「のっぺらぼうは、なぜ、私を助けてくれたのでしょう?」
「救われたなどと、思っているのか。
…しいて言うなら、 恋でも、したんじゃないですかね、貴女に。
叶うわけなどないのに、哀しき、モノノ怪だ…」
「哀しき…モノノ怪…」
これは、一体どういう意味なのだろうか。
全ての虚構の幕が下りた後の、真っ白な世界にたたずむ二人の間で交わされた一連の問答である。狐面の男は、「のっぺらぼう」が取りつき操っていた、この男は本体ではない、と見抜いた薬売りの言う通り、その実態は「お蝶自身」だったはずである。「恋でも、したんじゃないですかね。」とは、まるで、狐面の男が本当にどこかに存在し、一人の人間としてお蝶を思慕していたと示唆するような言い方である。これは、薬売りのただの戯れの言葉なのだろうか。
狐面の男
「のっぺらぼう」はお蝶の心がモノノ怪と化したもの、狐面の男は「のっぺらぼう」が操っていた傀儡である。顔を隠した男の背丈、肌の色、とがった耳の形は、退魔の剣を抜いた薬売りの姿と共通する特徴であり、最後に薬売りが手にしていたのが狐面の男の煙管だったことから、この二人は実は同一人物であり、何らかの経緯で薬売りの肉体を乗っ取った「のっぺらぼう」が、狐面の男の依代として彼を操っていた、と考えることも出来る。
しかし、それはあまり大きな問題ではないように思える。狐面の男の意思として表出したモノノ怪が、「本心として」お蝶に惹かれ、彼女を救いだそうとしたことが重要なのだ。
「のっぺらぼう」というモノノ怪が起こした怪異は全て、彼女の内側で起っていた。外部からやって来たかのように見えた狐面の男は、その本体は「のっぺらぼう」であり、彼女の心の一面だった。一人の人間の心に、別の存在、別の人格が生まれるという事、その人格が主人格を助け、同時に死に至らしめるという矛盾が、人の世の理とは異なる「モノノ怪の理」として機能していた。
しかし、自分を助けるために自分を死に至らしめるというその理を、人の心の理として、読み解くことは出来ないだろうか。
他者としての自己、あるいは「分人」
「私は、あなたを牢獄から救い出すために生まれた…」
狐面の男の目的は、お蝶を助け出す、ただそれだけだったという。自分の顔を忘れ「のっぺらぼう」に憑りつかれたお蝶は狐面の男を操ったうえで、自分を牢から連れ出すように命じた、と考える事も出来るが、この男を単なる「お蝶の傀儡」としての存在ではなく、ここでは「お蝶の内なる他者」として捉えてみたい
「面と書いて《表》とも読む、所詮人の顔など、表に現れているかたちにすぎぬ。私がこの面を表と認めれば、それはいとも容易く、私の顔となるのです。」
薬売りのこの言葉に倣えば、人の顔を構成している様々な面、つまり自分の様々な側面は人の内面で並存しうるのだと言えるのではないか。作家、平野啓一郎が近年提唱している「分人」という概念も、「のっぺらぼう」の物語に現れる「内なる他者」の起こす行動と重なる部分がある。
「色々な人格はあっても、逆説的だが、顔だけは一つしかない。」
「――逆に言えば、顔さえ隠せれば、私たちは複数の人格を、バラバラなまま生きられるかもしれない。」
この『私とは何か』で語られる「顔」の性質は「のっぺらぼう」で語られる性質とよく似ている。狐面の男は、敦盛、顰(しかみ)、大癋見(おおべしみ)と様々な面を喜怒哀楽に応じて使い分ける。しかし、面の下の唯一の顔は「お蝶」であり、彼が彼として自立するにはその素顔を隠し続けなければならなかった。
平野は「一人の人間は『分けられない individual』な存在ではなく、複数に『分けられる dividual』な存在」であり、人間の身体はただ一つで分割不可能だが、人間は複数の分人に分けることが出来るとしている。人間は複数の分人の集合であり、それを外側から統合するのが人の「顔」であり「名」なのだ。
「分人」が自分を殺し、自分を生かす
「自分の中に複数の面がある」、というのは、何も特別な事ではないのかもしれない。平野の分人三部作の長編小説『空白を満たしなさい』では、「自分を生かす為に、自分を殺してしまう分人」の構造が、悲劇を引き起す。
自分を自死へと追い込んだ主人公の物語の相似として、ゴッホの肖像画をめぐり、「この沢山あるゴッホの顔のうち、誰がゴッホ本人を殺したのか」という問いがたてられる。複数いるうちの、病んだ自分や危険な考えを持った自分が、自分を殺してしまうのではないか、という考察が「耳を切った病んだゴッホが、すべてのゴッホを殺してしまった」というゴッホの自殺の原因と連動して語られる。「殺す自分」と「殺される自分」を別けて考えてみる事で、その真相が明らかになるのだ。
「最も愛する人との分人が、その愛ゆえに、自分の他の自分を殺そうとする。自分を丸ごと傷つける。消そうとする。それは本当に、悲しい事です。」
「俺はお前を愛してた。嘘じゃない!俺はただ、この幸せを守りたかったんだ。信じていた!だから妙な考えに囚われてしまった、惨めな自分を消してしまおうと、必死でもがいていたんだよ。」
惨めな自分を消すために、他の自分がその自分を殺そうとする、しかし、自分の顔は一つ、自分の体も一つ。それを繰り返すうちに、「総体としての自分」もいずれは殺してしまう。許しがたい考えを持つ自分の分人を消すために、他の分人が自分を殺す。「こうでありたい」という想いのために、「こう思ってしまう」他の分人を消してしまう。
「自傷行為は自己そのものを殺そうとしているのではない、『自己像』(セルフイメージ)を殺そうとしているのだと。―(中略)―そのイメージを否定して、あたらしい自己像を獲得しようとしている。つまり、死にたい願望ではなく、生きたいという願望の表れではないか。」
『私と何か」において、自傷行為とは、アイディンティティの整理であり、生きたいという願望の発露の一環ではないかという考察が示されている。「自分を殺す」とはただ単純な絶望から来ているのではなく、「生きること」の模索、ひたむきな想いから自身を更新しようとする過程で起ってしまった不幸な結果の一つなのだ。
哀しきモノノ怪の恋
「モノノ怪がその面の男を操り、あなたを欺きあの家に縛り付けた、それが《真》、そして母親の、いびつな、愛情を受け止めようとあなたの心は歪み、モノノ怪が憑いた、それが《理》」
そして、モノノ怪の《形》は「お蝶の顔」だった。
お蝶と狐面の男は祝言の日に、絵の中で出会った。自分を殺し、母の願いのための自分を顧みる事が出来なかったお蝶は、逃避の世界の中で彼女を見つけ出した男と恋に落ちた。 お蝶にとっての狐面の男は、彼女の「分人」と呼ぶべき存在だったのかもしれない。
自分の心の面、分人を自分自身と知らずに愛し、希望を見出したお蝶。自分で自分を愛す、それははたから見ればいびつなあり方であるのかもしれない。しかしお蝶の境遇においては、母の願いの道具と成ることを自分に強い、自分の心を殺し続けねばならなかった。だからといって自分の欲求が消えたわけではない。責任ゆえ、自罰の気持ちゆえ、自分自身の心を認める事が出来なくても、彼女の中に自己肯定の気持ちは確かに有ったのではないだろうか。
ただし、彼女の作った心の牢の中ではそれを「表」にすることは出来なかった。彼女の別の面であり、内なる他者として存在する狐面の男の口を通してしか、それを表明することは出来なかったのである。はじめから彼女は知っていたのではないか、自分を愛してもいいという事を。望まない惨めな環境の中にいる自分に対し、「自分はもっと幸せになっていい」という想いを抱いていることを、本当は自分で分かっていたのだ。
もう家に帰りたくはない、死んだ方が楽、と口にするお蝶を見る狐面の男は、涙を流した敦盛の面を被っている。狐面の男の説得にも応じず、ただ無気力に死を望むお蝶に、彼は求婚をする。
「私なんかでいいの?罪人の女なんかでいいの?」
と問うお蝶に、梅の木から顔を覗かせ、いじらしい様子で
「あんたが良いんだ…」
と告白するのだ。まるで、お蝶の心の「悲しみ」に呼応するように、彼女に言葉を与えるのである。
この二人の間にある「恋」とは何なのだろうか?
それは、男女が惹かれあう、異性間の「恋」だろうか。お蝶に恋した狐面の男、それは自分を殺してきた彼女の心を労わり、自分を愛する事が出来る彼女の面の一つだったのではないだろうか。彼女を欺く事でしか、「のっぺらぼう」はその形を保てなかったが、その中には、自分を助け出したい、自分を解放したいという意識が少なからず含まれており、それが狐面の男の行動として表出していたのではないか。それがたとえ、苦しみからの逃避から生まれた自己の一面であっても、彼女を救いたい、幸せになって欲しい、と望んだその想いは「恋」と呼んでもよいのではないか。
母の願いに囚われ、苦しみの牢に自分を閉じ込めた半生を見せられたお蝶は、「かか様聞いて!私頑張ったの!」と泣き叫び、最後に口にしたのが
「私、ばっかみたい…」
という、自分を客観視した、今まで決して言えなかった彼女の「本心」だった。その途端、今まで彼女を覆っていた虚構が崩れ、モノノ怪の形が現れたのだ。その言葉は、彼女がモノノ怪を払うために必要な言葉だった。「母のためにはこうあらねばならない」「我慢をし続けなければならない」という自分を縛り付ける呪いを破る為の突破口となる言葉だったのだから。こうしてお蝶が自分に課した呪いから生まれた「のっぺらぼう」の怪異のサイクルは崩れ、退魔の剣によってその因果を断ち切られる事となる。
「のっぺらぼう」は、彼女を歪んだ自分殺しのサイクルに組み入れて、あの場所に彼女を繋ぎとめていた。それは、結果として、彼女の救ったとは言えないのかもしれない。だが薬売りは、自分を救おうとした自分の内なる他者、狐面の男の想いと、それに惹かれたお蝶自身の想いを汲んで、
「…しいて言うなら、恋でも、したんじゃないですかね。
叶うわけなどないのに、哀しき、モノノ怪だ…」
と、答えたのではないだろうか。
虚構が消えた真っ白な世界、退魔の剣が「のっぺらぼう」を斬ったあと、ひらひらと舞い落ちてきた紙ふぶきの一片、「のっぺらぼう」の破片を手に、
「ありがとう、もう、大丈夫よ…」
と、優しく声をかけるお蝶。おそらく、彼女は自分を救おうとした他者としての自分、狐面の男を、自分の一部として認めたのだ。きらびやかな虚構を見せてくれる存在でなくとも、自分をひたむきに想い、大切にしようとした自分の心の一部として彼がずっと共にいるという事を知ったのだ。
成就
狐面の男は現実の世界を生きるお蝶の前から姿を消し、彼女は一人で歩み始めたのだろう。だが、物語の最後、幕引きで現れた障子の絵は、クリムトの『成就』のオマージュである。
グスタフ・クリムト『成就』1911年 194 x 121 cm
叶う訳などないのに、自分自身をに恋をした、哀しきモノノ怪。もうその姿を保つことは出来ないが、その記憶と共に、あの男はお蝶の中に存在し続けるのだろう。
二人が虚構の祝言の時に交わした、
「これで我らは二人で一人」
という誓いは、ここにおいて、成就されたのである。