モノノ怪『のっぺらぼう』考察前編・「自分殺しと心の牢獄」

下手人・お蝶

「日置藩藩士佐々木和正一家惨殺の一件、これより評定を言い渡す。当主和正が妻、お蝶、市中引き回しのうえ、磔獄門と処す。」

  奉行の評定の声が朗々と響く。鶯の冴えた鳴き声が聴こえる庭には、赤い着物に白い顔の女性がひとり立ち尽くしている。放心した顔には隈が浮き、血しぶきが点々と肌に張り付いている。

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 退魔の剣を持つ主人公・薬売りが一家惨殺の犯人お蝶に出会うのは牢獄の中である。淡々と自分の罪を受け入れるお蝶に対し、薬売りはその詳細について、のらりくらりとした調子で繰り返し問うたあと、

「私はね、あなた一人で殺ったんじゃないと思ってるんですよ。」

と、切り出す。

 モノノ怪「のっぺらぼう」

このモノノ怪・「のっぺらぼう」は、自分を殺してしまった女性が、また同時に自分に救い出される物語である。「のっぺらぼう」というモノノ怪は、様々な能面を使い分ける「狐面の男」としてお蝶の周囲に現れた。

「澱のようにたまっていく毒を吐きだしてほしかった」と、お蝶に凶器となる鉈を手渡したのも、この狐面の男だった。

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薬売りの制止を振り切り、牢獄からお蝶を連れ出した狐面の男。彼は、凛々しく、優しさのにじむ声で彼女に語りかける。あの場所に戻らなければならない、そうしないと本当にあなたが下手人になってしまう…

もう帰りたくない、このまま死んだ方が楽、と拒むお蝶に、狐面の男は

「では、俺の女房になってくれ!」と告白する。その声に切実さを込めて。

そしてお蝶の承諾を得ると、

「やったあ…やったぁ!やったぁ!」と無邪気に大喜びをするのだった。

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 狐面の男がお蝶のために用意した祝言の席は、ありったけの思いやりで満たされていた。お蝶は幸せだった。

 たとえ、それが自分が作った自作自演の芝居であったのだとしても。

 

毒親の歪んだ愛情

 二重三重に重ねられた虚構をびりびりと破り、真を露わとしたのが、二人の祝言に現れたお蝶の「母上様」である。お家再興のために、お蝶を武家の奥方とするための教育に執念を燃やしていた「母上様」。娘を自分の願いの受け皿としてしか見ることの出来なかった母に対し、

「私は、母上様が大好きでした。」

 と、何かを打ち消すかのように繰り返し口にするお蝶。

 だが、母の厳しい躾に耐える幼少のお蝶の心は、霊となって浮遊していく。障子に描かれた毬を見つけると、芸事の稽古を続けるお蝶を尻目に、全てを忘れたように楽しげに遊ぶのだ。

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 この母は、現代で言うところの毒親ではないだろうか。毒親としての一例に「子どもを過度にコントロールする親」、というものがある。「子どもに与える愛情に条件を付ける」「親を喜ばせる事で子どもは愛情を獲得しなければならない」、また「子どもの人間性を尊重しない」「子は親の所有物でしかなく親のニーズに答えることを強いられる」などを挙げることができるが、

 

「なるほど、だからあなたは母の願いを叶えるための道具となった」 

 

という薬売りの言葉は、娘をお家再興という目的のための道具とした母、その期待を内面化し続けたお蝶の、この母子の関係のかたちを言い当てていたのだ。

 お蝶は、「母上様が、大好きでした」という言葉で、自分の逃げ場のない本心を押し殺すことでしか、自分を保てなかった。お家のためと、娘の心を顧みなかった母はその執心を「娘への愛情」と思い込み正当化した。母の欲望を受け止め、自分を殺してきたお蝶にとって、自分が努力し続ける理由は「母上様が大好きだったから」でなくてはならなかったのだ。真実と向き合うより、その方がずっと楽で、ずっと優しい答えだったのだから。「母の願いを叶えるための道具となった」 事を認めたら、彼女はとても生きていけなくなる。生きるために、彼女は母を愛することにしたのである。

心の牢

 嫁ぎ先である藩士の家は、お蝶にとって劣悪な環境でしかなかった。芸事の厳しい英才教育を受けたお蝶は、ここではただの飯炊き女としてしか扱われず、「武家の奥方」という身分とはかけ離れた、孤独で、惨めな毎日を送られねばならなかった。

「酒だ、酒を持ってこい!」と騒ぎ立てる亭主、お蝶を嘲る姑、義弟、義弟の嫁…。

 その姿は見えず、声だけが隣部屋からやかましく響いている。何度も記憶の中で繰り返される一人ぼっちの勝手場。そこから見える空は、冒頭のお蝶が死を待つ牢獄と、同じ空だった。

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「この場所は、あなたが閉ざされていると思えば牢に、出たくないと思えば城となります。あなたは、ここを牢獄と思い込んだ。」

 この言葉通り、お蝶は嫁ぎ先の家を自分が追いやられた場所、抑圧の声響く勝手場を、母の望む娘でいるため、自ら「牢」とし、自分自身を閉じ込めていたのだった。

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 実際に彼女が牢に繋がれていたという事実は、本当は一度もなかったのかもしれない。彼女が繋がれていたのは、「閉ざされていて、到底逃げることは出来ない」と思い続けていた自分自身が作り出した、「心の牢」だったのではないか。

 うすぼんやりした意識の中、彼女があの狐面の男の誘いに乗って何度も殺し続けていたのは、あの家族ではなく、すべて、自分自身だった。

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「あの感触のおかげで、私は耐えてこれた、何度も何度も…」

 凶器を振り下ろすたび、肉を、骨を断つたび、血しぶきが上がり、悲鳴が上がるたびに感じた感触、その度に抱いた愉悦、解放感は全て、自分を殺すことで得ていたものだったのだ。そして、彼女に凶器を手渡し、逃避行にまで及んだモノノ怪の正体は、「のっぺらぼう」、その「のっぺらぼう」の正体もまた、彼女自身の顔だったのである。

 「のっぺらぼう」とは「他人の欲望の為に、自分のおもてを失くした、モノノ怪、それは、抑圧と忍耐の果てに、自分を見失った「彼女自身の心の有様」そのもの、だったのである。この歪んだ、悲しい心の有様がモノノ怪の起す怪異の正体だったのだ。

 

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「私はね、あなた一人で殺ったんじゃないと思ってるんですよ。」

「私一人でやったんです。」

 薬売りとお蝶の言葉は、それぞれが真実の別の「面」を語っていた。下手人は「のっぺらぼう」とお蝶、殺されたのは無数のお蝶、すべて、自分自身だったのだから。狐面の男として現れた「のっぺらぼう」が手渡した凶器で斬りつけ殺したのは、馬鹿な武家の家に縛り付けられた弱く惨めな自分、積み上げられたしゃれ頭の山はすべて、自分自身の亡骸だった。

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 モノノ怪「のっぺらぼう」はお蝶の心の有様そのものであるが、その有様を保ち続けるには、お蝶の抑圧が集約されたあの屋敷のあの勝手場に、彼女の魂を繋ぎ留めなくてはならなかった。お蝶の心を救おうとした「のっぺらぼう」だったが、そうして彼女の中に存在し続けるには、彼女を「牢獄」に繫ぐしかなかったのである。

「私は、あなたを牢獄から救い出すために生まれた…」

あの狐面の男、「のっぺらぼう」の言った事に嘘はなかった。ただし、彼女を何度も牢から救い出すためには、彼女をずっと牢に繫ぎ続けなければならない。「のっぺらぼう」は、彼女を苦しみから解放することを存在理由とするがゆえに、彼女を苦しみの場所に留めるという、この様な矛盾をはらむ状況を作り出してしまったのである。

出発

 彼女の繋がれた牢は、あの勝手場であり、母とつらい稽古をしたあの部屋であり、すべては彼女の「心の牢」だった。彼女が言い渡された真の罪状は「一家惨殺」などではなく、「自分殺しの罪」であったのだ。

 薬売りがモノノ怪を斬った後、お蝶の意識は再びあの屋敷の勝手場へと戻り、食器を割る音で我に返る。そして、お蝶は窓の格子の向こうにある空にむかって、今度は静かに微笑む。そうしてお蝶の姿が消えた後、壁に描かれた鶯が軽やかに梅の木から飛び立つのである。

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誰もいなくなった勝手場。しかし隣の部屋からは相も変わらずお蝶を急き立て詰る声が聴こえ、馬鹿騒ぎが続いている。罵倒や嘲笑が響き続ける中、一人座し、隣部屋を見つめる薬売りが、ぽつりと言う。

「しかし、誰も、いない…」

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鶯が飛び立ったように、お蝶はこの家の不条理から逃げ出し、今度こそ自分の意志で自由の身となった、そう捉えることも出来るだろう。だがこの、「誰も、いない」とは、ただ彼女が消えたというだけではなく、「はじめからここには誰もいなかった」という意味を含んでいるのではないか。最後に薬売りがいたあの屋敷、あの場所は、抑圧の声が鳴り響く負の感情の磁場、お蝶の胸の内に存在していた「心の牢」そのものなのかもしれない。

彼女が自分の新たな生を見つけ、あの場所から逃げ出したとしても、「心の牢」だけは、おそらく自分の一部としてずっと残り続ける。モノノ怪を斬っても、その牢獄自体を消すことは出来ないのだろう。

 「心の牢」、それはモノノ怪ではなく、誰でも持ちうる悲しみと苦しみの磁場なのだろう。おそらく、最初からお蝶と薬売りはずっと「同じ場所」「一歩もそこから出ずに」、一連の問答をしていたのだ。

 願わくば、飛び立ったお蝶の魂が、二度とあの牢を訪れる事がないように。願わくば、「心の牢」の他に胸の内に作り出せるはずの「心の城」、自分の居場所と呼ぶべき場所に彼女がたどり着けるように。「他人の欲望の為、自分のおもてを失くした、モノノ怪「自分の望み」を見つける事によって、人の姿を取り戻すことが出来るのだろう。

 

             

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