画像引用元 http://www.ags-movie.jp/
ホラー映画じゃない
ア・ゴースト・ストーリー見てきました。「幽霊の切ない記憶の旅」というコピーだけで見に行く価値があると思ったのですが、想像していたより遥かにスケールが大きく悲しいというより、すべてが腑に落ちて浄化されるようなカタルシスがありました。台詞が少ない分音楽で語る映画でもあり、そこは主人公が作曲家であるということとも密接にかかわっている演出だったと思います。
あらすじ
古い一軒家に住む作曲家Cと妻Mは二人で静かな暮らしを送っていたが、ある日Cが交通事故で不慮の死を遂げてしまう。彼の死に呆然としてMが霊安室を立ち去った後、Cはシーツをまとったまま起き上がり、誰にも見えないゴーストとなってMを見守り続ける毎日を送るのだが…
ゴーストストーリーなので、若干ホラー要素あるのかなと思いきや、そんなことは全くなく、気付かないうちに幽霊となってしまったCが自分が幽霊だなんて、と納得がいかないまま幽霊として暮らし始める、といった描写が淡々と描かれます。
自分が幽霊だと嫌でも自覚する
Cが死んだあと、妻Mは最初憔悴して取り乱すのですが、徐々に前を向いて新しい人生を歩もうとしていきます。それが生きなければいけない生身の人間の生きるスピードなのですが、もはや幽霊となってしまったCは過去にとらわれた者なので、生者の速さについていけてないんですね。自分が死んだことに呆然としている間に、彼女はMとの思い出のレコードを捨て、新しい男性と出会い、家を捨てていく。あっという間です。
そうしている間に、彼女と暮らした家に新しい住人が入居してくる。幽霊の体感時間だとうたた寝をしている間に人間の暮らしがどんどん進行していってしまう。「いや、俺死んだことにまだ全然気持ちの整理なんてついてないんだけど」と思ってる間に、思い出が残った家はスペインごを話すメキシコ移民?の母子の賑やかな笑い声で満ちていく。物思いからハッ、と我に返った時にはもう他者の暮らしが家を塗り替えて彩ってるわけですよ。親子の会話のスペイン語には字幕が付かない。観客の方も、観客の視点であるCも彼らが何言ってるのかわからない。けど、彼らの暮らしがきちんと成立して幸せそうだということだけはちゃんと伝わってくる。自分の家だったはずなのに、言葉も分からない家族が自分の存在にも気づかず楽しげに暮らしている、妻は俺を置いて行った。その疎外感ややりきれなさったらないです。「人間と同じ時間を過ごせない」というこれだけの描写で「もう自分は死んでしまって永久に人の輪に入ることができない」ということを否が応でも突きつけられてしまう。
ホラー映画ではないんですが、「もう自分は異形であって人ではないんだ」というのをこんな形で突きつけられることが悲しすぎて本当に泣けました。
この現実に耐えられず、幽霊のCは親子の団欒の前で大暴れして食器を割り、「俺はここにいる、ここは俺はいるんだと」声にならない声で叫ぶ。(幽霊の姿は見えないから完全にポスターガイスト状態)
幽霊は過去にとらわれている
作中に出てくる幽霊は一人ではありません。死んでから呆然としている間に、Cは向かいの家にも自分と同じようなシーツをまとった幽霊がいることに気付きます。幽霊は花柄のシーツを着ていて、どうやら女性らしい。誰を待っているかは忘れてしまったけど、ずっと誰かを待っているんだ、と言っている。彼女もまた生前の記憶にとらわれた「誰か」なんだと分かる。
Cは、妻のMが子供の頃に引っ越し先でちいさな手紙を家の中に残して自分の生きたあかしを残してきた、と話したことを思い出します。そういえばMは家を捨てる際の塗装工事で、この家に紙の切れ端を壁板の中に埋め込んでいたな、とCは思い出します。
それからずっと、本当だったら物質に手を触れられない幽霊の手で、なにかの祈りのように壁をこすって、その手紙を手に入れようと時間を費やす。この手紙さえ手に入れれば、何か変わるんじゃないかと期待をもって。
そんなこんなしているうちに、月日は流れ老朽化した家は取り壊されて、Cもお向かいの幽霊も倒壊した家の前で途方に暮れてしまいます。
人間は三度死ぬ 三度目は浄化の死
家の倒壊を見届けた花柄シーツの幽霊は「もう、戻ってこないみたい」と一言つぶやき、長年の執着から解放されたように、消えていきます。その消え方っていうのがすごく印象的で、シーツの中の中身が消えて、ただの一枚の布に戻ってしまうという描写。これを見ると、最初からシーツの中身は魂でも肉体でもなんでもなくて「死人をこの世につなぎとめてる何らかの執着」そのものだったんじゃないかと思いました。
家が倒壊してしまったので、妻が残した紙片ももう見当たりません。呆然としている間に、数か月、数十年の月日が経ってしまいます。幽霊の体感速度は人間と違うので、気持ちが追い付かない間に世の中が変貌していってしまう寂しさの中で戸惑うことしかできない……家の周りは工事現場になり、数十階建ての近代的なビルとなり、外は近未来の極彩色のネオンが輝いている。
それからまた、今度は幽霊の記憶は未来から過去へと飛んでいきます。まだ、あの家ができる前、アメリカ大陸にやってきた移民の家族が家の土台を作るために杭を打つ姿がある。よくわからないまま幽霊のCはあの家ができる前の土地を見詰めています。
その移民の家族の一人娘の姿を眺めることで時間をつぶすんですが、彼女もまた、妻Mと同じように自分の思い出を千切って石の裏に隠すのを見つける。その様子を見て、自分はまたあの妻の手紙を探さなきゃって思いに駆られるんですが、ふと目を離したすきに時間が流れ、移民の家族は皆殺しにされ、まだ綺麗だった少女の死体は瞬きする間に白骨化し、植物に覆われていく。少女が隠した紙片はもう誰も見つけることはないんだろうか。自分はどうしても妻が隠した紙をみつけたいのに…
「記憶」や「執着」そのものになった幽霊は時間を超えていくと示されるんです、あの紙片を探したいという一心を抱き続け、また10年がたち、100年が経ちます。そしてついに、この家を最初に訪れた自分自身と妻Mと再会を果たすのです。
そういえば、自分はこの家の「歴史」に惹かれてやってきた。引っ越したいという妻の願いを拒んでまで自分はこの家に愛着を感じていた。それはすべて、この家に宿る記憶、亡霊となった自分自身の気配に導かれたからではないか、と彼は気づきます。
生きたあかしとはなんだったのか?
この映画ではなんども「生きたあかし」の話が語られます。Cが幽霊になってから何年か後、ヒッピーっぽい若者たちがパーティを繰り広げるさなか、一人のインテリ風の男が「記憶と芸術」の話を始める。
なんで人は小説を書くのか、音楽を作るのか、それは自分が生きたという証を誰かの子心に残すため、温暖化で文明が終わっても神を唄ったベートーベンの第九の一節を覚えている者がいれば、それが人を潤す決定的な何かとして機能する。それが生きたあかしである、という話をする。
これは多分、死んでしまったCが音楽家だということと関係している描写で、彼が妻に残そうとした一つの「美しい歌」も、家を捨ててしまったMのなかにもしかしたら残っているのかもしれない、そういう淡い希望に繋がっていく話題だったと思います。
最後に、時空を二度越え、妻が残した紙片を手にしたCは何かを悟ったかのようにして消えていきます。長い年月を過ごしてぼろぼろになったシーツはぱたりと地に墜ちて、Cだった魂は空気の中に溶けていく。
妻の残した手紙のメッセージというのは、私はやっぱり彼が残した音楽のことだったのではないかと思います。彼女のために曲を作って聞かせたとき、妻の反応は微妙だったんですが、彼の死後、何度もその曲を聴いていた描写があります。あの歌は彼女のためにもので、彼の魂が宿った曲で、家を捨て新しい人生が始まっても、あの歌だけは今も彼女の中で鳴っているよと、そういうメッセージが書かれていたのではなかったのかと思います。それをしったとき、もう霊魂としてここにとどまる必要はなくなった。幽霊として残っていなくとも、意識が消えても、彼はあの歌の旋律と歌詞として永遠に彼女の中にとどまっているから。彼女が死んだあとだって彼の音楽が鳴っていた事実は消えない。それを知ることができたら、もう十分だから。もう地上から消えたって自分の歌は残り続ける。死後も自分の歌と記憶は生きていたという事実は永久に消えることはないから。
おまけ
ゴーストとなった後もかなり体格のいいマニエリスム絵画のキリストみたいな容姿のケイシー・アフレックがそのまんまケイシ―・アフレックだったのがすごいなと思いました。ガタイいいままの幽霊だし、ちゃんと中身が人間だっていうのが分かる…。
それとゴーストになったあとも影の当たり具合とか、目の穴が見える角度によってかなり喜怒哀楽が分かりやすくなってました。ゴーストになってからの方が感情表現が分かりやすいんじゃないかと思うくらい。
霊安室からシーツを被って起き上がる、という描写、主人公がキリストっぽい容姿というのもありますがすこし「キリストの埋葬」「キリストの復活」の表象を意識してるのかなと思いました。起き上がり方が「ラザロの復活」めいてる部分もありました。
主人公がCで、妻がMなのは、C=Christ M=Maria、なのかなぁと思いましたが、MとC"はMusic"からとってんのかもなぁと予想しています。