注5)「理論」とは個々の現象や事実を統一的に説明し、予測する力をもつ体系的知識のこと。フィクションにおける食のステレオタイプを集めた福田氏の著書は、本人の感想や映画体験をもとに記したものなので「エッセイ」である。「フード理論」は「なんちゃって理論」と言うべき名称だ。
(注6)福田氏は投書の中で「家族の不協和音を描いている」「『食べ物ごときで変わるなんてアンタ、おめでたいよね』と突き付けている」ことを持って『冷たい熱帯魚』は「フード性悪説」としている。しかし「フード」と「性悪説」という言葉を組み合わせた「フード性悪説」という造語は「食べることはもともと悪であるが礼に基づき努力すれば善い行いになる」と読めてしまい、この言葉では福田氏の指摘を表せない。語義の矛盾を抜きに考えて見れば、福田氏が「フィクションにおける食が善を表さない側面」を表す演出方法を指して「フード性悪説」と呼んでいることが分かる。あくまで「食を通してフィクションを楽しむ方法」である。それを食全体に広げて「食の暴力性」「飯がまずい」などの現象を「フード性悪説」とするのは、福田氏の意図を読み違えているか、関係ない別の意味を付与しているのかのどちらかである。「『「フード性悪説』は各個人の心の中にある」と説明するほかなくなるからだ。各個人がそれぞれ様々な食表現を「これが『フード性悪説』だ」と言えてしまうのであれば、「フード性悪説」は『冷たい熱帯魚』の特異な食表現を指すための言葉にはならないのではないか。