アニメ版『進撃の巨人』ファイナルシーズンが放送中である。筆者も進撃の巨人は単行本3巻が出た辺りからの読者であり、一時期読むのは中断してたが、10年近く物語を追っていた者の一人だ。
既に物語の結末は知っており、個人的に納得できるところ・できないところ含め作品を読んできてよかったな、という結論に至っている。ファイナルシーズンをアニメ版としてどう表現するのか、思ってこれまで見て来たが、マーレ編を中心としたファイナルシーズンの前半は納得できる完成度だった。特に、戦うキャラクターを出さずに「殲滅戦としての戦争」「英雄のいない兵器が駆使される戦争」という部分に焦点を当てたオープニング主題歌の演出は非常に抑制的で好感を持っていた。
しかし、最終回に至るファイナルシーズンの後編はどうか…。個人的に漫画版の最終回を読んだ後だとかなり引っかかる部分があったので、それをまとめていきたい。
- ED主題歌「悪魔の子」の歌詞はエレンの心象風景か?
- ファイナルシーズン前半主題歌「僕の戦争」「衝撃」との比較
- 「森から出られなかった少年」としてのエレン
- ED「悪魔の子」で描かれるのも森、未来の世界
- 漫画本編と異なり「悪魔の子」はエレンを過度に英雄視していないだろうか?
ED主題歌「悪魔の子」の歌詞はエレンの心象風景か?
『進撃の巨人』ファイナルシーズン後半ED主題歌、はシンガーソングライターヒグチアイさんの楽曲である。ヒグチアイさんも『進撃の巨人』の読者の一人であり、「悪魔の子」というタイトルも『進撃の巨人』に出てくるユミルの民・エルディア人がイメージソースだと語っている。
美しい映像と共にED歌われるのは以下の部分である。ヒグチさんの美声と胸に迫るようなメロディと相まって非常にエモーショナルな気分になる一曲だ。
鉄の弾が 正義の証明
貫けば 英雄に近づいた
その目を閉じて 触れてみれば
同じ形 同じ体温の悪魔僕はダメで あいつはいいの?
そこに壁があっただけなのに
生まれてしまった 運命嘆くな
僕らはみんな 自由なんだから鳥のように 羽があれば
どこへだって行けるけど
帰る場所が なければ
きっとどこへも行けない
ただただ生きるのは嫌だ世界は残酷だ それでも君を愛すよ
なにを犠牲にしても それでも君を守るよ
間違いだとしても 疑ったりしない
正しさとは 自分のこと 強く信じることだ
引用:ヒグチアイ / 悪魔の子【Official Video】|Ai Higuchi"Akuma no Ko”Attack on Titan The Final Season Part 2 ED theme
ED映像と共に流れる歌詞は、かなり『進撃の巨人』本編をそのままイメージしたような文言が多くなっている。
特に以下の部分は、調査兵団を「英雄」と信じ人類の敵たる巨人(実は同胞の成れの果て)を駆逐するため行動したエレン、「英雄になりたい」と悪魔を殺すことを願った少女ガビをイメージしていると思われる。
鉄の弾が 正義の証明
貫けば 英雄に近づいた
その目を閉じて 触れてみれば
同じ形 同じ体温の悪魔
そして、以下の歌詞は、「自由を奪われるくらいなら他人の自由を奪う」と言い切った主人公エレン、ただただ飼殺されて生きるのは奴隷と同じだと調査兵団に入ったエレン、地ならしで世界の8割の人類を虐殺し、自身は自由な鳥となって世界を俯瞰することになった最終回のエレンを象徴している歌詞であろうと読み取れる。
僕はダメで あいつはいいの?
そこに壁があっただけなのに
生まれてしまった 運命嘆くな
僕らはみんな 自由なんだから鳥のように 羽があれば
どこへだって行けるけど
帰る場所が なければ
きっとどこへも行けない
ただただ生きるのは嫌だ
問題は、最後の以下のフレーズである。
世界は残酷だ それでも君を愛すよ
なにを犠牲にしても それでも君を守るよ
間違いだとしても 疑ったりしない
正しさとは 自分のこと 強く信じることだ
「世界は残酷なんだから」「世界は残酷だ、それでも戦え」というのは、初期から通じて『進撃の巨人』のテーマとなっていた台詞であり、絶望的な状況にあっても進撃を続ける不屈の意思というのがエレンに課せられていた作劇上の使命でもあった。
しかし、壁の外に存在していた世界を中心に描かれた「マーレ編」を経て、エレンは「自分の愛する人々を生かし、ユミルの民を巨人化する運命から永遠に解放するため自分達以外の人類を滅ぼす」ことを選択する。
そのエレンの選択は、言うならば核のボタンを握った10代の青年が、自分達の民族の平和を願い、それ以外の地球人類を根絶やしにしてしまう、という状況に似ている。漫画版の最終回では、エレンの決断が人々を巨人から解放する一つの道であったことが語られるが、それと同時に
「どうしても世界を平らにしたかった」
「壁の外に人類がいてがっかりした」
という、エレンの台詞も作中にあった。
作中では、仲間を救いたいという想いに加え、エレンの中にゆるぎない破壊願望があったことも明記されており、簡単にエレンを「自由のために戦ったヒーロー」「自分の正しさを信じた主人公」とだけ語ることを作中では赦していない。(と思う)
始祖ユミルと一体化したエレンが、悩み決断する青年の姿ではなく、「自由を奪われるなら相手を殺す」という手段を取り、「壁の外の世界を見たい」と切望していた少年の姿をしていたのも、根本的なところでエレンが正義の人ではなく「無垢な自由意志の権化」という存在であったことを示していると思う。
この最終回までの展開を踏まえると、
なにを犠牲にしても それでも君を守るよ
間違いだとしても 疑ったりしない
正しさとは 自分のこと 強く信じることだ
という歌詞は、エレンの心象風景をイメージしたものと考えると、「かなり一面的な見方しか示していないのでは…」と思えてくる。
ファイナルシーズン前半主題歌「僕の戦争」「衝撃」との比較
ファイナルシーズン前半の主題歌はどうだっただろうか。
「異質で不気味」だと言われたオープニング主題歌『僕の戦争』は、これまで『紅蓮の弓矢』などで描かれてきたキャラクターの勇姿をあえて描かなかった。
悪夢的な音楽と、ガスや空爆、軍隊のパレードなど戦争を不気味に戯画化した映像を流す、という表現方法を採用しており、国家同士の争い、一民族の浄化を目論む戦争、その渦中にいるガビとファルコという二人の子どもを中心としたマーレ編のストーリーに合致していたと思う。
また、ED主題歌の『衝撃』は、マーレの繰り広げる争いに疑問を持ちながらその渦中にいるファルコ、敵を悪魔と見なして戦うガビ、争いによって精神に傷を負ったライナーを中心とした映像で、全体的にもの哀しさが際立っていた。
僕がここにいたという証も
骨はどうせ砂として消えるのに呑まれて踏まれた仲間の声
終わりにできない理由が 僕らの背中を突き立てる
引用:安藤裕子 official channel|『衝撃』Music Video【TVアニメ「進撃の巨人」The Final Season エンディングテーマ曲】
という歌詞は、巨人に食われた後に火葬さえ骨となってしまったマルコ、拒めたはずなのに戦う選択をしたジャン、過ちを犯しながらも進撃を辞めなかったエレンの父グリシャを思わせる歌詞だ。悲痛さと内に秘める不屈さを感じさせる。
このように、ファイナルシーズン前半は殺す側・殺される側、守る側・攻める側が入れ替わるマーレ編の内容を鑑み、一方の陣営を勇敢に描くことはしない。ファイナルシーズン後半の主題歌と比べても、かなり抑制が効いた楽曲かつ映像演出になっていたのではないか?
「森から出られなかった少年」としてのエレン
『進撃の巨人』では、物語の後半から人類の争いの象徴として「森」という言葉が用いられる。それは、娘サシャをガビ殺されながら、子供たちを争いという森から出さなければならない、というブラウスさんの言葉からきている。
「他所ん土地に攻め入、人を撃ち、人に撃たれた」
「結局森を出たつもりが世界は命ん奪い合いを続ける巨大な森ん中やったんや…」「サシャが殺されたんは… 森を彷徨ったからやと思っとる」
「せめて子供達はこの森から出してやらんといかん」「そうやないとまた同じところをぐるぐる回るだけやろう」
そして、ブラウスさんの言葉を受け、愛するサシャをガビに殺されたニコロも、後に次のように「森」について語る
「みんなの中に悪魔がいるから…世界はこうなっちまったんだ」
「……森から出るんだ 出られなくても 出ようとし続けるんだ」
「永遠に続いてしまう争い」の象徴として語られる森の比喩であるが、始祖ユミルが迷い込み、原始生物の起源を接触したのも深い森のなかであり、巨人を産む巨大樹(ユグドラシル)のふもとだったことも無関係ではないだろう。単行本化にあたって『進撃の巨人』の最終回では、「エレンのその後」が加筆されている。
ミカサに首を落とされたエレンの亡骸は、物語の始まりの場所であったシガンシナ区の丘にある木の根元に埋葬された。ミカサはエレンの墓を守りながら、結婚し、家庭を持ち、幸せな人生を送ったことが台詞のない後日談として描かれる。
しかし、それからおそらく数十年か100年ほどたった後、新たな戦争が勃発しパラディ島は更地となり、長い年月をかけて、エレンの墓がある木を中心に深い森が形成される。エレンが埋葬された墓は、始祖の巨人の成分を吸収したせいか、始祖ユミルが原始生物の起源と接触した巨大樹(ユグドラシル)へと変貌していた…。
物語は、若き日のエレンのような犬を連れた少年が、エレンの埋まった巨大樹(ユグドラシル)へとたどり着き、新たに巨人が生まれることを示唆して幕を閉じる。
エレンは巨人を駆逐し、巨人化の運命から同胞を解放したいと願い地ならしを手段としたが(本音としては「ただやりたかった」もあったが)、最終的に、彼は新たに巨人を産む巨大樹の養分となってしまっていた。この描写は、何を表しているのか?
エレンは様々な思いを抱えて地ならしを敢行した主人公ではあるが、アルミンの様に争いを回避しながら人類の可能性を信じるという道は選べなかった。誰かを救うために、何十億人を殺す方法を除外しなかった。つまり、このエレンを中心とした森の描写は、ブラウスさんの言う「命の奪い合いを続ける巨大な森」からエレンは出ることはできなかった、と暗に示しているのでは、と思えた。
最終回で描かれた少年が何を求めて巨大樹のもとへやって来たかは不明だが、おそらく、この巨大樹が巨人を生み出し、世界を新たな「争いを産む巨大な森」とすることは想像に難くないだろう。
『進撃の巨人』における「巨大樹」の考察についてはこちらの翻訳記事が非常に面白く、この記事を書くうえでもイメージソースとさせてもらったので紹介します。読んでね。
ED「悪魔の子」で描かれるのも森、未来の世界
改めて、「悪魔の子」で描かれる映像について考えてみよう。「悪魔の子」のアニメーション映像では、青年エレンではなく、「少年の破壊願望と反骨芯を持ったエレン」の象徴である10歳前後の少年エレンが決意を持った表情で立ち尽くす。
そして、植物に覆われた廃墟と化したヒガンシナ区をはじめとするエルディアの街、王宮が映し出される。この廃墟と化した世界は、おそらくエレンの死後、数十年か100年ほど経って戦争により滅びたエルディアの姿なのだろう。この場所をさまよっているエレンは、極彩色の花畑にたどり着き、そこで煙のように消えて花弁と共に去っていく。この映像は、地ならしをした後、魂となって去っていく死後のエレンの姿を現している、とみてもいいだろう。
この「悪魔の子」で歌われ美しいアニメーションで表現されるエレンは、地ならしも、極右政権化したのちに滅んだエルディアのたどった道もふくめ全てが終わった後の地に漂う「自由を求めるために進んだエレンの思念/魂」なのだと思う。
漫画本編と異なり「悪魔の子」はエレンを過度に英雄視していないだろうか?
本編131話でエレンは、いずれ地ならし踏み潰すことになる異民族のラムジー少年にこう伝える。
「島を…エルディアを救うため…それだけじゃ……ない」
「壁の外の現実は、オレが夢見た世界と違ってた アルミンの本で見た世界と、違ってた」
「壁の外で人類が生きてると知って…オレは ガッカリした オレは…望んでたんだ…すべて消し去ってしまいたかった」
世界の8割を虐殺してもアルミンやミカサを守る、という自分の行動について「ただやりたかった」(仲間を救う以外に破壊願望があった)という本心があったことは最終回を見る限りエレンは自分で気付けていた。
また、「どうしてもやりたかった」「ただ殺されるなんて嫌だ」「仲間みんなに長生きしてほしい」というあらゆる想いがぐちゃぐちゃとなった果てに地ならしを決断した、ということも最終回の台詞から示されている。そして、アルミンはエレンに招かれた「道」において、親友エレンへの情愛を示しながらもその行為については「君のした最悪の過ち」という評価を与えている。
そう考えると、「君を守るために犠牲を選ぶ」「正しさとは自分のことを信じること」という主題歌「悪魔の子」の美しい言葉は、本編でアルミンにも否定された「美しい目的のために悪役になったエレン」というヒーロー像をエモーショナルに補強するだけではないのか…?
むしろ、その美しさはエレンのぐちゃぐちゃの心情やアルミンの「最悪の過ち」という地ならしへの評価を無視したイェーガー派が作り上げた、「偶像としてのエレン・イェーガー」に近しいものではないのか…?
「悪魔の子」はあくまで『進撃の巨人』をイメージにシンガーソングライターのヒグチ氏が作った楽曲であり、完全にエレンを表した曲ではない。ただし、その
なにを犠牲にしても それでも君を守るよ
間違いだとしても 疑ったりしない
正しさとは 自分のこと 強く信じることだ
という歌詞と、エモーショナルな少年エレンの映像は、無垢で自由を求めるラムジー少年を惨殺し、子どもも大人も、みんな消し去ってしまいたかったと吐露するエレン像とはかけ離れているように思う。
エレンは自分のことを強く信じて8割の人類を殺したのではなく、間違っていると分かっていても、それでもやりたかったから地ならしをしたのだ。「少年の破壊願望と反骨芯を持ったエレン」は、「不自由な現実の中でも打開策を探そうともがくアルミン」とは異った、「永遠の子どもの感情」に突き動かされており、その「間違い」「どうしようもなさ」まで含めて最終回で描かれたエレンの実像であった。
「悪魔の子」は確かに美しい曲であり、少年エレンの霊魂が浄化されていくような映像も胸を打つものである。だが、10年単位でエレン・イェーガーというキャラクタ―を好きだった一人のファンの心境としては、この「美しさ」はエレンの実像ではない、感傷に浸って良いとは思えない、と感じる。
『進撃の巨人』という作品は、長年連載を続け作者が人として成熟するうちに、当初作者が想定してた「残酷な世界で究極的な選択を課せられるエレンやミカサ、アルミンという若者の物語」から、「世界が残酷な森であろうとも、そこから出ようともがき続ける人々の群像劇」へと徐々に変わって来たのだと思う。
読者も、エレン達とともに10年以上の時を過ごし、様々な背景を持ったキャラクターたちの心情に触れ、「何かを犠牲にしても自分の選択を信じ続けるエレン」という主人公を相対化できるようになってきたはずだ。
作者が最終回加筆で森の一部となり、森を産むエレンの墓所たる巨大樹を描いたのも、エレンのやったことに対し、「彼の行いが完全に正しいわけでなかった」と一定の評価を目に見える形で示したのだと思っている。
美しいアニメーションや優れた楽曲により、エレンの行い、心情に寄り添う気持ちが生まれてしまうのは避けられない。それでもファイナルシーズン後半ではオープニング、エンディング主題歌含め、もう少しエレンという主人公を相対化する表現であってほしかった、と今でも思っている。