『阿・吽』2巻について本気出して考えてみた/火をつけたのは誰か?最澄が見たものは?

おかざき真理『阿・吽』2巻収録の6話~9話は修業中の最澄の苦難を描いたエピソードだ。理想の仏教を目指した繊細で世間知らずの天才最澄は霊山比叡で小さな庵を築き、僅かな弟子たちともに「全てを救う教え」を実践しようとする。しかし清浄なはずの比叡で彼が直面したのは理想を打ち砕くようなこの世の悲惨だった…という内容。

心情が台詞なしの作画で表現されている

この一群のエピソード、個人的には『阿・吽』のなかで最高に好きな話だ。しかし、9話の「薬師如来」のラストに至るまでの最澄の心情描写は余計な口語説明を入れず、作画で表現されている。その作画というのも、6話「灯」から描かれてきた内容をメタファーで表したもので、ものすごく視覚的に迫ってくるものの、情報と熱量が多すぎて自分では言語化がなかなかできなかった。言葉にしなくても凄いことは分かるのだが、たぶん言葉にできたらもっと納得がいくと思うので、自分なりに読み取ったことの説明を試みたい。

6~9話のエピソードの中で、最澄は何度も自分の理想と現実のギャップに心を引き裂かれることになる。

一つ目は、自分を慕っていた村娘は実は母の差し金で、最澄を堕落させるためにやってきたと気付いてしまうこと

二つ目は教えを裏切っていた弟子のせいで村娘が熊に襲われて死んでしまったこと、

三つ目は、「生き残るために傷ついたものを捨ててしまいたい」という自分の本能に気付いてしまったこと。

一つ目と二つ目は、最澄が気持ちでは「全てを救いたい」と言いながら実際には彼が掴んだ仏の教えが人々に届いていなかったことを浮き彫りにしたエピソードだ。三つ目は、極限状態に追い込まれたが故に現れた弱さなのだが、おそらく最澄の謳う仏の教えがこの時点では最澄だけしか救えていなかった事実ともつながっている。

「火」がひとつのキーワード

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『阿・吽』6話「灯」より

6話「灯」では、ほかの修行僧がいくら努力しても、最澄が天才過ぎて彼に近寄れない、人々と照らす火になりたいと願う最澄が実際には他者を脅かす危険な火であるということが語られる。

山の中で修業に励み続ける絶えない火である最澄と同時に、この話の中では暗い山の自然の姿が語られる。火が人に属するもので、不断の努力をしなければ途切れてしまう者であるのに対し、山の闇と沈黙は、自然の驚異と無慈悲さと重なる

「灯」がタイトルになっているのは、のちに最澄が残したと言われる

「明らけく、後の仏の御世までも、光伝えよ法の灯しび」

という歌から来ていて、この時点ではまだ最澄の放つ光が人を導ける灯ではなかったことを表しているのだと思う。

6~9話のエピソードは比叡に冬が訪れる間際の出来事であり、作中繰り返し山の冬は厳しく、寒さや飢えが生き物を苛み、クマなどの肉食動物が人を襲う様が描かれる。

そんななか、比叡の庵に一人の男が訪れる。

おおよそ学があるとは思えない歯の抜けた変な風貌の男で、最澄の弟子になりたいという。修行僧にはなれそうもなさそうだが、やけに生活能力がある男であり、最澄たちは彼が持ってきた食糧に助けられる。

彼は実は殺人者で、里で人を殺して逃げてきたことがわかるのだが、私はこの男がただの人間の様には見えなかった。殺人者なのは確かなのだが、この男の造形には「恐ろしい自然の摂理」そのものが仮託されてると思った。

対峙したのは山の神そのものなのでは?

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『阿・吽』2巻8話「慈雨」より

村娘を死なせてしまった弟子のひとりはクマに足をえぐられ、寝たきりになってしまうのだが、男は山の摂理に従って見殺しにすべきだと提案する。言っていることは非常に合理的であり、本来慈悲の心を持たなければならない修行僧たちも、山の摂理の「合理性」に心を動かされていく。そんななか、男に妻子を殺されたという村人が闖入し、殺し合いが起きる。仲裁に入った最澄も刃物を突きつけられ、地には死人と傷ついた弟子たちが倒れている。

この惨劇で倒れた弟子の一人が最澄様、これでも皆を救うとおっしゃいますか!みな、暗い心を持っております」と叫ぶ。

叫んだのは最澄をもっとも慕っていた弟子だ。この問いが出てくるのは当然だ。最澄が唱える理想と、今目前で起きていることのあまりの醜さに耐えきれなくなったからだろう。人を殺して生き延びることの合理性、山の摂理に飲み込まれていくだけの人間の弱さ。その現実に、最澄の綺麗な理想は耐えられないだろうと思った。そうであってほしい。自分と同じであってほしいと彼は思ったはずだ。

だが、最澄「救います!それでも私は皆を救います」と応える。

この言葉は最澄が、山の神(のような存在)が見せた「自然」に最澄が刃向った、ということだと思う。実際にはみんな殺されそうな状況で、「全てを救う」のは不可能なはずなのだが、彼は自分に課した使命だと言わんばかりに「皆を救う」と宣言する。

この宣言は、すぐに厳しい現実にへし折られる。

刃物を持った男から逃れるために、最澄は寝たきりになった弟子を背負って光のない暗闇の中を彷徨うのだが、一歩間違えば足を踏み外して死ぬ危険な道行きだ。

「全てを救う」と言ったはずなのに、聞こえてくるのは自分の声なのか、あの男の声なのかわからない複数の問い。

(なんのために助けるのか、捨ててしまえ)

(その者に助ける価値はあるのか?)

その問いは、おそらく最澄自身の生きたいという本能が発した内なる問いであって、

「あなたの願いをかなえてあげよう」と言って刃物を振り下ろした男は、やはり人間ではなかったのではないだろうか。

あるいは、庵で人を殺して逃げたまではただの人間だったが、闇の中最澄の本心を引きずり出すように問いを続け、負傷者を殺すことで最澄の命を救ったのは、殺人者の男の姿を借りた「山の神」(のような存在)そのものだったのではないかなと思った。

そういうものと対峙した最澄は理想だけが先走っていた自分の弱さをまじまじと見つめさせられたのだ。

暗い炎に名をつける

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『阿・吽』2巻9話「薬師如来

一連の惨劇が落ち着いた後、最澄たちはこれまで通り修業を続けるのだが、庵の蜘蛛の巣にかかった蝶を見てから、様子が変わる。

この後、最澄はせっかく苦労して集めた宝のような経典の写しを悲しそうに一瞥した後、火がつく庵を黙って見つめるという奇異な行動をとる。

初見ではなぜそんな行動をとったのかわからなかったのだが、これまでの内容を順を追って振り返れば、彼の行動の理由がわかる。

蜘蛛の巣にかかった蝶を見ていた最澄にの目に映っていたのは、そのままの光景ではない。蝶に重なって見えたのは、クマに襲われて死んだあの村娘であり、殺人者の男に殺された村人であり、自分が見捨てようとしてしまった弟子の姿である。

経典を読みふけり、救いを説きながら、彼の目は蜘蛛に食われる蝶を追ってしまう。それは、あの山の神のような男が見せた「生き残ることの合理性」であり「命を奪うことで成り立つ山の摂理」のメタファーだ。

自分が集めた経典の山を見ながら、最澄はこう思っていたのではないだろうか。

――すべてを救うなどと言いながら、自分は他者を見殺しにしてきた。

――これまでやってきたことは、ただの独りよがりだったのではないか。

私は、庵は自然に燃えたのではなく、最澄の内に生じた理想への疑念が「暗い炎」となって点火したのだと思う。最澄が呆けたようにその場を動かなかったのは、自分の身に宿っていた炎をまじまじと見つめていたからだ。

しかし、最澄はその悲劇的な光景のなかに、歌い舞う天人の姿を見る。消火活動をする弟子の目に天人の姿は見えていない。

全てが燃えてしまった後に、ひらりと彼のもとに舞い降りたのは、経典の一部で「無」と記された紙片だった。

これは、何を意味しているのか?

様々は考えられることはあるのだろうが、私は「これまで最澄がやってたことが全部無駄だった」と言う意味ではないと思う。

最澄の財産であった経典が燃えたというのに何かを祝福するように炎の中から天人は現れた。残された「無」という字は、「無駄」という意味ではなく、「自分は何も成しえていなかった、まだ何も無い状態にすぎなかった」ということを悟った、ということなのではないか?

いまだ無であり、自分はまだスタート地点にも立っていなかった、それに気づかされたから最澄は泣いたのではないか。

最澄はのちに、桓武帝に対して「そのために言葉はあるのです。自らの中にある暗い炎に名前を付けるために、自らの持つ煩悩の正体を知るために」という言葉をかける。

2巻の6~9話のエピソードは、最澄が自らの中にある暗い炎の正体を知る話だったのだ。暗い炎を自覚した最澄は、それから「全てを癒す」薬師如来を掘り、のちに不滅の法灯がともされる根本中堂の本尊とする。

最澄と6~9話のエピソードは、もしかしたらこの薬師如来と不滅の法灯がまず念頭にあって、そこから逆算して考えられたのかもしれない。

そうすると「あの方は絶望とともに歩まれるのだと思う」と言った弟子の言葉がよりしっくりとくるかもしれない。つまり、最澄の絶望の発端となった暗い炎こそが、彼が救いを広める動機であり、自分の中に暗い炎が燃えているのを知っている彼が一度の絶望や敗北では止まることはないということだ。

この後も、最澄には数々の困難が降りかかるのだが、このエピソードはそれに向かい合う最澄の壮絶な姿勢の基礎を描いたものだったと思う。

 

『阿・吽』、電子書籍で2巻まで無料だそうなのでぜひ読んでほしい