「体温のある死」―読書感想文・小川洋子『冷めない紅茶』

 小川洋子の中編小説『冷めない紅茶』とは、不可思議な死と言う概念を日常から隔てる事なく、分けがたい人間の営みの一つとして捉え、抜き出した物語である。

  死とは、隠しておきたいもの、風化していくもの、あるいは忌まわしいものとして、私たちの日常からは排除される。死は、体温を失った身体、亡骸、灰、または冷たく味気ない墓石の手触りとして、日常とは別の領域にあるものとして認識される。

 この物語の主人公「わたし」は、自分の持つ当たり前の日常よりも、これら「死」の方面により親近感を感じている。その予兆は幼少時代に体験した、熱帯魚の死、祖父の死など、身近な死のエピソードから読み取ることが出来る。

わたしたちはそれを、いつも庭の南天の木の下に葬った。季節によって南天は、白く慎ましい花をつけていることもあったし、固くて赤い実をつけていることもあった。わたしがスコップで穴を掘って、弟が熱帯魚をその中に横たえた。土をかける時が一番切なくなる瞬間だった。滑らかでみずみずしい背びれや腹えらやらに、黒ずんだ土が降りかかるのを見るのは、少し悲しかった

 

説明している間に、おじいさんの死が生暖かい液体になって、わたしの中にしみこんでくるような気がした。自分の気持ちがびしょ濡れになってゆくのが分かった。

「え、あんたの所のおじいさん死んだのかい?どうしてそれを早く言わないのさ」

そんなふうにわたしを責めながら、彼女は後ろの棚からアルコールの瓶を取り出した。(中略)掌の中で済んだ液体がゆっくりと揺らめいていた。おばあさんの太ったあごや、人体解剖図や、脳の立体模型や、黄ばんだカーテンに囲まれて、わたしはしばらくじっと立っていた。掌の中の揺らめきを、哀しい気持ちで味わっていた。

始まりの冷たい夜

 中学校の同級生の死をきっかけにして「死」について改めて考え始めた「わたし」が、彼の葬儀で再会したのが、同じく同級生の一人、K君である。冷たい夜に、突如日常に入り込んできた「死」をきっかけにして、当時さほど親交の無かったK君との間にささやかな交流が始まる。K君の家で、かつて中学校の図書館司書だったという美しい妻、「彼女」を紹介されるが、この二人の夫婦の「完璧」とも言える関係性に「わたし」は次第に魅了されていく。

K君の家から帰って来た時、わたしは時間の感覚をなくしていた。確かに暗くはなっていたので、夜が近いことは分かった。しかしそれ以上のことは、何も考えられなかった。(中略)

それだけ、その日の午後は長かったのだと思う。K君と彼女と三人で過ごしたひとときの感覚が、いつまでもくっきりと残っていて、胸苦しいほどさ。時間の幕に閉じ込められたかのような気分だった。

 「わたし」は二人の間にある完全さに触れるにつれ、自分の日常の中にある不具合さについて、頻繁に自覚するようになる。

当たり前にすませてきた日常の不格好さ、普段ならすぐ忘れてしまうような生活の粗雑さが、「わたし」を不快にさせる。

同棲している男、「サトウ」との間にある感覚について、

サトウのいない夜は、どこか不完全な感じが漂っている。その不完全さは、淋しとか恋しいとか、何かを追い求めるような気持ちとは全く違って、ただの単純なあるがままの不完全さだ。辞書から抜け出たかのような冷静さで、漂っている。 

と「わたし」が言っている様に、彼女が日ごろ感じている日常への不信は、K君と元司書の「彼女」の間にあるこの上ない充足感と比較されるうちにますます募り、K君の家を訪れたいという想いに歯止めが利かなくなっていく。

風化しない死

 A君と「彼女」が「死の領域」の人々であることは明言こそされていないが、作中の印象的な各場面において仄めかされている。

 全焼した中学校の図書館で死んだ誰か、部活動中の校庭の中、誰にも注意を払われる事なく、寄り添いながら淡々と歩き続けるK君と「彼女」、その二人を包む非現実的なほど美しい黄金色の夕暮れ、「わたし」の空想の中で、「喪服のような学生服」を着て、司書の「彼女」と永遠の時を過ごすK君の姿…。

「木造の図書館が焼けたんだから、それはそれはものすごい火事だったらしいわね。火花の中を、無数の紙きれが赤い蝶々みたいにゆらゆら舞ってたんですって。一人か二人、死者も出たくらいですからね。」

その一人や二人、というのは一体誰なのか。「死者」と言う言葉に感じた違和感はなんだったのか。

何かが歪んでいるような気がした。時間や空気や距離や、そんな目に見えない何かがどこかでねじれていた。しかしわたしにはどうしようもできなかった。わたしは私自身、そのねじれの渦にはまりこんでいった。

 帰路、「わたし」がひとり闇に溶けていく様子は、「わたし」自身が死の世界に限りなく接近してしまった事を表わしているのではないか。

 懐かしいと思う事、失われた過去へのこらえがたい羨望が「私」を包み込む。

一緒にいる楽しさよりも、いないつらさでその人の大切さが胸にしみる時、わたしはその人を特別に愛することができる。 

 小川洋子の初期の中編『薬指の標本』あるいは長編の『沈黙博物館』においては、失われたものへ対する偏愛を抱く主人公たちが描かれる。

  彼らは自ら自分の日常を越え、彼岸の領域へと足を踏み入れていく。『冷めない紅茶』の「わたし」もまた同じ様に、自ら引き寄せた彼岸の境界を越え、完全なる闇へと溶けていくのだ。

冷めない紅茶

私は自分を引き戻すように、紅茶の最後の一口を飲み干した。それは、燃えるように熱かった。ブロンズの液体が震え、身体の真ん中を突き抜けて行った。

「この紅茶、全然冷めてないわ」

 

(K君が紅茶を淹れてくれてからもう随分たつのに、どうして全然冷めていないのだろう )

 冷めない紅茶、それはおそらく「死の温度」なのだろう。K君と「彼女」の完全さは、死の領域にある不可侵の充溢なのだ。この物語において、死とは風化するものではない。火事で焼失した図書館と彼ら二人の存在は、現在進行で灼熱の温度を持って、現世に存在し続けている。ここで表わされた「死」は決して現世の日常と断絶された概念ではない。カップに満たされた紅茶の色は、骨を燃やす炎の色であり、燃える様な熱い紅茶の湯気は、図書館を焼いた焔の揺らめきなのかもしれない。

 日常に混入された「死の温度」に触れ、完全な世界に足を踏み入れた「わたし」。私たちはそれを、煩雑で不完全な世界から、ただ見送ることしかできない。パーツの不揃いな、不純物ばかりの日常に留まり続けることは、私たち生者に与えられた宿命でもあるのだから。