呪いにより導かれる救済、運命の受容/「ヘレディタリー/継承」

あらすじ

祖母エレンが亡くなったグラハム家。過去のある出来事により、母に対して愛憎交じりの感情を持ってた娘のアニーも、夫、2人の子どもたちとともに淡々と葬儀を執り行った。祖母が亡くなった喪失感を乗り越えようとするグラハム家に奇妙な出来事が頻発。最悪な事態に陥った一家は修復不能なまでに崩壊してしまうが、亡くなったエレンの遺品が収められた箱に「私を憎まないで」と書かれたメモが挟まれていた。

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きわめて私的な映画という前提

「ヘレディタリー/継承」、本編に張り巡らされた伏線や隠喩の解説は散々されており、公式HPでもネタバレ解説があるので本編の謎解きについてはそちらを見てもらえれば十分だと思う。

観た人限定完全解析ページ | 映画『へレディタリー/継承』公式サイト

殆ど前情報を見ないで鑑賞したが、本当に怖くよくできた映画で当日は夜眠れなくなった。

一方で、映画の中で強調されていたのは「病の遺伝への恐れ」「家族不和」「逃れられない運命」みたいな、ホラーとは別種の「重たく厭な要素」。これは監督の私的な経験がだいぶ反映されているんじゃないかなと鑑賞中につらい気持ちになった。

映画評論家の町山智浩さんも、アリ・アスター監督へのインタビューで映画がきわめて私的な心象を表しており、監督の家族に関わる「遺伝」をモチーフにしていると話している。

「映画のような呪いはないかもしれないが、がんなどの病気のように、家族を縛る遺伝的な悲劇があると、監督は言っていました」

「ヘレディタリー」はホラーではなく“嫌な家族映画”!? 町山智浩が別アングルから解説 : 映画ニュース - 映画.com

映画の中ではトニ・コレット演じるアニーによって死んだ母エレンが解離性同一性障害を発症していたことが語られる。アニーの父も精神分裂病で餓死(どういう状況なんだ)、兄が母の奇行によって被害妄想を抱え、自殺。アニー自身もかつて夢遊病を患い再発を恐れていることが語られる。

アニーは家族をめちゃくちゃにした母の精神疾患を自分が受け継ぎ、それが子供にも遺伝してしまうのではないかと怯えている。

タイトルの「Hereditary」という単語は、「遺伝的な」「先祖代々の」「世襲の(親譲りの)」という意味の言葉で、「継承」というのは母エレンから受け継いだ先天性の病のことを、この時点では指しているのだと思われる。

前述の記事と照らし合わせると、「いずれ自分や子に降りかかる遺伝性の病を恐れる、というのは監督の体験が反映された描写なのでは…」と予想がつく。アニーはミニチュア模型アーティストで、集中治療室にいる死の淵の母だとか、現実を受け入れるために自分のつらい実体験をミニチュアする、といった行動をする。

これはある種の箱庭療法なのだが、遺伝について苦しい感情を持つ監督が遺伝をテーマの映画を作るというのがアニーの行動と重なっている。メタ的にみると「ヘレディタリー/継承」という映画自体がアリ・アスター監督が苦しみを昇華させるために作った一つの箱庭なのではないか、と思えてくる。

映画の冒頭がまさにミニチュアの中で暮らす登場人物たちのクローズアップから始まるので、こういったことは予め示されていたと思われる。

映画は監督の私的なつらい出来事が反映されている、ここまでは大前提として考えていいだろう。

開始30分後からホラー映画になるが…

映画開始から30分までは、家族に負担を与えたエレンの死をきっかけに遺伝の病気をこれからをどう受け入れるのかという身をつままされる現実的な苦悩に焦点が当たる。しかし大麻ばっか吸ってるやや軽薄な長男ピーターが妹のチャーリー大麻パーティに連れて行った時から、話が急変する。

アレルギーの発作を起こしたチャーリーを乗せて夜の道路を車で飛ばしていたピーターだが、手違いでハンドルを切り窓から顔を出していたチャーリーは首を飛ばされ即死する。

この衝撃的な死から家族の絆は瓦解。恐れからアニーとピーターはチャーリーの霊の気配を感じるようになり、アニーはセラピーで知り合った老女ジェーンに誘われて交霊術にハマってしまう。

この辺から映画が完全にホラーになる。実は母エレンはペイモンという悪魔崇拝の触媒的な存在であり、アニーや死んだチャーリーは悪魔を呼ぶ霊力を受け継いでいることがほのめかされる。悪魔崇拝者たちによれば、霊力を受け継ぐのは女だが、王ペイモンの器となるのは若い男だけだという。

ここで、アニーの兄の被害妄想の話がつながるのだが、アニーによれば、兄は「母が何かを自分に入れようとしている」という妄想に取りつかれていた。母エレンはかつて息子を悪魔の器にしようとしており、今度は長男ピーターが狙われていることがわかる。

「遺伝性の病気だと思っていたのは実は悪魔を呼んだ祖母の呪いだった」、と現実的な悩みが一気にオカルト的な様相を帯びるようになる。

もうここからは本当に恐ろしい。絶え間ない緊張が続き、「エクソシスト」と「イット・フォローズ」みたいなホラーそのままラストまで突っ切るのだが、冒頭30分とその後の展開の落差に少し思うところがあるので述べてみたい。

ホラーが人を癒すとき

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(C)2018 Hereditary Film Productions, LLC

私もホラー映画をよく見るのだが、怖いものが好きだからホラーを見ているわけではない。意識してホラー映画の描写に注目するようになったのは、町山さんのホラー映画評を見てからだ。

町山智浩)そうそう。ホラー映画にすることで、これは地獄なんだよ!っていうことをみんな、わかってあげようよ!ってことで、すごく効果があるようになっていますね。

町山智浩)はい。だからホラー映画っていうのは一見お化けの話のようで、そうじゃないわけですよ。で、本当に怖いホラー映画と怖くないホラー映画の差はそこにあるんですね。本当の嫌なこととか、みんなが怖がっていることをホラーの形で見せていくっていうことをやっているかどうか?なんですよ。

町山智浩『イット・フォローズ』『ババドック』とホラー映画を語る

なぜわざわざホラーというジャンルを選んで映画にするのか、と思うかもしれない。だが、「悪魔のせい」とか「死霊の呪いのせい」にしたほうがずっと楽で納得がいくことが世の中にはある、ということは言える。

自分の話になってしまうが、私も10代の頃に身内の一人がメンタルを病んだことがあり、その当時の家庭環境は相当ひどいものだった。また家族には人種差別的な言動をする者もおり、子供ながら「自分はこんな大人になりたくない」などと悩んでいた。

自分の家族、血筋というものはロクでもないんじゃないかという思いにとらわれたのも一度や二度ではない。

「ヘレディタリー/継承」のアニーが感じていた地獄というものに、正直かなり親近感を抱いた。作中にアニーが夢遊病で苦しんだり、他の家族からしたら病気で正気を失っているように見える描写も、ある時期の自分の家族の言動そのもののように見えてしまい、当時のことがフラッシュバックした。

作中、チャーリーの死の責任をアニーとピーターが押し付けあったりする地獄の夕食みたいなシーンがある。家族の仲を裂く要因を作り出したことを認めたくないという態度は、自分の体験から言ってかなり身に覚えのあることである。「最悪な家族不和」というよりかは「不仲家族あるある」を名優が本気で実演したらこうなる、という風に見えてしまった。

現実はフィクションの様にはいかない。フィクションの役者のように、現実の人間は演技が上手くないので起こった家族の不仲や悲劇は淡々としているか、ひどく滑稽でテンションが下がる、できそこないの芝居のようなものだ。それでもつらさや厭な思い出というのは残り続ける。年月がたって、環境が改善しても、あの厭なことばかりだった家の中から抜け出せていない。10代の頃の自分は、あの時間の中にとどまり続けている。そういう風に感じることは今でもある。

自分が感じた味気なくありふれた苦痛の思い出を、この上なく劇的で恐ろしい物語として表すことができたら。感じていた恐ろしさに「死霊」とか「悪魔」という形を与えることができたら、自分の苦しさの体感を他の人にも分かってもらうことができるかもしれない。ホラー映画には、そういう切実な可能性がある。

ホラーと言うのは、人がえげつなく死んだりグロテスクな要素があるが、同じ様な境遇の人にとっては「浄化」とか「救済」になることがままあるのだ。

「ヘレディタリー/継承」の30分後に起きるオカルト的な内容は、現実に寄っていた病の恐怖が、死霊や悪魔の跋扈するホラーとして再構成され映画となったものなのではないか?

 地獄を世に残せる創作者

アリ・アスター監督が2011年に撮った自主製作短編映画、”The Strange Thing About the Johnsons”の主人公ジョンソンも、「ヘレディタリー/継承」のアニーと同じくクリエイターである。

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”The Strange Thing About the Johnsons”(C)Ari Aster

 30分のこの短編は、要約すると「父親に性的関心を持っていた息子が自分の結婚披露宴の日に父親にオーラルセックスを施してたところを母に目撃されるも母は見て見ぬ振りをし、詩人の父は息子からの虐待を手記に残して死亡。愛する父の思い出に浸る息子を問いただした母が、もみ合いの末息子を殺害し手記を焼く」という内容だ。

このジョンソンは高名な詩人という設定で、自分と息子の陥った関係を「コクーンマン」(繭男)という手記にして執筆をつづけている。性愛という呪いで父親をがんじがらめにする息子と、その地獄を表現せずにはいられない文筆家の父、という関係性。これは家族を凶悪な運命に縛る祖母エレンと、その地獄をミニチュアにせずにはいられないアニーとほぼ同じだ。

自分の体験した地獄を表現できる技能を有するのは、創作者の特権である。詩人のジョンソンは手記を形にすることで息子の虐待から抜け出そうといたが、アニーは途中でミニチュア作りをやめ、狂気の中に取り込まれていってしまう。

苦しい現状を作品にすることは、ただ苦痛に耐えるよりもさらにつらいことかもしれない。自分がこのときどう感じたか、何が厭だったか。繰り返し思いかえすことはただ現実を受忍しているより痛みが伴う。

それでも、最後まで自分の地獄を表現しきること、自分の苦しい思い出をもとに世界を呪うまでの作品を残すことができたらそれはもう呪いではなく自分を救う土台になるだろう。

苦痛は運命を受容する儀式

作中、アニーと同程度に地獄の恐怖を味わうのは息子ピーターだ。悪魔の王ペイモンの器に選ばれてしまった彼は母アニーからは生まれてこなければよかったと言われ、散々痛めつけられた挙句、恐怖によって身を投げてしまう。

ホラー映画として見た場合、身を投げたピーターの中に悪魔ペイモンが入り込み、忘我の境地になった彼を悪魔崇拝者たちが王と崇めるという終わり方になる。

その光景はとにかく輝かしく、死骸が転がっていることを除けば「馬小屋のキリストの生誕」みたいな暖かなイメージが重ねられている。王冠も祭壇もハンドメイドでまるでアニーが作っていたミニチュアや、チャーリーが作っていた工作を彷彿とさせる手作り感である。

アニーは子供たちへ病が遺伝することを恐れ、散々抵抗したものの最後はピーターに彼女が遠ざけたかった悪しきものが受け継がれてしまう。

作中、ピーターの高校で「ヘラクレスの選択」というギリシャ悲劇の命題について教師が講義するシーンがある。

 「あの授業の内容が、この映画のテーマそのもの。ヘラクレスの話ですね。つらい苦難を自ら選ぶことは『ヘラクレスの選択』といいますが、そのときのヘラクレスには、実は選択肢なんてなく、運命に縛られて逃げ場がなかったと言っている。あれはピーターの運命を先生が(比喩的に)語っているんです」

「ヘレディタリー」はホラーではなく“嫌な家族映画”!? 町山智浩が別アングルから解説 : 映画ニュース - 映画.com

まさに、ピーターはほとんど拒否することができなかった運命によって、望んでもいない王冠を与えられることになる。この運命に蹂躙されるピーターの有様は何を表しているのだろうか?

これまでに監督の家族に関わる「遺伝」をモチーフがあり、その恐れをホラーという手法で表現したのが本作であるという話をしてきた。そう考えれば、この恐ろしくも荘厳な戴冠式は、単にピーターが死んで悪魔に体乗っ取られた、というだけでなく、これまで恐れてきた遺伝性の運命を受容を表すためのフィナーレだとわかる。

こんなロクでもない血筋の宿命を黙って受け入れるのか、と思うだろうがピーターは黙っていたわけではない。作中、観客はピーターの感じる恐怖や苦痛を通して、この運命がいかに恐ろしく厭なものだったか体感できたはずだ。

現実に、なんらかの遺伝性の病を患ってしまったり、それによる家族の諍いが起きたとしても、その苦痛を他者に知らしめるのは難しい。しかし、一種のマゾヒズムさえ感じるほどの壮絶な恐怖と身体的・精神的苦痛をピーターは味わった。それを観客が知ることこそが、運命に対する抗い(生体反応)として機能していると思う。

苦痛と恐れを観客の前で証明するという役割をピーターは果たしていたのだ。

これによって、ただの遺伝は「継承」という神秘を帯びることになる。変えられない運命を受け入れることも、それに伴う家族の不和も、とても嫌で怖いことだ。その厭さ、怖さを最後まで壮絶に描ききることで、この映画は完全な恐怖の物語として閉じることができた。

映画に仮託されたやりきれない自分の運命や遺伝への恐怖は、できそこないの芝居のような現実の中に埋没することはない。「ヘレディタリー/継承」という精巧な恐怖の願いを閉じ込めた箱庭のなかに生き続けることになる。

 

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