A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー 自分と出会いなおす死(ネタバレ)

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画像引用元 http://www.ags-movie.jp/

ホラー映画じゃない

ア・ゴースト・ストーリー見てきました。「幽霊の切ない記憶の旅」というコピーだけで見に行く価値があると思ったのですが、想像していたより遥かにスケールが大きく悲しいというより、すべてが腑に落ちて浄化されるようなカタルシスがありました。台詞が少ない分音楽で語る映画でもあり、そこは主人公が作曲家であるということとも密接にかかわっている演出だったと思います。

 

あらすじ

古い一軒家に住む作曲家Cと妻Mは二人で静かな暮らしを送っていたが、ある日Cが交通事故で不慮の死を遂げてしまう。彼の死に呆然としてMが霊安室を立ち去った後、Cはシーツをまとったまま起き上がり、誰にも見えないゴーストとなってMを見守り続ける毎日を送るのだが…

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ゴーストストーリーなので、若干ホラー要素あるのかなと思いきや、そんなことは全くなく、気付かないうちに幽霊となってしまったCが自分が幽霊だなんて、と納得がいかないまま幽霊として暮らし始める、といった描写が淡々と描かれます。

自分が幽霊だと嫌でも自覚する

Cが死んだあと、妻Mは最初憔悴して取り乱すのですが、徐々に前を向いて新しい人生を歩もうとしていきます。それが生きなければいけない生身の人間の生きるスピードなのですが、もはや幽霊となってしまったCは過去にとらわれた者なので、生者の速さについていけてないんですね。自分が死んだことに呆然としている間に、彼女はMとの思い出のレコードを捨て、新しい男性と出会い、家を捨てていく。あっという間です。

そうしている間に、彼女と暮らした家に新しい住人が入居してくる。幽霊の体感時間だとうたた寝をしている間に人間の暮らしがどんどん進行していってしまう。「いや、俺死んだことにまだ全然気持ちの整理なんてついてないんだけど」と思ってる間に、思い出が残った家はスペインごを話すメキシコ移民?の母子の賑やかな笑い声で満ちていく。物思いからハッ、と我に返った時にはもう他者の暮らしが家を塗り替えて彩ってるわけですよ。親子の会話のスペイン語には字幕が付かない。観客の方も、観客の視点であるCも彼らが何言ってるのかわからない。けど、彼らの暮らしがきちんと成立して幸せそうだということだけはちゃんと伝わってくる。自分の家だったはずなのに、言葉も分からない家族が自分の存在にも気づかず楽しげに暮らしている、妻は俺を置いて行った。その疎外感ややりきれなさったらないです。「人間と同じ時間を過ごせない」というこれだけの描写で「もう自分は死んでしまって永久に人の輪に入ることができない」ということを否が応でも突きつけられてしまう。

 ホラー映画ではないんですが、「もう自分は異形であって人ではないんだ」というのをこんな形で突きつけられることが悲しすぎて本当に泣けました。

この現実に耐えられず、幽霊のCは親子の団欒の前で大暴れして食器を割り、「俺はここにいる、ここは俺はいるんだと」声にならない声で叫ぶ。(幽霊の姿は見えないから完全にポスターガイスト状態)

幽霊は過去にとらわれている

作中に出てくる幽霊は一人ではありません。死んでから呆然としている間に、Cは向かいの家にも自分と同じようなシーツをまとった幽霊がいることに気付きます。幽霊は花柄のシーツを着ていて、どうやら女性らしい。誰を待っているかは忘れてしまったけど、ずっと誰かを待っているんだ、と言っている。彼女もまた生前の記憶にとらわれた「誰か」なんだと分かる。

Cは、妻のMが子供の頃に引っ越し先でちいさな手紙を家の中に残して自分の生きたあかしを残してきた、と話したことを思い出します。そういえばMは家を捨てる際の塗装工事で、この家に紙の切れ端を壁板の中に埋め込んでいたな、とCは思い出します。

それからずっと、本当だったら物質に手を触れられない幽霊の手で、なにかの祈りのように壁をこすって、その手紙を手に入れようと時間を費やす。この手紙さえ手に入れれば、何か変わるんじゃないかと期待をもって。

 そんなこんなしているうちに、月日は流れ老朽化した家は取り壊されて、Cもお向かいの幽霊も倒壊した家の前で途方に暮れてしまいます。

 

人間は三度死ぬ 三度目は浄化の死

家の倒壊を見届けた花柄シーツの幽霊は「もう、戻ってこないみたい」と一言つぶやき、長年の執着から解放されたように、消えていきます。その消え方っていうのがすごく印象的で、シーツの中の中身が消えて、ただの一枚の布に戻ってしまうという描写。これを見ると、最初からシーツの中身は魂でも肉体でもなんでもなくて「死人をこの世につなぎとめてる何らかの執着」そのものだったんじゃないかと思いました。

 家が倒壊してしまったので、妻が残した紙片ももう見当たりません。呆然としている間に、数か月、数十年の月日が経ってしまいます。幽霊の体感速度は人間と違うので、気持ちが追い付かない間に世の中が変貌していってしまう寂しさの中で戸惑うことしかできない……家の周りは工事現場になり、数十階建ての近代的なビルとなり、外は近未来の極彩色のネオンが輝いている。

それからまた、今度は幽霊の記憶は未来から過去へと飛んでいきます。まだ、あの家ができる前、アメリカ大陸にやってきた移民の家族が家の土台を作るために杭を打つ姿がある。よくわからないまま幽霊のCはあの家ができる前の土地を見詰めています。

その移民の家族の一人娘の姿を眺めることで時間をつぶすんですが、彼女もまた、妻Mと同じように自分の思い出を千切って石の裏に隠すのを見つける。その様子を見て、自分はまたあの妻の手紙を探さなきゃって思いに駆られるんですが、ふと目を離したすきに時間が流れ、移民の家族は皆殺しにされ、まだ綺麗だった少女の死体は瞬きする間に白骨化し、植物に覆われていく。少女が隠した紙片はもう誰も見つけることはないんだろうか。自分はどうしても妻が隠した紙をみつけたいのに…

「記憶」や「執着」そのものになった幽霊は時間を超えていくと示されるんです、あの紙片を探したいという一心を抱き続け、また10年がたち、100年が経ちます。そしてついに、この家を最初に訪れた自分自身と妻Mと再会を果たすのです。

そういえば、自分はこの家の「歴史」に惹かれてやってきた。引っ越したいという妻の願いを拒んでまで自分はこの家に愛着を感じていた。それはすべて、この家に宿る記憶、亡霊となった自分自身の気配に導かれたからではないか、と彼は気づきます。

生きたあかしとはなんだったのか?

この映画ではなんども「生きたあかし」の話が語られます。Cが幽霊になってから何年か後、ヒッピーっぽい若者たちがパーティを繰り広げるさなか、一人のインテリ風の男が「記憶と芸術」の話を始める。

なんで人は小説を書くのか、音楽を作るのか、それは自分が生きたという証を誰かの子心に残すため、温暖化で文明が終わっても神を唄ったベートーベンの第九の一節を覚えている者がいれば、それが人を潤す決定的な何かとして機能する。それが生きたあかしである、という話をする。

これは多分、死んでしまったCが音楽家だということと関係している描写で、彼が妻に残そうとした一つの「美しい歌」も、家を捨ててしまったMのなかにもしかしたら残っているのかもしれない、そういう淡い希望に繋がっていく話題だったと思います。

最後に、時空を二度越え、妻が残した紙片を手にしたCは何かを悟ったかのようにして消えていきます。長い年月を過ごしてぼろぼろになったシーツはぱたりと地に墜ちて、Cだった魂は空気の中に溶けていく。

妻の残した手紙のメッセージというのは、私はやっぱり彼が残した音楽のことだったのではないかと思います。彼女のために曲を作って聞かせたとき、妻の反応は微妙だったんですが、彼の死後、何度もその曲を聴いていた描写があります。あの歌は彼女のためにもので、彼の魂が宿った曲で、家を捨て新しい人生が始まっても、あの歌だけは今も彼女の中で鳴っているよと、そういうメッセージが書かれていたのではなかったのかと思います。それをしったとき、もう霊魂としてここにとどまる必要はなくなった。幽霊として残っていなくとも、意識が消えても、彼はあの歌の旋律と歌詞として永遠に彼女の中にとどまっているから。彼女が死んだあとだって彼の音楽が鳴っていた事実は消えない。それを知ることができたら、もう十分だから。もう地上から消えたって自分の歌は残り続ける。死後も自分の歌と記憶は生きていたという事実は永久に消えることはないから。

おまけ

ゴーストとなった後もかなり体格のいいマニエリスム絵画のキリストみたいな容姿のケイシー・アフレックがそのまんまケイシ―・アフレックだったのがすごいなと思いました。ガタイいいままの幽霊だし、ちゃんと中身が人間だっていうのが分かる…。

それとゴーストになったあとも影の当たり具合とか、目の穴が見える角度によってかなり喜怒哀楽が分かりやすくなってました。ゴーストになってからの方が感情表現が分かりやすいんじゃないかと思うくらい。

霊安室からシーツを被って起き上がる、という描写、主人公がキリストっぽい容姿というのもありますがすこし「キリストの埋葬」「キリストの復活」の表象を意識してるのかなと思いました。起き上がり方が「ラザロの復活」めいてる部分もありました。

主人公がCで、妻がMなのは、C=Christ M=Maria、なのかなぁと思いましたが、MとC"はMusic"からとってんのかもなぁと予想しています。

 

鹿島田真希『冥土めぐり』-理不尽の浅瀬で神と出会う

『冥土めぐり』は、主人公、奈津子の追憶をめぐり、その旅路の果てに「神」を見つける物語である。

 

             

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冥土の入り口

奈津子の人生は言いようのない「理不尽」の蓄積によって形作られていた。都落ちした上流家庭の出である奈津子には、現実を受け入れられないまま今に至り浪費を続ける母と弟がいる。彼らは「上流の生活」「高尚な趣味を持つ自分たち」という夢を見続けながら、長らく奈津子の生活と収入に寄生してきた。

 脳の発作による障害を抱えた純朴な夫、太一を介護しながらパートで生計を支える奈津子はある日ふと区の掲示板のに貼られたポスターを目にする。かつて幼いころの奈津子が両親、弟と4人で出かけた高級リゾートホテル、それが今、一泊五千円の区の保養地となってる。これは奈津子を「非常な歓喜と耐えがたい苦痛の矛盾に引き裂かれて恍惚とした」状態に導くものだった。

この一泊二日の保養地への旅が、奈津子が「あんな生活」と呼んでいた苦痛の源流へと導く。彼女と家族をめぐる追憶の旅が、彼女を苛んできた過去と言う地獄、あるいは冥土への入り口となった。

追憶の降下

「何かを語るには奈津子は疲れすぎていた」と言うように、固く閉じられていた追憶の入り口は、太一の一挙一動を介して徐々に開かれていく。

たとえばそれは「食事の場面」によって如実に描写されている。ホテルへ向かう移動の途中の昼食でマグロの切り身を黙って味わう太一の向こう側に浮かぶ、奈津子の家族との食事。ゆっくりと、ただ食べ物を味わう太一の食事を通し、食べ物でない別の何かを求めた家族との「上等な食事」の記憶を垣間見る。

自分たちは一流の人間で、一流の店を知っている。そう言い聞かせる、自分で自分を騙す詐欺師だった。

そこにあるのはただ自分達が上等であると誇示するためだけの醜悪な食事風景だ。「食すこと」はただそれだけのためではなく、虚栄をむさぼるための咀嚼と化していた。

太一と奈津子の家族はまるで噛み合わない地点にいる存在だった。

奈津子の母の中では男はただ搾取の対象であり、奈津子の祖父と父がそうして来たように、自分たちに金と優越感を与えてくれる存在でしかない。太一もいずれこの母と弟に誇りも金銭も奪われてしまうはずだった。しかし、太一はそんな母の思惑には気付かない。このすれ違いはなんだろうか。金をせしめる当てを失い、発作に倒れた太一を罵倒しに来た母を前にしても彼が奈津子の「あんな生活」に呑まれることはなかった。

人生でこんなにも理不尽に嫌われ、理不尽に愛されることがあるだろうか。少々の理不尽は誰にでもあるのだろう。だけど、こんなに理不尽を体験したまま、淡々と、生きていられるものだろうか。

 

淡々と、ただ自分の欲求にしたがって生きる太一は彼女が人生で出会った「異質な存在」であった。この「異質な存在」を伴って、奈津子は自分の過去の深層部に降下していくのである。

喪失の棲む場所

母の虚栄のよりどころであった、リゾートホテルはいまや鄙びた保養地と化している。

既に失われた栄光は影となって母の心に巣食い、果てのない呪いとなって娘の奈津子に襲い掛かる。もはや手に入らない過去を暴力的に求め続ける母と弟、その二人の狂った夢想に飲み込まれた奈津子は疲弊し打ち砕かれながらも、彼らの理解者であり続けなければならなかった。

本当につらいのは、死んだのに成仏できない幽霊とすごすことだ。もうとっくに希望も未来もないのに、そのことに気付けない人たちと長い時間を過ごすことなのだ。

奈津子はこのホテルで「喪失」と向かい合い、狂った亡霊たちの影が今だそこに遊ぶのを見た。彼女はここで過去という地獄に降りていったが、それは同時にこれまで努めて目を逸らしてきた、どうにもならない現実の傷口でもあったのだ。

旅の終わりに二人が訪れた美術館、ここにおいて、奈津子の追憶と現在が絵画の上で重なり合い一つの画面となって一致する。

幸せな食事の風景は記憶の中にある冒涜の思い出と重なり、父の死によって崩壊した家族の時間は静止した歯車の絵が重なりあって目の前を通り過ぎていく。

追憶が額縁の中に納まり、奈津子の体から離れていく。ただそこにある現実、かつてあった事象として、奈津子は彼女のうちにあった地獄と対峙したのである。

奈津子を苛んできた「あんな生活」の源流、過去への追憶は「理不尽」への恐怖によって閉ざされていた。奈津子ははじめ、彼女の人生にとって「異質な存在」だった太一を「理不尽そのもの」として捉えていた。しかし旅の終わりに、太一は理不尽に深く接しながらも、それとは一線を画す存在であると気付くのである。

奈津子の人生を取り巻いていたのは父の死を発端にした理不尽の渦だった。

母親は、父親も医者も、許せない。自分が受けた仕打ちと不公平が、いかに悲惨で不幸なものか、何とかして伝えたい。しかしその悲劇について表現しうる、持っている言葉が、この、わあわあ、なのだった。

このエピソードは永久にわあわあ、で締めくくられ、このエピソードから引き出される教訓は何もない。

この「わあわあ」と言う言葉が母、そして弟の持つ全てであり、誰でも良いから私を哀れんで、私には何も責任はない、だからあなたは私を助ける義務がある、逃げることは許さない、という無尽蔵の暴力の源なのだ。この暴力的な理不尽を、奈津子の家族は死ぬまで再生産し続ける。恨みと渇望が荒れ狂う渦の中にとらわれた奈津子は家族と一心同体となって生きる事を強いられた。自分の人生と家族の夢想との境界を失ったまま「あんな生活」という理不尽の澱みに飲まれていたのだ。

小さい頃は、お母さんたちが言うよかった頃に戻れると思っていた。だけどこの落ちぶれたホテルに来たら、もう元に戻れないと知ると思ったから、今までここに来れなかったの。

この言葉は、彼女の心が「あんな生活」と同化してしまっていた事を示している。理不尽の暴力の中、成仏できない幽霊の禍根というべき家族の願望を心に宿したまま生きていた奈津子は、この旅を通じ、喪失と向き合う事を果たした。喪失を一枚の絵の様に、すでに通り過ぎた事象の一つとして捉えることが出来たのである。

理不尽の海で

もう戻れない喪失の詰まったホテル、それを取り巻く恐ろしい海は奈津子が恐怖する理不尽の象徴であるのだろう。寄せては返し、絶え間なく不明瞭な事象を運んでくる「海」。

「永遠に繰り返される様に押し寄せる波」は人生そのものだ。世界は理不尽で恐ろしい。気を張り詰めて生きていても、常識に尽くしても、いつどこで気まぐれのように自分の心が犯されるのか分からない。既に体は理不尽の海に浸かり切っていて、身動きなど取れないのだ。

しかし太一は海を怖がらない。太一は奈津子の家族のように、理不尽の渦の中で荒れ狂うこともなければ、それに怯えて前後不覚に陥ることもない。太一にとって押し寄せる波も、理不尽も、すべて「満ち引き」でしかない。

理不尽の海の中で息ができなくても、押し寄せる波に流され苦しみにもだえる時もあれば、理不尽の海の浅瀬で風を感じることが出来る時もある。海のことは良く知っていると言う太一は理不尽について考えない。ただ、海の満ち引きの前に体を投げ出し安らかに眠りこけるだけなのだ。

 彼女にとって夫、太一は「神」と言うべき存在であったのかもしれない。鹿島田真希の作品において繰り返し描かれる、常識を変革する「聖なる愚か者」。それは愚かと蔑まされる生き方ゆえに神聖を持ちえる人間として表わされる、愛おしいが愚かで、損ばかりしている、現代においても受難を背負って生きる人々だ。

奈津子にとっては太一こそが神の似姿としての「聖なる愚か者」であったのだろう。

この人は特別な人なんだ。奈津子は太一を見て思った。今まで見ることのなかった、生まれて始めて見た、特別な人間

ただとても大切なものを拾ったことだけはわかる。それは一時のあずかりものであり、時が来ればまた返すものなのだ。

人の子として地上に下り、また天へ還って行った神の子の様に「あずかりもの」として奈津子の下に現れた恩寵が太一その人であり、突如襲った脳の発作と言う理不尽も、奈津子と太一にとっては祝福として機能した。

なぜ、奈津子は今まで死なずに生きてきたのか、それは太一という彼女にとっての神となる人に出会うためだったのだろう。地獄と向き合い、自身のうちに棲む亡霊を直視したこの旅を通じ、奈津子は自分のすぐ隣にいる神と出会ったのだ。

奈津子だけではなく、私たちも、いつか、自分にとっての神と出会う日が来るかもしれない。身近に生きるあなたこそが私にとっての神、と気付く瞬間が訪れるのかもしれない。あるいは自分自身がすでに誰かのにとっての神となっているのかもしれない。何故死なずに今も生きるのか、これ以上の答えはあるのだろうか。

人生と言う理不尽の海に顔まで浸かっていても、息継ぎが出来る瞬間はある、そして、潮が引いた時には砂浜を「あなた」と共に歩くことも出来る、そう気付けた時、私たちはきっと自分にとっての神、「あなた」と出会っているのだろう。

 

映画感想「希求としての家族」― 園子温『紀子の食卓』

 背中を走る不快感、顔が引きつる様な違和感が、この「食卓を囲む家族」という形から発している。だか、この偽りの食卓の中には、彼らの見出した願いが嘘の役割を通じて語られる。「紀子の食卓」、この4人の囲む食卓には何層にも重ねられた嘘に、それぞれの希求する真実が織り交ぜられていた。

 

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紀子の食卓 予告 - YouTube

違和感の正体

紀子の食卓」で一番不安感と不快感を募る原因となるのは、俳優たちの「素人くさいモノローグ」かもしれない。

ノローグだけではなく、その挨拶の一言、喜怒哀楽の表情ですらどこか腑に落ちないよそよそしさがある。通常私たちが、「完成された役者の演技」をとおして感情移入するための、その余地が見当たらないのだ。

この映画の中でもっとも「違和感ない」演技をしていた、と感じられたのは徹三を演じる光石研だったが、これはこういう風に言い換える事が可能ではないか。

「はじめから一番違和感なく《父》の演技をしていたのは、徹三だったのだ」

あるいは、

「家族という《演技》に何の疑問を持っていなかったのは、徹三だけだった」

という風に 。

レンタル家族・真実の《役割》

  紀子とユカがかつての日常で交わしていた会話と、レンタル家族として役を演じている時の会話に、私は明確な差異を感じなかった。

 

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長女紀子役:紀子(吹石一恵)         次女ユカ役:ユカ(吉高由里子)

実の母親を名乗る女に「母親の演技がなっていない!」と叱り飛ばすクミコも、このような「演技の白々しさ」から免れてはいない。日常の家族とレンタル家族、そこに明確な差異はないのかもしれない。「父」徹三を除いては…。

レンタル家族業者の元締めであるクミコは、自分の演技の不完全さに気付いている。「決壊ダムさん」と呼ばれた彼女のかつての同僚は《家を出て行った妻》役を全うし、《夫》である顧客の男に刺され生き絶えた。クミコもまた、自身にあたえられた役を演じ切り、その役に殉じた彼女の様な「高み」へと昇りたいと考える。

「決壊ダムさん」の死因はナイフによる刺殺。紀子とユカの母、妙子は二人の娘の失踪から心を病み、ナイフで胸を刺し自殺する。「決壊ダムさん」はレンタル家族の役としての《妻》を演じ、妙子は本当の家族の中の《妻》である。

 この《妻》である二人は、共にただ忠実に完璧なまでに「与えられた役割」に殉じ、己の役割を完遂した「高みに上った」存在であるという点で共通しているのかもしれない。クミコが望むのは、否応なく与えられた役割を《自分の真実の役》として完遂することなのだ。

形だけの真実・形を凌駕しようとする偽り

 そして、妙子が自殺に使ったナイフをポケットに忍ばせ、偽りの「ホームパーティ」に向けて二人の娘を「レンタル」し、家族の再生を計ろうとするのが《父》徹三である。

この徹三の《妻》であり二人の《母》役を務めるのがクミコとなる。

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父徹三役:徹三(光石研)

徹三「見せつけてやる、これがパーティーだ。これこそがホームパーティだ」

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母妙子役:クミコ(つぐみ)

クミコ「たとえ彼女が私の本当の母親だとしても、私の前で母親を演じられなかった素人の俳優にすぎない。素人の俳優に、母親役なんてまかせらきれない。私の方が完璧に演じきれる。」

 各人の一つ一つの願望を丹念に見ていくと、この「ホームパーティ」は、真実の《父》、徹三と、真実より優れた《母》役を目指すクミコの、二人の存在を掛けた戦いの場であるという事が浮かび上がる。

 当然のように訪れる狂乱、徹三の手に握られたのは《妻》妙子が自殺に用いたナイフ、「決壊ダムさん」と同じく刺殺によって息絶えた男たちの死体がその場に残った。全てが終わったように思われたが、ここで、真実の《家族》を取り戻そうとする徹三と、真実より真実の《家族》へと近づこうとするクミコの志向が、本当の・偽の、という枠組みを超えて、完全な相似の願望として一致する。

 偽りの「ホームパーティ」は偽りを越えて、再開される。ここには、本当の家族・レンタル家族といった区別はすでになくなっている。4人それぞれが、それぞれの《役割》を完遂する場としてこの「ホームパーティ」が機能し、救済へと彼らを導いているのだ。

あなたはあなたの関係者ですか?

「あなたはあなたの関係者ですか?」 繰り返し問われるこの問いに答える完璧な回答は見当たらない。しかしこの問いの中に確実に含まれていると思われる、 「あなたは《誰の》関係者ですか?」 という問いに、この4人は「ホームパーティ」《家族》の食卓によって一つの答えを示していた。

 「誰か」の関係者であるということ、それは心の底から生じた希求によって示されるものなのだ。彼らの関係者、つまり、《家族》たらんとする強く真に迫った想いによって。徹三の血縁者としての「関係」が無効力であったのと同じように、他人、レンタル家族としてのクミコの「無関係」さも、ここでは何の意味をなさない。ここで彼らはそれぞれ紛うことなき彼らの「関係者」になったのである。

あなたの関係者、《家族》となりたい

 「食卓を囲む」というのは家族が家族であることの象徴である。徹三は作中、レンタル家族となった娘たちが囲む食卓を、「白々しい」と嫌悪を示した。この様に「食卓を囲む」ことで、それだけで他人が《家族》になって堪るか、と。しかし、徹三は気付いてはいなかった、紀子が家で過ごしていたころ、この様に「食卓を囲む」だけで、なぜ《家族》という名の誰かが自分の「関係者」になるのだろうかと、そのような疑問を抱いていたことに。

 レンタル、本当の、偽の、血のつながった、演技の、というあらゆる形容を越えて、4人にはここで《家族》となり、食卓を囲んだ。ただ一度、家族という名の《関係者》になったのである。 この後4人が選ぶ道がそれぞれ異なることは最後に示されているが、それが「再生」への道のりであるならば、それは 「あなたは《誰の》関係者ですか?」 という問題にたいする回答を足場にした出発であるだろう。

 あなたは、私は、誰で、誰の関係者になるのか、それは 「あなたはあなたの関係者ですか?」 という問いに立ち向かうために求める答えであるのかもしれない。

 

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自殺サークル 完全版 (河出文庫)

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「体温のある死」―読書感想文・小川洋子『冷めない紅茶』

 小川洋子の中編小説『冷めない紅茶』とは、不可思議な死と言う概念を日常から隔てる事なく、分けがたい人間の営みの一つとして捉え、抜き出した物語である。

  死とは、隠しておきたいもの、風化していくもの、あるいは忌まわしいものとして、私たちの日常からは排除される。死は、体温を失った身体、亡骸、灰、または冷たく味気ない墓石の手触りとして、日常とは別の領域にあるものとして認識される。

 この物語の主人公「わたし」は、自分の持つ当たり前の日常よりも、これら「死」の方面により親近感を感じている。その予兆は幼少時代に体験した、熱帯魚の死、祖父の死など、身近な死のエピソードから読み取ることが出来る。

わたしたちはそれを、いつも庭の南天の木の下に葬った。季節によって南天は、白く慎ましい花をつけていることもあったし、固くて赤い実をつけていることもあった。わたしがスコップで穴を掘って、弟が熱帯魚をその中に横たえた。土をかける時が一番切なくなる瞬間だった。滑らかでみずみずしい背びれや腹えらやらに、黒ずんだ土が降りかかるのを見るのは、少し悲しかった

 

説明している間に、おじいさんの死が生暖かい液体になって、わたしの中にしみこんでくるような気がした。自分の気持ちがびしょ濡れになってゆくのが分かった。

「え、あんたの所のおじいさん死んだのかい?どうしてそれを早く言わないのさ」

そんなふうにわたしを責めながら、彼女は後ろの棚からアルコールの瓶を取り出した。(中略)掌の中で済んだ液体がゆっくりと揺らめいていた。おばあさんの太ったあごや、人体解剖図や、脳の立体模型や、黄ばんだカーテンに囲まれて、わたしはしばらくじっと立っていた。掌の中の揺らめきを、哀しい気持ちで味わっていた。

始まりの冷たい夜

 中学校の同級生の死をきっかけにして「死」について改めて考え始めた「わたし」が、彼の葬儀で再会したのが、同じく同級生の一人、K君である。冷たい夜に、突如日常に入り込んできた「死」をきっかけにして、当時さほど親交の無かったK君との間にささやかな交流が始まる。K君の家で、かつて中学校の図書館司書だったという美しい妻、「彼女」を紹介されるが、この二人の夫婦の「完璧」とも言える関係性に「わたし」は次第に魅了されていく。

K君の家から帰って来た時、わたしは時間の感覚をなくしていた。確かに暗くはなっていたので、夜が近いことは分かった。しかしそれ以上のことは、何も考えられなかった。(中略)

それだけ、その日の午後は長かったのだと思う。K君と彼女と三人で過ごしたひとときの感覚が、いつまでもくっきりと残っていて、胸苦しいほどさ。時間の幕に閉じ込められたかのような気分だった。

 「わたし」は二人の間にある完全さに触れるにつれ、自分の日常の中にある不具合さについて、頻繁に自覚するようになる。

当たり前にすませてきた日常の不格好さ、普段ならすぐ忘れてしまうような生活の粗雑さが、「わたし」を不快にさせる。

同棲している男、「サトウ」との間にある感覚について、

サトウのいない夜は、どこか不完全な感じが漂っている。その不完全さは、淋しとか恋しいとか、何かを追い求めるような気持ちとは全く違って、ただの単純なあるがままの不完全さだ。辞書から抜け出たかのような冷静さで、漂っている。 

と「わたし」が言っている様に、彼女が日ごろ感じている日常への不信は、K君と元司書の「彼女」の間にあるこの上ない充足感と比較されるうちにますます募り、K君の家を訪れたいという想いに歯止めが利かなくなっていく。

風化しない死

 A君と「彼女」が「死の領域」の人々であることは明言こそされていないが、作中の印象的な各場面において仄めかされている。

 全焼した中学校の図書館で死んだ誰か、部活動中の校庭の中、誰にも注意を払われる事なく、寄り添いながら淡々と歩き続けるK君と「彼女」、その二人を包む非現実的なほど美しい黄金色の夕暮れ、「わたし」の空想の中で、「喪服のような学生服」を着て、司書の「彼女」と永遠の時を過ごすK君の姿…。

「木造の図書館が焼けたんだから、それはそれはものすごい火事だったらしいわね。火花の中を、無数の紙きれが赤い蝶々みたいにゆらゆら舞ってたんですって。一人か二人、死者も出たくらいですからね。」

その一人や二人、というのは一体誰なのか。「死者」と言う言葉に感じた違和感はなんだったのか。

何かが歪んでいるような気がした。時間や空気や距離や、そんな目に見えない何かがどこかでねじれていた。しかしわたしにはどうしようもできなかった。わたしは私自身、そのねじれの渦にはまりこんでいった。

 帰路、「わたし」がひとり闇に溶けていく様子は、「わたし」自身が死の世界に限りなく接近してしまった事を表わしているのではないか。

 懐かしいと思う事、失われた過去へのこらえがたい羨望が「私」を包み込む。

一緒にいる楽しさよりも、いないつらさでその人の大切さが胸にしみる時、わたしはその人を特別に愛することができる。 

 小川洋子の初期の中編『薬指の標本』あるいは長編の『沈黙博物館』においては、失われたものへ対する偏愛を抱く主人公たちが描かれる。

  彼らは自ら自分の日常を越え、彼岸の領域へと足を踏み入れていく。『冷めない紅茶』の「わたし」もまた同じ様に、自ら引き寄せた彼岸の境界を越え、完全なる闇へと溶けていくのだ。

冷めない紅茶

私は自分を引き戻すように、紅茶の最後の一口を飲み干した。それは、燃えるように熱かった。ブロンズの液体が震え、身体の真ん中を突き抜けて行った。

「この紅茶、全然冷めてないわ」

 

(K君が紅茶を淹れてくれてからもう随分たつのに、どうして全然冷めていないのだろう )

 冷めない紅茶、それはおそらく「死の温度」なのだろう。K君と「彼女」の完全さは、死の領域にある不可侵の充溢なのだ。この物語において、死とは風化するものではない。火事で焼失した図書館と彼ら二人の存在は、現在進行で灼熱の温度を持って、現世に存在し続けている。ここで表わされた「死」は決して現世の日常と断絶された概念ではない。カップに満たされた紅茶の色は、骨を燃やす炎の色であり、燃える様な熱い紅茶の湯気は、図書館を焼いた焔の揺らめきなのかもしれない。

 日常に混入された「死の温度」に触れ、完全な世界に足を踏み入れた「わたし」。私たちはそれを、煩雑で不完全な世界から、ただ見送ることしかできない。パーツの不揃いな、不純物ばかりの日常に留まり続けることは、私たち生者に与えられた宿命でもあるのだから。

 

「私とあなたの境界はどこにある?」―読書感想文・梨木香歩『沼地のある森を抜けて』

 先祖伝来のぬか床にまつわる、摩訶不思議な存在の物語、と言うと、ささやかな心温まる内容を想像するかもしれないが、この『沼地にある森を抜けて』は、酷く内面的なテーマを扱っていながら、途方もない広大さを持つ物語である。

沼地のある森を抜けて (新潮文庫)

沼地のある森を抜けて (新潮文庫)

 

 自己言及と、自分の意思を越えた大きな流れは決して無関係なのではなく、内側から外の世界を凌駕してしていくのだ、と考えられるほどに。

 自分が女であることに対して不確かな気負いを感じているラボの研究員、久美は、叔母時子の死後、家に代々伝わるという「ぬか床」を託される。毎日儀式のようにその「ぬか床」をかき混ぜているうちに、その中から人間の形をした、「沼の人」と呼ばれる異形の人々が現れるようになる。

克服できぬ確執

 繰り返し描かれるのは、久美の家系に姿を変え形を変えながら幾度も絡みつく「確執」ともいうべき「何か」である。この確執は、ある特定の事象をさすのでなはく、深い痛みを伴なう、抗いようのないしがらみとして、立ち現われてくる。

 主人公の久美は、彼女を取り巻く確執の痛みを受け継ぎ、体感する役割を持っている。それは梨木香歩のデビュー作『裏庭』において、祖母、母から傷を受け継いだ主人公、照美が請け負ったものとも通じる。『裏庭』の照美と『沼地のある森を抜けて』の久美はそれぞれの物語において、自分たちを縛っている確執の正体を知らないまま、その傷の痛みを癒す術を探し求めてゆくのだ。

裏庭 (新潮文庫)

裏庭 (新潮文庫)

 

 かつてぬか床の持ち主であった時子叔母も、この不明瞭な確執に絡め取られた一人である。この確執は、ぬか床を巡る家のしがらみだけではなく、婚約者の男、山上が持つ利己的な本能、という二つの糸から成っている。

 自分の遺伝子が、問題のある遺伝子(!)とシャッフリングされるのはいやだ、と言うのは、いかにも遺伝子第一主義者の、考えそうなことではないか。そして無意識のうちに、ほとんどの人間はこの、「遺伝子第一主義」のために、個、人、を犠牲にしているのかもしれない。

時子叔母は、群れ、というより、他者の幸せをおもんかばっているのだ。それに比べて山上は、自分イコール遺伝子、なのだ。

 時子叔母は、心に絡みつく山上の遺伝子第一主義ともいえるナルシズムから逃れることが出来ず、ぬか床の見せる呪縛によって命を落としてしまう。

○月○日

卵にひびが入った。中から、泣き声が聞こえる。男の人だ。信じられない事だが、たぶん、いえ、きっと、山上さんだ。彼は数年前癌で亡くなった。あの、自信たっぷりの山上さんがなぜ泣くのか。しかも、こんな女々しい声で。

  ぬか床の持ち主には、その者の確執の因子と呼ぶべき「何か」が形を伴なってやってくる。そのすべてが、ぬか床から生まれた存在である。

 久美の元に現れた確執の因子は、粘着質で意地が悪くそれでいて哀れを感じされる顔の無い女、「カサンドラ」。彼女の眼は顔にはなく、空をとび、洗面台の壁に張り付いて久美をいやらしく見張っている。「旧時代の女」の陰の部分を体現したかのようなカサンドラの発する言葉は、久美の持っている無意識の傷を無遠慮にえぐり出す。

――やっぱり、子供も産まずに朽ちていく身体だね。いったとおりだ。

――思い出した、あんたはこういったのよ。おまえのような不細工な娘は、結婚も出来なければ子供も産めるわけがない。それなのにそうやって体は妊娠の準備をする、って嗤ったんだ。 

  久美、時子叔母の持つぬか床を通じた奇妙な縁で結ばれたのが、酵母研究を生業とする「フェミンに過ぎない男」風間さんだ。

 家長制度のナルシズムに嫌気がさし「男であることを意識的にやめ」、「無性であることを選んだ」という風間さんの生き方には多少の疑問が残るものの、とても魅力的だと考える久美だが、この物語においてこの「無性」と言う選択はあくまで提案、あるいはせき止められない大きな流れに対する無力な抗議として扱われているように思える。

 白銀の草原で起こる幕間劇

 隔絶された「シマ」無数に存在する「叔母」たちと、同じく無数の存在としての「僕」たち。ぬか床を成す酵素のように、風間さんが傾倒する粘菌のように、同一個体としての複数の身体を持ち、それによって成り立つ「シマ」のシステム。この別の時空の物語は、ぬか床の故郷であり、久美たちの祖先が生きた古い島の集落との相似でもある。少年の姿をした水門の番人「ロックキーパー」が長い間守ってきたという安全圏のシステムを破り、破滅のリスクを伴いながら「恋」と言う大いなる目的を求めた「僕」。この「僕」に、「ロックキーパー」は彼が持つ真の名を教える。

これが僕たちの、すくなくとも僕の望んだ確実さだったのだろうか。しかし、抗いようのないこの流れの強大さこそ、「確実」そのもののように思えた。

  扉をあけ放ち、内部から漏れ出し、境界線を侵し、融合すること。それは生命を賭した進化への道筋であるのだろう。しかし、この事実と時子叔母の持つ、個として他者を労わろうとする想いや、風間さんの拒む家長制のナルシズムの確執は完全には解消されない。それは棘として残り続ける。大いなる流れの中では、この棘など、些細なしがらみに過ぎないのだろうか?

膜・ウォール・他者と自分

自己規定、膜、壁、ウォール、それは内と外を隔て、内と外を作る自己と他者を作る。外界と内界をつくる。

 ナルシズムも、生を固定化することも、無性を標榜することも、全てが「膜」をつくることになるのだろうか。自己規定と言う膜の中を生きる私たちが防壁を捨て去る時、新しい価値を持つ可能性が生まれる。

 久美が太古の植物と夢想した「弧」は、大いなる孤独の種子であり、ウォールに囲まれた「個」と結びつく事で芽吹く。個を捨てよ、というのは正しくない。「孤独」と「個別」はこの物語において常に表裏一体で不可分であり、善悪で推し量れるシステムではないのだ。「個別性」それ自体が完成された形態ではなく、「孤独」によって衝き動かされた「恋」と呼ぶべき無謀な生命活動が、やがて「個別」の膜を破り、自己と他者の境界線を失くす。

 背負わされた確執、遺伝子と自由意志、それらを広大なマクロの問題として捉えたとしても、個を維持するための私たちの苦しみ、不可避な不条理は解消されるものではない。巨視的に見た場合、私たちの傷の痛みは決して無駄ではない必然なのだ、と提言されても、この超越の全てを受け入れることなどはできないし、その必要もないのだろう。その答えは、物語の冒頭においてすでに示されていたこの言葉に集約されるだろう。

私、本当いうと、わからないの。

こんな酷い世の中に、新しい命が生まれること。

それが本当にいいことなのかどうか。

 それが「本当にいいこと」なのか、それは誰にもわからない、有限の生を持つ一つの個体である私たちには決して「わからない」ことなのだ。

 「わからない」とは、決して不誠実な態度ではない。示されているのは、確執と超越の隔たりを埋める「解決」ではなく、風間さんが望んだような「克服」でもない。長考の末の答えの「保留」こそが、この物語によって提示できる、もっとも真摯な解答であるのだろう。

 

モノノ怪『のっぺらぼう』考察おまけ「夢幻の庭の花」

 「のっぺらぼう」の冒頭と終幕に現れるこの障子の図像は、どこか不気味で、一つ目の化け物のようにも見えます。

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この図像は「海坊主」の図像でも検証しましたが

 

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 「海坊主」の壁画と「のっぺらぼう」の絵t比べると、薔薇の花のあった部分に、女の赤い着物の様な布が描かれてると言う違いが見て取れます。

女の着物から顔を覗かせた、いびつな形をした一つ目の化け物、これは青白い顔に、赤い服を着た女「お蝶」に憑りついた、顔のないモノノ怪「のっぺらぼう」だと考えられます。

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表現主義 Expressionism 

 「のっぺらぼう」の背景等は表現主義をイメージしてデザインされたと言われています。*1

「のっぺらぼう」の作中において表現主義的、という分類が考えられる図像としてはまず、回想の梅の木の場面です。

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極度にビビットな梅の木と背景の配色は、ゴッホ歌川広重

「名所江戸百景・亀戸梅屋舗」を模して描いた「梅の花」を連想させます。

ゴッホは分類上はポスト印象主義の画家ですが、その感情的表現を強く表わした色彩感覚から、表現主義の画家として位置づけられることもあります。

 

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右 「名所江戸百景・亀戸梅屋舗」 歌川広重 大判錦絵 安政四年 1857年

左 「梅の花」ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ 油彩 カンヴァス 1887年

また、お蝶の内面の恐慌を表現する際に現れたこれらの場面ですが、

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原色の背景がいくつもの直線で別れた色彩の部分から成り立っており、これは抽象主義のドローネーの絵画の画面構成、あるいはその色調からして、ドイツ表現主義のフランツ・マルクの作品などの作風を参考にしているのでは、と感じました。

 

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『同時的な開いた窓(第一部、第2モティーフ)』ロベール・ドローネー  1912  油彩 56 x 46 cm グッゲンハイム美術館  ニューヨーク

右『風景の中の動物』 フランツ・マルク 油彩 1914 110.17 cm x 99.69 cmデトロイト美術館、デトロイト

  ドローネー、マルクは同じ時代を生きた画家であり、両者ともポスト印象主義キュビズムの影響を色濃く受けていました。画面を色彩によって分割する手法はそれぞれの表現方法でしたが、マルクの表現はより具象的、感情的な方向へと向かいました。マルクらドイツ表現主義の画家グループ「青騎士」がミュンヘンで開催した第1回「青騎士展」(1911年)にはドローネーも作品を出品しました。

表現主義、という区分は大まかで完全に特定できないほどの範囲にわたる形式の美術であり、概念から見れば近代~現代美術だけに当てはまるものではありません。

 広義には、グリューネバルト、アルトドルファー、デューラーなどのドイツ・ルネサンス絵画、あるいはゴッホムンクらの近代絵画に至るまで、非自然主義的な描写によって、内面的な感情表出や主観的な意識過程を外的な世界観の歪みによって強調するような芸術の傾向のこと。

 

また、表現主義、と言う用語に関しては

 時代的には、それ以前の印象派やポスト印象派とは逆の語義(Impressionismに対するExpressionism)を持つことが意識されていたことになる。

 

 とあります。

Impression(印象)ではなくExpression(表現)、外界の自然を印象として画面に落とし込むのではなく、内側の感情を外側の世界にある画面に表現する、この様に印象主義に対立する形として「表現主義」という名付けがされたのです。

内面的・主観的な感情表現に重点をおいた美術が、「のっぺらぼう」のイメージであるという事、それはどういう意味を持つのでしょうか。

夢幻の庭

 「のっぺらぼう」の中で繰り返し現れた、夢の様な淡い色調の庭。

梅の木も、ここでは青、赤、黄と原色が混ざった、現実にはありえない色をした枝を広げ、点々と花を咲かせています。

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この色調は、抽象表現主義の旗手、カンディンスキーの「インプレッション」 
インプロヴィゼーション」シリーズに近いのではないのかと感じます。特にこの、「愛の庭Ⅱ」と副題のついた『インプレッション27』を連想します。

 

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 ワシリー・カンディンスキー『インプレッション27(愛の庭Ⅱ)』, 1912, 油彩、120.3 x 140.3 cm メトロポリタン美術館 ニューヨーク 

「のっぺらぼう」でお蝶が繋がれていた牢、嫁ぎ先の勝手場、お蝶の実家の部屋は、全てお蝶が「心の牢」とした内面世界である、という考察は前回の「のっぺらぼう」考察で提示しました。

では、お蝶と狐面の男が逃避行をした、あの淡い夢の様な梅の庭はどこなのでしょう。

薬売りが牢の中で狐面の男と遭遇した時、

「構いません、心の音の優しいモノノ怪もいるはずですから」

と言う言葉をお蝶が口にした途端、

「聞いたか、夢幻の摂理は我にあり!」

と、言った狐面の男によって、薬売りは顔を奪われてしまいます。

夢幻の摂理、とは、あの世界が全てお蝶の記憶から作られた世界であり、全てゆめまぼろしから構成されていたことを暗に示していたのではないでしょうか。お蝶が信じた真によって、あの世界の力関係は変わり、そのために牢では薬売りは劣勢に、母親の登場でお蝶の心が乱れた時には、薬売りが優劣となったのです。

あの淡い梅の庭も、すべて彼女の心の牢の一部であり、内面世界を映した心象風景だったのです。薬売りが牢の中で取り出した天秤ですが、その天秤の音はあの梅の庭でも、彼女の婚礼の部屋でも聞こえてきます。薬売りの顔を奪い、牢から抜け出し、梅の庭へと逃避行へ繰り出したお蝶と狐面の男ですが、場面が入れ替わろうと、それはすべてが同じ、牢の中の出来事だったのです。

 「のっぺらぼう」のどこからどこまでが現実世界で、どこからどこまでがお蝶の内面世界であるのか、それは見る人によって解釈が変わってくるのだと思います。

一つの見方ですが、何度も現れる勝手場で食器を落とす場面、婚礼、母とのつらい稽古の場面は、全てお蝶の過去の回想であり、「のっぺらぼう」は冒頭の牢獄での対面から終幕の「誰も…いない」、という薬売りの場面まで、すべてがお蝶の内面世界の話であったと私は思います。

ayakashiの『化猫』から、『座敷童子』、『海坊主』のそれぞれが、「外からやって来た薬売りが、モノノ怪の形を見定め、真と理を明らかにする」形式でしたが、「のっぺらぼう」では、最後までモノノ怪の形を見定めることが出来ませんでした。それは、「のっぺらぼう」がおもてを失くしたモノノ怪であったからですが、全てが内面で起きた出来事であり、その内面の真と理すら偽装したお蝶に対しては、いつもとは逆の手順で、モノノ怪に対し真と理を自覚させることでしか形を暴けなかったのです。

「実に、面倒くさい、モノノ怪だ」

とは、回りくどい手順を踏まなければ形を暴けない「のっぺらぼう」を揶揄したのでしょう。

そして、「のっぺらぼう」では部外者として、薬売りが「外からやってくる」部分が省かれたまま、物語が始まっているのだと考えられます。

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おそらく、薬売りは現実世界でモノノ怪に憑かれたお蝶を見つけ、その内面世界に接触を試みた結果、あの冒頭の牢に辿り着いたのでしょう。

これまでの物語で用いられていた、モノノ怪の持つ内面の真理を、非現実的な画面の描写によって外側に伝える、という手法とは逆に、表現主義的なイメージを意識した、という「のっぺらぼう」の背景画では、Expressionism、と言う様に、お蝶の内面的・主観から背景その他のイメージを構成し、お蝶の主観によって「現実」が規定され、物語世界の最初から最後までを覆っていたのです。

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「のっぺらぼう」の作った因果を断ち切られ、お蝶の魂が自由になった、というのは「鶯が飛んだ」と言う象徴によって示されましたが、「外の世界」のお蝶はどうなったのか、それを知るすべはありません。ただ、最後の場面に現れた「外側」の世界のの空は、お蝶がずっと見続けていた空と、同じ空です。

現実世界に戻ってきたお蝶が、そこでどうしたのかは作中で示されていませんが、「牢から見ているだけでよかった空」を「外から見ている」と見れる最後の描写は、モノノ怪を斬った事で、彼女の中で「ここから出たい」という変化が確か生じたと解釈するに足るのではないでしょうか。

あの大立ち回りも、お蝶の一生の寸劇も、全てがお蝶の内面世界の出来事であり、モノノ怪を斬った事で起きたお蝶の現実の変化というのは、実際には些細なものであったのかもしれません。しかし、人の内面世界で生まれる情念はモノノ怪を成すほどに強いものであり、お蝶のみならず、そこは淡く美しい庭での逢瀬や、攻撃的な色彩で彩られる凶行などが絶えず行われている場所なのでしょう。

お蝶が外の世界から見た空、それから始まる人生によって、彼女の内面世界もまた大きく変化し、あの美しい梅の庭の光景もまた色を変え、移り変わっていくのだと思います。

 

 

 

完全版・夜の画家たち―表現主義の芸術 (平凡社ライブラリー)
 

 

広重 名所江戸百景/秘蔵 岩崎コレクション

広重 名所江戸百景/秘蔵 岩崎コレクション

 

 

*1:wikipediaより脚注1、2

モノノ怪考察おまけ・「海坊主」の図像モチーフ

 「海坊主」そらりす丸吹き抜けの壁絵

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下部分

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クリムトの絵画が組み合わされているように見えるので検証してみました。

 

まず中央の男女が抱き合っているシーンですが、

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ベートーヴェン・フリーズ≪第3場面-歓喜・接吻≫1902年

高さ216cm ガゼイン・塗料・漆喰・塗金 分離派館

裸体の男女が抱き合っているという構図はほぼ同じですが、「海坊主」の絵は反転しており、《歓喜・接吻》の方では女性の顔は見えません。

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そしてもう一つの男女のモチーフがこちら

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 『成就』1911年 194 x 121 cm ブリュッセル、ストクレ邸

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女性の眼を閉じた表情、右手の形が共通しています。

 

また、壁絵の左下にある黒い魔物の様な図はクリムトの「水の精」がモチーフでしょう。

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《水の精》1899年頃  油彩・画布 |82×52cm  オーストリア美術館(ウィーン)

こちらも反転しており、「海坊主」の方は女性の顔ではなく、骸骨の様な造形になっていますね。

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「海坊主」壁画左下の怪物のようなものは、《水蛇》の右下にいる深海魚のようです。

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1904-1907年  ミクスト・メディア・羊皮紙| 50×20cm
オーストリア美術館(ウィーン)

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魚の体と口の部分が省かれて、一つ目のお化けのようになっていますね。

本編の図像考察

「海坊主」本編では、アヤカシの世界が逆さまに描写され、異形を垣間見た薬売りが逆になった船内に立つ、というシーンが幾度かあります。

「逆さま」という構図を、物語の構成と共に考えてみます。

源慧殿の語る過去の話に、天秤は反応しませんでした。そして彼が話す回想シーンでは皆が水中にいる幻が現れます。

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この画面も、やはり「逆さま」です。

源慧殿が最初に語った真と理は

「結ばれないと知りながら妹を愛していた。だが自分の勇気の無さで彼女を死なせてしまった、その鎮魂のために修業を続けていた。」

「無念のうちに死んだお庸の哀しみと怨念が海坊主を生んだ」

と言うものでした。

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回想を語る最中、若かりし頃の源慧殿が現れますが、彼は何故か逆さまになったまま話を続けます。

 しかし、この真と理では退魔の剣は抜けません。この真と理は不完全であり、「食い違っている部分がある」と当たりを付けた薬売りは追究を続けます。

回想の中の源慧殿の本心、それは「出世してえんだよ!」という僧侶ににつかない俗物の考えでした。身を挺して兄を救おうとする妹の決意に対し「馬鹿だコイツ」と思ってしまうような、人でなしともいえる人間の考え。

しかし、そんなことを考えている兄に対し、妹のお庸は

「お庸は兄様の事ずっとお慕い申し上げておりました」

と告白するのです。このセリフは、先ほどの不完全な回想でも語られた言葉です。

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自分の怖れの正体に気付き、苦しみだす源慧殿の背後の絵はまたしても逆さまです。

「結ばれないと知りながら妹を愛していた。だが自分の勇気の無さで彼女を死なせてしまった、その鎮魂のために修業を続けていた。」

「無念のうちに死んだお庸の哀しみと怨念が海坊主を生んだ」

この話は、発端がちがっていたのです。

元々、青年の源慧殿は妹の事など眼中に無く、出世の事ばかり考えている俗物でした。「妹との禁断の愛情と言う部分」は嘘であったわけです。しかし、自分の代わりに柱となった妹の

 「お庸は兄様の事ずっとお慕い申し上げておりました」

という最期の言葉で始めて、「愛される歓び」を知った。妹への愛情が彼の中で大きな意味を持ち彼の心を縛っていたという事実は、発端と経緯こそ違っていましたが、唯一の真実であったのです。

「本当は俗物で、妹の事は眼中に無かったが、彼女の言葉で初めて愛される歓びを知った、妹の高潔さに対して醜すぎる自分の本心を直視できず、修業に励んだ」

「醜い自分の本心を消してしまいたいと言う羞恥心と後悔が、モノノ怪を生んだ」

これが、「真」と「理」だったのではないでしょうか。

逆さま、というのは「すべてが偽り」と言うのではなく、

「お庸は兄様の事ずっとお慕い申し上げておりました」

という愛の言葉は確かに有ったけれど、その経緯を隠したい本心ゆえに正しい形で語れなかった、という有様を表わしていたのではないでしょうか。

お庸の言葉で「愛される歓び」を自覚せず、ただ彼女を見殺しに出来るほど過去の源慧どのが人でなしであったのなら、彼の心の内の「後悔」が肥大したモノノ怪、海坊主は生まれなかったのでしょう。俗物ではあるが、彼が根は愛を理解できる人間であり、妹からの愛情を深く自覚したからこそ、そんな自分が許せない、消したいという歪みが生まれてしまったのでしょう。

ファム・ファタル

クリムトの描く、「水の精」など、妖しくも美しい女性は男性の運命を狂わす「宿命の女」(ファム・ファタル)として描写されています。海中に潜む「水の精」や人魚、セイレーンなども、男性を惑わす不吉な海の魔物です。

「海坊主」でも、人々を海底に引きずり込むモノノ怪の正体はお庸の怨念である、と当初は思われていました。しかし、実際はお庸は怨念を抱く事なく海の柱となり、モノノ怪の正体は「妹への愛が全ての発端だった」と偽った原慧どのの「本心」でした。

「怪~ayakashi『化猫』」でも、「女の情念とはまこと恐ろしい」と当初は言われていましたが、実際にモノノ怪を生んだのは武家の男たちの身勝手な欲望だったわけです。

その女性がまるで「宿命の女」だったかのように語った「海坊主」と「化猫」の構図がありましたが、「海坊主」そらりす丸の壁絵は、本来『歓喜・接吻』『成就』が組み合わさった二人の愛がテーマだったはずです。

薬売りが妹への愛情にまつわる真と理を明らかにしたとき、幻が消え、男女の抱擁の壁画が正位置へと戻ります。

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深読みするならば、源慧殿の名前は、慧が「真理を明らかにする」であり、源が「始まり」、つまり「元々あった始まりの真理を明らかにする」という物語の意味が込められていたのかもしれません。

物語の最後、その身が生んだモノノ怪を斬られ、記憶を取り戻した源慧殿は、後悔と共に妹からもらった「愛情」を今度こそ自分のものとして、始まりの感情として受け取ることが出来たのでしょう。

 

おまけ

 現在連載中のモノノ怪コミックス版『海坊主 上』を読んでみましたが、「怪~ayakashi『化猫』」の若干口が悪く、俗っぽく描かれている薬売り像と、モノノ怪シリーズのやや人間離れした薬売り像が違和感なく引き継げるよう工夫されており、要所要所の解説の台詞が追加されているので、コミックスとして読むうえで親切な内容になっていると感じました。作画はアニメ準拠という粋を越えて、背景人物に至るまでアニメ作画の完全再現と言ってもいい徹底ぶりです。幻殃斉が好きな方にはにお勧めいたします。

 

モノノ怪-海坊主- 上 (ゼノンコミックス)

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モノノ怪 弐之巻 海坊主 [DVD]

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