時代劇なのに「野火」より根源的な反戦映画/塚本晋也監督「斬、」(ざん)

フィリピンのレイテ島を舞台に飢餓に襲われる兵士の視点から戦争の不条理を描いた「野火」から4年、壮絶なテーマ性を引き継ついだ時代劇「斬、」(ざん)が公開された。

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あらすじ

 舞台は長く続いた太平の時代が終わり、ちまたに「世直し」「攘夷」といった言説が囁かれきな臭さが漂い始める幕末の世。主人公の若き浪人、杢之進(池松壮亮)は、そんな都の喧騒から離れ、里山で農民たちと交わりながら暮らしていた。彼に想いを寄せる気の強い農家の娘ゆう(蒼井優)と、杢之進に憧れ、侍になりたいと剣術稽古に励むゆうの弟・市助(前田隆成)に囲まれ、穏やかな暮らしを過ごす杢之進のもとに、「京で起きる騒乱に参加しないか」と誘う凄腕の浪人・澤村(塚本晋也)が現れる。人を斬ることに疑問を抱く杢之進は、澤村との出会いをきっかけに大きな悩みに対峙することになるのだが…

(以下、全編ネタバレあり)

一見するとふつうの時代劇だが…

 ストーリー自体はものすごく単純で、世直しをしろ、無法者は殺す、という幕末の侍の「テンプレ」のような澤村と、人を斬ることに戸惑い続ける杢之進が折り合わず、無益な暴力の果てに二人が相対し、人を斬れない杢之進はどこかに消えてしまう、という内容だ。

 これだけ見ると筋がはっきりしない時代劇、と思えるかもしれない。だが実は、「斬、」は戦争の生々しい悲惨を描いた「野火」とそのまま地続きな「反戦映画」であり「暴力の痛みを描くことで非暴力を訴える」映画なのである。

北米の試写会で塚本監督は「『野火』を作ったのは戦後70年という年でしたが、戦争にまた近づいているという恐怖から急いで作りました。多くの観客の皆さんに届いたという手応えがあり、少し安心できるかと思ったのですが、それから3年経っても安心感を得られませんでした。その不安な “叫び”のような気持ちをこの作品にしました」と語る。

『斬、』トロント国際映画祭 塚本晋也監督 北米プレミア上映に登壇 – CINEMATOPICS

 新撰組などの志士が活躍する舞台としての幕末は、「かっこよく人を斬る」侍がフィクションで数多く描かれてきた。この時代を新作の舞台に設定したというのも塚本監督の皮肉の一つだろう。「戦争で日本兵が勇敢に戦った!兵隊さんの死のおかげで今の日本がある」という戦後つくられたヒロイズムへの返答として、飢餓に狂っていく人間や無為に死んでいく兵士の死体を見せた「野火」とやっていることは同じだ。戦争の熱に流されて容易に人を殺したり、飢餓に駆られて人肉を喰うことにも葛藤した田村一等兵と、侍でありながら「人が斬れない」と取り乱す杢之進は別の時代を生きる同一人物と言ってもいいだろう。

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「人殺し」として侍を描く

「斬、」で描かれるのは「ヒーロー」としての侍ではない。

浪人の杢之進は清廉だがなかなか難しい心理を持つ人物だ。争いを好まず、村を訪れた荒くれ者たちにも心を開いて話し合うといった平和主義的な面が目立つが、一方で自分が持つ日本刀の美しさに異常なほど魅せられている。彼が執拗に光る鉄の刀を見つめる姿は性的ですらあって、鉄の美しさと人を斬る「力」に心底焦がれているというのが分かるのだが、それでも彼はいざという時、生身の人間を斬れないのだ。「刀に執着するのに人が斬れない侍」。人を殺せる武器の力に心酔する気持ちと、生身の人間の命を奪うことを結び付けられない。その葛藤が映画の中で繰り返し繰り返し描かれる。

「そんな侍、本当に幕末にいたんだろうか」と思わないわけではないのだが、塚本監督はインタビューで「普通の現代の若者が幕末に行ってしまったらどうなるか」というアイデアがあったと語っており、杢之進は現代的な葛藤の受け皿となる人物、と見ていいだろう。

杢之進とは対照的に凄腕の侍・澤村は、世直しの使命に殉じ、刀の力を誇示することに全く抵抗がない。一見穏やかで人が良さそうだが、彼が「侍らしく」面倒事を話し合いではなく斬り合いで解決しようとしたことが引き金となり、村で起きた些細な諍いは優を除く村人の皆殺しという陰惨な結果を招くことになる。

侍と刀の力に魅せられていたのはゆうの弟、市助も同じだった。

市助は澤村に世直しの要員に誘われたことに有頂天になり、農民でありながら「人を斬る刀」の力を振るうことを求めてしまう。いつもだったらしない無謀な戦いを挑み、無法者たちに馬鹿にされ最後は命を落としてしまう。こうした場面を通じて繰り返し、「力に振り回されること」の恐ろしさや軽率さを描いている。

映画を見ていくと、澤村は「誇り高く映画の主人公となるような侍」ではなく、なんとかおさまったはずの状況を暴力的な結果に導く単なる「人殺し」ではないかと思えてくる。

実際の斬り合いの場面でも、通常の時代劇のように「かっこよく観客が高揚するような殺陣」は描かれない。杢之進は混乱して刀を取れず、気がふれたように叫び続ける。果し合いに乱入した澤村が行うのは、「正義の執行」でなく、無法者たちの物理的な身体の切断だ。観客が感情移入を促されるのはばたばたと敵を斬り倒す侍側ではなく、腕を失い苦痛に悶える敵側のほうだ。これも通常の時代劇とは異なる演出で、観客からすれば「これから悪者を倒す場面だ」という高揚感が空振りされ、刀で斬られる人体の痛みや死にゆく時の恐れの方に注意を向けざるを得なくなる。

そうしてもう一度、混乱する杢之進と同じく観客は自分に問うことになる。

「人を斬るとはどういうことなのか? なぜ人は人を斬るのか?」

なぜ人は人を斬るのか?

  「世直し」のためとあれば簡単に人を殺せる澤村と、刀に焦がれ侍としての役割を自覚しながらも、どうしても人を斬れない杢之進。二人の違いはなんなのか。

当時、武士階級の人々が役目から逃げ出すことは難しかったと思われる。本当だったら義務として人を斬らなければならないし、人を斬れないというそれ自体が相当な恥である。それでも杢之進は澤村の前でみっともなく泣き、「どうしたらあなたのように人を斬れるんですか」と問う。家族を殺されたゆうが「このままじゃみんなは浄土に行けない、侍なら敵を討ってください」と鼓舞しても、無法者を斬れなかった。ゆうが無法者たちに乱暴されているのを目にしても、彼は刀を取って殺すことができなかった。

しかし、侍らしい侍である澤村も到底正義の人のようにも見えない。深手を負って、もう「世直し」を達成できそうもない状況に陥っても、澤村は杢之進に刀を振るわせることにこだわる。「これも御上のため」と嘯くその笑顔は、叶わない妄執に取りつかれたような不気味さがある。農村の風景しか描かれない映画では、彼らのいう「世直し」が本当にあるのかさえ怪しい、と思えてくる。世直しも、動乱も、その御上も、すべて澤村の言う妄想なのではないか、侍たちだけがこだわっている共同の幻想なのではないか、そんな気配すらかんじさせる一幕だ。

澤村の思考回路の不気味さに気付くことは、そのまま「なぜ、人は人を斬るのか」という本作のキャッチコピーに繋がってくる。

些細な行き違いで殺されてしまった市助たち、手足を斬られ痛みに悶えながら息絶えていく無法者たち、彼らの死の光景を今一度思い浮かべれば、こう気づくだろう。

「なぜ、人はそんな理由で人を斬れてしまえるのか。なぜそんな理由で人を殺さなければならないのか」

「なぜ、人は人を斬るのか」という問いの裏側にはこのような告発があったように思えてくる。

「野火」を撮った塚本監督は過去のインタビューで「今までは自分の心の中にあるものを形にするっていうのが自分のこの上ない喜びだと感じていたんですけど、今度は戦争を体験した人が書いた世界を追体験していきたい、っていう全く今までとは違うアプローチでした」

『野火』塚本晋也監督インタビュー「ファンタジーではない本当の暴力を」

と語っているが、「斬、」にも同様のアプローチが見える。追体験するのは武力を行使して英雄になる側ではなく、人を殺さなければならない状況に放り込まれてしまった側の体験であり、そこに安易なヒロイズムは存在しない。「野火」で描かれたのは機関銃や爆撃といった近代的兵器による死だったが、「斬、」で描かれるのは刀を用いたさらに根源的な人殺しであり、杢之進はそのような手ごたえのある生身の死に慄いている。観客は杢之進の恐れと苦しみを追体験する。

悩み、足掻く姿は美しい

終局で、杢之進は襲い掛かる澤村を斬った、という結果だけが描かれるのだが、極限状態に陥った杢之進の心理を引きずるようにエンドロールではカメラはふらふらと光を遮断する森の光景を映す。木から飛び立っていく一つ星のテントウムシを見つけた、と囁く澤村だけが妄執から解き放たれて死んでいったということがほのめかされるが、杢之進がどうなったのかわからない。

作中を通して、杢之進は人を斬ることもできず、役目から逃亡する役どころだというのに非常に美しい存在として描かれていたように思う。「どうしたらあなたのように人を斬れるんですか」と泣く姿も、苦悩を抱えたまま澤村と対峙した時の幽鬼のような姿も、とても見ていて希少で好ましいものに見えた。それは「野火」から「斬、」に至った塚本監督なりの人間愛であり、祈りの一つなんじゃないかと思った。

悩んで足掻いて、弱さを晒してわめくことは、そんなに悪いことか?

不穏な時代にただ黙って呑まれることよりも、ままならない叫びをあげることの方がずっといいのではないか?

そうやって足掻く姿を通してしか、生命の尊さというのは問えないんじゃないか。杢之進のようなあり方を美しく希少だという価値観を保つことが、実はものすごくシンプルな反戦の態度なんじゃないかと思った。