鹿島田真希『冥土めぐり』-理不尽の浅瀬で神と出会う

『冥土めぐり』は、主人公、奈津子の追憶をめぐり、その旅路の果てに「神」を見つける物語である。

 

             

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冥土の入り口

奈津子の人生は言いようのない「理不尽」の蓄積によって形作られていた。都落ちした上流家庭の出である奈津子には、現実を受け入れられないまま今に至り浪費を続ける母と弟がいる。彼らは「上流の生活」「高尚な趣味を持つ自分たち」という夢を見続けながら、長らく奈津子の生活と収入に寄生してきた。

 脳の発作による障害を抱えた純朴な夫、太一を介護しながらパートで生計を支える奈津子はある日ふと区の掲示板のに貼られたポスターを目にする。かつて幼いころの奈津子が両親、弟と4人で出かけた高級リゾートホテル、それが今、一泊五千円の区の保養地となってる。これは奈津子を「非常な歓喜と耐えがたい苦痛の矛盾に引き裂かれて恍惚とした」状態に導くものだった。

この一泊二日の保養地への旅が、奈津子が「あんな生活」と呼んでいた苦痛の源流へと導く。彼女と家族をめぐる追憶の旅が、彼女を苛んできた過去と言う地獄、あるいは冥土への入り口となった。

追憶の降下

「何かを語るには奈津子は疲れすぎていた」と言うように、固く閉じられていた追憶の入り口は、太一の一挙一動を介して徐々に開かれていく。

たとえばそれは「食事の場面」によって如実に描写されている。ホテルへ向かう移動の途中の昼食でマグロの切り身を黙って味わう太一の向こう側に浮かぶ、奈津子の家族との食事。ゆっくりと、ただ食べ物を味わう太一の食事を通し、食べ物でない別の何かを求めた家族との「上等な食事」の記憶を垣間見る。

自分たちは一流の人間で、一流の店を知っている。そう言い聞かせる、自分で自分を騙す詐欺師だった。

そこにあるのはただ自分達が上等であると誇示するためだけの醜悪な食事風景だ。「食すこと」はただそれだけのためではなく、虚栄をむさぼるための咀嚼と化していた。

太一と奈津子の家族はまるで噛み合わない地点にいる存在だった。

奈津子の母の中では男はただ搾取の対象であり、奈津子の祖父と父がそうして来たように、自分たちに金と優越感を与えてくれる存在でしかない。太一もいずれこの母と弟に誇りも金銭も奪われてしまうはずだった。しかし、太一はそんな母の思惑には気付かない。このすれ違いはなんだろうか。金をせしめる当てを失い、発作に倒れた太一を罵倒しに来た母を前にしても彼が奈津子の「あんな生活」に呑まれることはなかった。

人生でこんなにも理不尽に嫌われ、理不尽に愛されることがあるだろうか。少々の理不尽は誰にでもあるのだろう。だけど、こんなに理不尽を体験したまま、淡々と、生きていられるものだろうか。

 

淡々と、ただ自分の欲求にしたがって生きる太一は彼女が人生で出会った「異質な存在」であった。この「異質な存在」を伴って、奈津子は自分の過去の深層部に降下していくのである。

喪失の棲む場所

母の虚栄のよりどころであった、リゾートホテルはいまや鄙びた保養地と化している。

既に失われた栄光は影となって母の心に巣食い、果てのない呪いとなって娘の奈津子に襲い掛かる。もはや手に入らない過去を暴力的に求め続ける母と弟、その二人の狂った夢想に飲み込まれた奈津子は疲弊し打ち砕かれながらも、彼らの理解者であり続けなければならなかった。

本当につらいのは、死んだのに成仏できない幽霊とすごすことだ。もうとっくに希望も未来もないのに、そのことに気付けない人たちと長い時間を過ごすことなのだ。

奈津子はこのホテルで「喪失」と向かい合い、狂った亡霊たちの影が今だそこに遊ぶのを見た。彼女はここで過去という地獄に降りていったが、それは同時にこれまで努めて目を逸らしてきた、どうにもならない現実の傷口でもあったのだ。

旅の終わりに二人が訪れた美術館、ここにおいて、奈津子の追憶と現在が絵画の上で重なり合い一つの画面となって一致する。

幸せな食事の風景は記憶の中にある冒涜の思い出と重なり、父の死によって崩壊した家族の時間は静止した歯車の絵が重なりあって目の前を通り過ぎていく。

追憶が額縁の中に納まり、奈津子の体から離れていく。ただそこにある現実、かつてあった事象として、奈津子は彼女のうちにあった地獄と対峙したのである。

奈津子を苛んできた「あんな生活」の源流、過去への追憶は「理不尽」への恐怖によって閉ざされていた。奈津子ははじめ、彼女の人生にとって「異質な存在」だった太一を「理不尽そのもの」として捉えていた。しかし旅の終わりに、太一は理不尽に深く接しながらも、それとは一線を画す存在であると気付くのである。

奈津子の人生を取り巻いていたのは父の死を発端にした理不尽の渦だった。

母親は、父親も医者も、許せない。自分が受けた仕打ちと不公平が、いかに悲惨で不幸なものか、何とかして伝えたい。しかしその悲劇について表現しうる、持っている言葉が、この、わあわあ、なのだった。

このエピソードは永久にわあわあ、で締めくくられ、このエピソードから引き出される教訓は何もない。

この「わあわあ」と言う言葉が母、そして弟の持つ全てであり、誰でも良いから私を哀れんで、私には何も責任はない、だからあなたは私を助ける義務がある、逃げることは許さない、という無尽蔵の暴力の源なのだ。この暴力的な理不尽を、奈津子の家族は死ぬまで再生産し続ける。恨みと渇望が荒れ狂う渦の中にとらわれた奈津子は家族と一心同体となって生きる事を強いられた。自分の人生と家族の夢想との境界を失ったまま「あんな生活」という理不尽の澱みに飲まれていたのだ。

小さい頃は、お母さんたちが言うよかった頃に戻れると思っていた。だけどこの落ちぶれたホテルに来たら、もう元に戻れないと知ると思ったから、今までここに来れなかったの。

この言葉は、彼女の心が「あんな生活」と同化してしまっていた事を示している。理不尽の暴力の中、成仏できない幽霊の禍根というべき家族の願望を心に宿したまま生きていた奈津子は、この旅を通じ、喪失と向き合う事を果たした。喪失を一枚の絵の様に、すでに通り過ぎた事象の一つとして捉えることが出来たのである。

理不尽の海で

もう戻れない喪失の詰まったホテル、それを取り巻く恐ろしい海は奈津子が恐怖する理不尽の象徴であるのだろう。寄せては返し、絶え間なく不明瞭な事象を運んでくる「海」。

「永遠に繰り返される様に押し寄せる波」は人生そのものだ。世界は理不尽で恐ろしい。気を張り詰めて生きていても、常識に尽くしても、いつどこで気まぐれのように自分の心が犯されるのか分からない。既に体は理不尽の海に浸かり切っていて、身動きなど取れないのだ。

しかし太一は海を怖がらない。太一は奈津子の家族のように、理不尽の渦の中で荒れ狂うこともなければ、それに怯えて前後不覚に陥ることもない。太一にとって押し寄せる波も、理不尽も、すべて「満ち引き」でしかない。

理不尽の海の中で息ができなくても、押し寄せる波に流され苦しみにもだえる時もあれば、理不尽の海の浅瀬で風を感じることが出来る時もある。海のことは良く知っていると言う太一は理不尽について考えない。ただ、海の満ち引きの前に体を投げ出し安らかに眠りこけるだけなのだ。

 彼女にとって夫、太一は「神」と言うべき存在であったのかもしれない。鹿島田真希の作品において繰り返し描かれる、常識を変革する「聖なる愚か者」。それは愚かと蔑まされる生き方ゆえに神聖を持ちえる人間として表わされる、愛おしいが愚かで、損ばかりしている、現代においても受難を背負って生きる人々だ。

奈津子にとっては太一こそが神の似姿としての「聖なる愚か者」であったのだろう。

この人は特別な人なんだ。奈津子は太一を見て思った。今まで見ることのなかった、生まれて始めて見た、特別な人間

ただとても大切なものを拾ったことだけはわかる。それは一時のあずかりものであり、時が来ればまた返すものなのだ。

人の子として地上に下り、また天へ還って行った神の子の様に「あずかりもの」として奈津子の下に現れた恩寵が太一その人であり、突如襲った脳の発作と言う理不尽も、奈津子と太一にとっては祝福として機能した。

なぜ、奈津子は今まで死なずに生きてきたのか、それは太一という彼女にとっての神となる人に出会うためだったのだろう。地獄と向き合い、自身のうちに棲む亡霊を直視したこの旅を通じ、奈津子は自分のすぐ隣にいる神と出会ったのだ。

奈津子だけではなく、私たちも、いつか、自分にとっての神と出会う日が来るかもしれない。身近に生きるあなたこそが私にとっての神、と気付く瞬間が訪れるのかもしれない。あるいは自分自身がすでに誰かのにとっての神となっているのかもしれない。何故死なずに今も生きるのか、これ以上の答えはあるのだろうか。

人生と言う理不尽の海に顔まで浸かっていても、息継ぎが出来る瞬間はある、そして、潮が引いた時には砂浜を「あなた」と共に歩くことも出来る、そう気付けた時、私たちはきっと自分にとっての神、「あなた」と出会っているのだろう。